吊るされた男3~工兵士官の正妃就任①
翌朝。
アンセムの部屋に出仕したマイラは、ノックしても応答がなかったため静かに入室した。
昨日は、妃達の解放の手続きと、彼女達の健康診断などの為に、夜遅くまで戻れないから、朝に起こしに来て欲しいと頼まれていたのである。
部屋の中に誰かいる様子だったので、おそらく夜中に戻ったのだろう。
だが、静かに応接室に入ったマイラは部屋に脱ぎ捨てられたドレスが2着あることに不審に思った。片方は明らかにアンセムのものではない。
奥の寝室を覗くと、2人の女が寝ぼけた表情で上半身を起こしている。両者とも裸であった。
乙女のマイラであってもこの男女がどういう事をしていたのか容易に想像がつく。
「お嬢様……?」
片方は間違いなく、マイラの主人であるアンセム、片方の当事者は、全ラグナ族女性の敵、篭絡の淫魔アリス族のメトネである。
メトネは、ゆっくりとダブルベットから降り、傍に合った大きめのタオルを身体に巻きつけるとマイラの方に向き直った。
「おはようございます、マイラさん。今日からアンセム様の愛人になりましたメトネ・バイコヌールです。これからよろしくお願いいたします」
メトネは可愛らしく頭を下げて挨拶した。その小悪魔的な表情と仕草はアリス族独特のものである。
「あ、愛人…… お嬢様、どういうことですか?」
マイラは穢れた物を見るような表情で、アンセムに詰め寄った。
「まぁまぁ、女を部屋に連れ込んだだけだよ。男の世界にはよくあることさ」
「よくあることって…… “マリル行為”は後宮では重罪です!」
「いやいや、陛下からも承諾を受けている。身体が女になったからと言って、心まで女として振舞う必要はない。ってさ」
アンセムが愛人を連れ込んだことも驚きであったが、同時にマイラは大きな敗北感に打ちのめされていた。
メトネはそれらを見透かして、勝利宣言するかのように誇った顔をしている。
マイラはそれまでアリス族に対して特別な排斥意識を持つ事はなかったが、この時ばかりは、その陰湿さに嫌悪感を生じずにはいられない。
しかし、突然の来訪者はメトネだけではなかった。
部屋をノックする音がしたので、マイラが戸を開ける。すると今度はテーベ族のパーラーメイド、パリスが立っていた。
パリスは畏まって挨拶をする。
「本日よりアンセム様の侍女を承りましたパリス・テトラ・チュソヴァヤです。よろしくお願いいたします」
「え、パリスさんが侍女ですか……」
確かにマイラは、アンセムに対してあと1人侍女が付けられると説明した。しかし、こんなに突然現れるとは聞いていない。
「お嬢様、これはどういうことですか?」
「見てのとおり、要望のあった追加の侍女が来ただけだよ」
「……随分といきなりですね」
補充のレディメイドの件は、事前に提案した事であるからともかく、後宮内で妃のひとりが、他の妃を愛人として部屋に連れ込むなど前代未聞である。
マイラは、今までも理解していた事であるが、改めて男というのはなんと自分勝手な生き物なのだろうと思った。
メトネは自分でドレスに着替えると、マイラに促す。
「マイラさん、アンセムが裸のままじゃないの。早くお召し物を~」
「あ、すいません……」
メトネにそう指摘されて、マイラは素早くアンセムにドレスを着せる。
しかし、マイラはなんでそんなことをアリス族の娘に言われなくてはならないのかと内心不満だった。
アンセムは着替えを終わると、彼は慌ただしく仕事に出た。今日も陛下に報告事項があるらしい。そして、メトネは彼の後を追うように部屋を付いて行く。
騒々しい2人が去ると、部屋にはマイラと、彼女の新しい同僚になったテーベ族のパリスが残された。
テーベ族は家事が得意な種族である。彼女はさっそく機敏に家事をこなしている。おかげでマイラがやろうとした家事仕事は、あっという間に片づけられてしまった。
あまりの手際の良さにマイラはただ呆然と立っているだけだ。
しかし、パリスはなぜ、アンセムの侍女を引き受けたのだろう。数多の貴族からの誘いを断っていたのにも関わらず、突然である。
マイラは興味があって、新しい同僚にその理由を尋ねてみた。
「パリスさんは、どうしてお嬢様の侍女をお引き受けなさったのですか?」
「それは…… そうですね。少しだけ遺伝子の決めた運命に逆らってみたかったから、でしょうか」
「運命に逆らってみたかった?」
「マイラさんは、私達テーベ族の女が“破瓜の呪い”に囚われているのをご存知ですか?」
テーベ族の女性は、男性によって処女を失うと自我を喪失し、その相手にただ盲従するだけの存在になってしまう。
他の種族からすれば、女性の意志とは関係なく他者の奴隷にされてしまう恐ろしい肉体の病気“破瓜の呪い”と呼ばれていた。
「私達テーベの文化では“破瓜の呪い”を悲しい事だとは考えていません。仕える主人だけを愛し、生涯服従することが、テーベ女性の愛だと教えられていますし、それがテーベ族に生れた娘の使命であり、誇りであると考えているからです」
都市国家のテーベ族は人が財産であり、敗戦となった場合は賠償として人が支払われるのが通例である。もちろん、差し出された娘が、意にそぐわない主人によって強制的に服従されてしまう状況は容易に想像できる。
それでも、彼女達は自らの仕える主人にすべてを捧げて働くのが喜びだというのである。
「でも、やっぱり私は、自分の意志でいたい。まだ、やってみたいことがあったんです。自我を失うなんて嫌です。だから、私は祖国の敗戦を機にこの国に亡命してきました」
マイラはその通りだと思う。
ラグナ族の文化的思考からすれば、平然と自我崩壊を受け入れているテーベ族の娘の方が異常であり、彼女の考え方は当然に思える。
女性の権利意識の強いラグナ族では、男性に抱かれると自我喪失して盲従するという肉体的特徴は、到底受け入れられない。
むしろ身体的欠陥、病気の類だと思う。
テーベ族はラグナ族の諸派であり、両種族は古き時代からよく混血しているため、稀にラグナ族でも“破瓜の呪い”を受けた娘が生れる。その場合、ラグナ族の文化ではそれを身体障害、病気のひとつとして扱っている。
「それでも、私はテーベ族の娘です。魂にはテーベの文化が、遺伝子にはテーベの血脈が刻み込まれています。この国に来た時も、後宮に入った今でも、良き旦那様がいればいつかお仕えしたいと願っていました」
「だから、お嬢様に?」
「お嬢様…… 旦那様は、そんな私を侍女にしたいとおっしゃいました。今の旦那様の身体なら、私の自我が失われる事はありません。すべてを主人に捧げて、お仕えすることができます」
「女性の主人ではダメなのですか?」
「テーベの女性は男性の主人しか認めないのですよ」
マイラは思った。
自分は、金銭的な関係で仕方なく侍女になった。しかし、パリスは自ら望んで侍女をしている。彼女達のテーベ文化では愛する主人のために一生仕える。それが当たり前なのだという。
人間は、種族や性別によって能力だけではなく考え方も違う。
ラグナ族の男性は皆、眉目秀麗であり、色恋沙汰の多少はあるのが当たり前という考え方。貴族という権力者の男子ともなれば、結婚していて当然、さらに愛人がいて、貴族審査委員会の認可があれば重婚も認められている。
女性は、容姿端麗で情熱的、そして恋愛に積極的。とはいっても、男性のように自らアプローチするというわけではない。数多の種族の中でもラグナ族の女性は特に美しいので、声を掛けたくなるように容姿に磨きをかけているというべきだろう。
ラグナ族の男女の関係は、種族として対比される雌雄の関係としては、極めてお似合いともいえる。だから、他の種族からラグナ族は繁殖欲旺盛な色欲種族と揶揄されることもある。
でも、そういう文化はラグナ族だけにしか通用しない考え方かもしれない。
ラグナ族とテーベ族は外見的にはほとんど違いはないのに、僅かな肉体の違いで、こんなにも文化や思想が違う。
マイラが仕えているお嬢様は、外見上では完全にラグナ族の女である。
だが、精神は男のそれであり、その行動は明らかに女とは違う。ラグナ族の中の女性にも、自分を男性だと思う人、男性にも自分を女性だと思う人がいるが、それとも明らかに行動が違っている。
種族と性別、それは遺伝子で決まるものだが、その差は精神の何を変えるというのだろうか。
「きゃあっ!」
「どうしました?」
洗面所で掃除をしていたパリスが急に悲鳴を上げている。
慌ててマイラが駆け寄ると、洗面台の上で座り込む、メトネの飼い猫“しょぼん”が間の抜けた顔でこちらを見ていた。
「マイラさん、私達テーベ族は動物が大の苦手なんです…… あ、あの生き物をよけてください……」
パリスは、震えながら猫を見ないように示している。
それを見て、マイラはすぐに“しょぼん”を抱え上げて居間に移動した。
いつもクールで仕事をテキパキとこなし、肉体の運命に逆らってみたかったと強い心でアンセムに仕え始めたパリスが、猫には触れないという話を聞き、マイラは急に可笑しくなった。
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その日から、アンセムの部屋は一気に2人と1匹が増えた。そして、新しい居住者は、まったく対象的な動きを見せる。
メトネは、ほとんど動かない。普段はソファーにちょこんと座っているだけである。アリス族の考え方では、微笑んで座っていれば誰かが仕事をやってくれ、おねだりすれば必要な物を誰かがプレゼントしてくれるのだという。
テーベ族のパリスはレディメイドとして、恐ろしい程の手際の良さで家事の全てこなした。メトネどころかアンセムの分まで家事こなすので、マイラの仕事はまったく無い。
いや、マイラには重要な仕事があった。メトネのペット“しょぼん”の世話である。テーベ族は種族的に動物や虫が大の苦手なので、必然的にマイラが世話する事になったのである。
マイラは、飼いネコの世話担当になったことに、かなり不満だったが“しょぼん”の間の抜けた顔をみていると、そんな憂さも少しは和む。




