吊るされた男3~工兵士官の正妃就任②
アスンシオン帝国は、ユーラシア大陸中央北部に位置する大国である。主な領域は南オビ海に流れるエステル川流域であり、この河川交通を主として発展した。
現在では豊かなこの地域も、ラグナ族が繁栄する前、ヴァルキリー族の支配時代には、内陸性気候の乾燥した寒冷地で、農業生産などまったく見込めない不毛の大地だったという。
それが、ヴァルキリー族の勢力が後退した時代、アラル海と南オビ海が繋がったことで、一気に暖流が流れ込んで、現在のような温暖な気候になった。
ラグナ族の伝承では、この地域を最初に治めたのは、建国王マカロフである。
約3000年前、彼は配下のラグナ族の一部族を率いて、この新たな土地に進出、跋扈する異形の種族を駆逐し、女神シオンの力を得て、アスタナの地にアスンシオン市を建設した。
建国王マカロフは聖剣レーヴァティンの力を宿し、その特殊な力を子孫に継承しているといわれる。
最近の記録では、約200年前の帝国最絶頂期に“聖剣レーヴァティン”は現れ、その強力な力で、帝国の最大版図実現に貢献したとされる。
ラグナ族の多くが信仰している啓蒙思想、“マキナ教”では一夫一妻の男女平等主義である。ラグナ族はこの地に移住する前からマキナ教徒であり、法治的な思想を持つ文化的種族だった。
ところが、“啓蒙の法”の思想とは明らかに外れる、後宮のような一夫多妻、女性の人権が制限される施設が建設されるのは、この“聖剣レーヴァティン”の存在によるという。
この“聖剣レーヴァティン”は、武器ではない。
皇帝の娘にごく稀に産まれる特殊な力“ヴェスタの加護”を持つ処女だけが使える特殊能力のひとつである。
建国王マカロフも、200年前の愚帝ダーインも、本人が“聖剣レーヴァティン”を使うのではなく、使うのはその娘だった。
もっとも、王にとって娘とはその権力を維持するために使う武器の一つといえるかもしれない。
だから、後宮は若い娘を集め、皇家の血筋の子を孕ませるという目的で設置される。
これは、皇帝の男性的欲求を満たすための快楽や、皇家の血筋の確保という側面だけでなく、“聖剣レーヴァティン”を持つ娘の誕生の期待という実利的側面があるのが大きい。
このような利点があるため、後宮という制度が彼らの思想信条“啓蒙の法”に反する行為であっても、歴史の中で度々設置され、未だに無くならない。
また、このような歴史から、アスンシオン帝国における皇帝の地位は絶対的なものといえる。
この皇帝を補佐し忠誠を誓う存在として、皇帝によって身分を賜った貴族という存在があり、社会的な特権を与えられている。
そして、これは人間として根本的な問題であるが、貴族は与えられた特権を濫用し、自らの私利私欲を満たそうと堕落する者は後を絶たない。
3年前のバイコヌール戦役は、カラザール市を領するテオドル・コンテ・カラザールが帝国へ叛旗を翻したという理由で開戦した。
ただし、当時から帝国に忠実な武人だったカラザール伯が、反乱を起こした原因について、領地を隣接するバイコヌール公との対立によるものと囁かれていた。
バイコヌール公は貴族の特権を濫用して利益を貪る、典型的な堕落者と知られていた。
だが、バイコヌール公は帝国七公爵家のひとつである。両者の対立の裁定に、名門貴族らを始めとしてバイコヌール公の方に強力な根回しがあったとされる。
先帝アヴァルス三世は、人は良いが、気が弱く周囲に流されやすい人物だったという。
貴族たちの専横を許し、名門貴族の主張に偏った裁定を行って、バイコヌール公を支持、カラザール伯を追い込んだ。
さらに、実力を考えず派閥人事で任命した無能な司令官、その杜撰な作戦計画で討伐軍を繰り出し、失敗し続け、戦争は泥沼化という道を辿る。
現在の宰相であるテニアナロタ公が総司令官になってからは、軍事力ではなく、外交的、妥協的な方法で事態の解決が図られた。
カラザール伯は、テニアナロタ公から示された和解案に応じ、皇帝の権威を承認して忠誠を誓い、人質を出して再び帝国の傘下に戻ったのである。
この戦争は貴族特権の膿を吐き出させた。
本来は皇帝を補佐するためにあるはずの貴族達が、いざ戦ってみたらロクに任務を果たさず、味方の成功を妬んで脚を引っ張り、カラザール伯軍の鋭敏な動きにまったく対応できなかったのだ。
戦後、帝国を指導したテニアナロタ公は、皇家への忠誠心に対して非常に厳しい人物である。
皇后が提案した後宮設置案を積極的に支持し、自らの娘を第一に入宮させたのも、他の貴族達に徹底した忠誠心を示すよう促すためである。
また、帝国は多くの貴族が地方の領地で暮らしていたが、これを認めず、有事や冠婚葬祭などの特定の要件がない場合は、当主か世継ぎのどちらかを必ず帝都で暮らさせるようにした。
後宮の設置で娘を出させることも、本人か息子を帝都で暮らさせることも、簡単に言えば人質である。
だから、ヴォルチ家のアンセムも、ほとんどの期間、自分の領地ではなく帝都で暮らしている。
だが、テニアナロタ公のこのような貴族に対する改革案に従わない者もいる。
イリ家の当主マクマード・コンテ・イリは人質を出さず、帝国政府の出頭命令にも病気と称して従わない。もちろん後宮に娘を差し出したりもしていなかった。
イリ市は、タリム共和国やハイランド王国と隣接している帝国南方の要衝地域で、異種族の多い不安定な領地である。
極秘裏に帝国政府によるイリ伯の調査が行われた。それよると、彼は隣国への武器の横流し、反政府勢力への援助など、様々な不正に手を染めていた。また、担当医を自供させたところ、病気も仮病であるという。
帝国政府はさらに厳しい警告を持ってイリ伯に出頭を命じたが、彼はあろうことか南方のハイランド王国に秘密同盟を申し出た。
しかし、ハイランドはアスンシオンとは友好関係にあり、イリ伯が求める秘密同盟を自国の権益に利用せず、それをタレこまれてしまったのである。
ハイランド大使より正式な通告を受けた帝国政府はイリ伯に対する領地没収を決定、皇帝に対して討伐を奏上する。
そして数日後、皇帝は懲罰動員を決裁し、出征を宣言した。
しかし、イリ伯もアスンシオン帝国と友好関係にあるハイランド王国に援助を要請すれば、露見する可能性が高いことは簡単に予測できる事で、相当に追い詰められているのが分かる。
また、出兵に際し、政府や陸軍、参謀本部からは経験ある将軍に一任するように上申があったが、皇帝はそれを認めず、自ら軍率いて処断することを決意した。
皇帝リュドミルは皇太子時代、バイコヌール戦役で第二次救援軍を率いて大敗したことがあり、市民から軍事的名声を失っていた。
彼は、この討伐を帝国政府と国民に対して、不正や腐敗を許さず、自ら強力な指導力で以って国家を安定させるという決意を示す良い機会だと判断したのだろう。
そして、この出陣を前に、後宮から出発する際、彼は妃全員を集め宣言する。
「この度の出陣に先立ち、このアンセム・リッツ・ヴォルチを正式に我が正妃に迎える。今後は後宮の一切の管理をヴォルチ卿に任せる。妃らは、ヴォルチ卿の言を余の言葉であると思え」
妃達からどよめきが起こる。主に、アンセムって誰? という話である。
アンセムは、突然の暴露に驚き、皇帝に抗議した。
「陛下、いきなり暴露しなくても……」
「別に構わないだろう。どうせ卿も隠す気を無くしているのだからな」
皇帝は新しい正妃に告げた。
「イリ伯の領地は遠方だ。今のところ諸外国の介入はなさそうだが、国内には不安材料も多く、今後どのような状態になるかわからない。昨日も言った通り、後宮のことは卿が上手く仕切ってくれ」
正式に正妃になったとなれば、それは当然の役目である。だが、正妃の精神は男だと宣言してから任命しなくてもよいだろうと思う。
しかも正妃を卿と呼ぶなど聞いたことが無い。
「遥か東方の国では、男根を切り取った男が後宮の諸事を取り仕切っているらしいな。まるで卿のようではないか」
「私は望んでこのような姿になったのではありません!」
皇帝に宦官扱いされたのは屈辱だが、事実としてそうなので抗議する部分はないように思える。
「そういえば、今回の出征には君の妹、エリーゼ・リッツ・ヴォルチも参加することになった」
「エリーゼが?」
「彼女たっての希望でな。戦場で手柄を立てると張り切っていたよ」
「そ、それは……」
アンセムは激しく不安になった。妹が戦争に行こうとしている。絶対に行かせたくない。
とはいえ、今の立場は、妹が男で皇帝に忠誠を示し軍役を課せられた貴族である。
もし、これが逆の立場なら、皇帝陛下の直々の出陣に士気が高まらないわけがなく、彼は絶対に参加しただろう。
3年前、家族に戦争に行くと告げた時、妹のエリーゼは笑顔で応援していると言って送り出した。さらに妹は「私の分まで手柄を立ててきなさい」等と勝気な事を言っていた。
だが、その笑顔の裏に、こんな気持ちが隠されていたのだ。彼はそれを妹の身体に教えられてしまった。
「心配いらんよ。正妃の兄という立場だ。私の傍に置いておく。無茶はさせないさ」
「……」
陛下の提案は安心させる言葉ではある。だが、自分の家族だけ優遇されて安全に置くということは、他の者を危険な状態にするということだ。それは果たして、貴族の行いとして正しい事なのか……
皇帝はその日のうちに、帝国の精鋭、第1師団と第4師団の合計40000の兵力を率いて進発した。
軍隊の行軍速度ではイリ伯領まで片道約一か月かかる行程である。




