吊るされた男1~男と女の戦術的思考④
「まったく、あの新入りの子、私達への当てつけかしら!」
アンセムが昼食の席から早々に立ち去った後、第2妃ミリアム・デューク・アティラウは、ずっと第39妃エリーゼ・リッツ・ヴォルチの悪口を言っていた。
「おしゃれも知らない貧乏貴族の分際で、ミリアム様に対して挨拶が無いなんて生意気にも程がありますわ」
「あんな田舎者、相手にされていては臭さが移って紅茶の香りが台無しになってしまいますわよ」
ミリアムの取り巻きである第13妃エーレ・ヴィス・スヴィロソフと、第23妃ラリサ・コンテ・ネッセルローゼは、すぐにミリアムの意見に同調している。
彼女達、いわゆるミリアム派の妃達は、早くもアンセムのことを毎日のように中傷し始めている。
彼女達と対抗する勢力である第1妃マリアン・デューク・テニアナロタとその取り巻きの妃達は、ミリアム達とは少し控えたところにいたが、それでも内心、エリーゼへの強い嫉妬心に捕らわれていた。
彼女達は、皇帝と1年近くも一緒に暮らしていて、誰一人お声が掛からないのである。
それが、入宮初日で陛下に見初められたという娘に対し、嫉妬しないわけがない。
「マリアン様、あのエリーゼとかいう新入りの子、私達を小馬鹿にしていると思いませんこと?」
ミリアムはマリアンに問いかける。
マリアン派の妃達は、いつも何かにつけて対抗意識を剥き出しにしてくるミリアム達と仲が良くなかった。
それでも約1年間、お互い陛下の気を惹こうと美容を競い合い、情報交換をしていたのは事実である。
それが第三者によって皇帝の寵愛の座をあっという間に奪われたのだから、彼女のような純真な心を持つ者でも酷く傷ついていた。
「そうですね…… エリーゼ様がとても羨ましいとは思いますわ」
マリアンは素直な感想で返す。しかし、この言葉をミリアム達は自分たちに同意したと思い、かつマリアン派の妃達も、ミリアムに同調し始めたようであった。
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翌日、アンセムは第5妃タチアナ・リッツ・タルナフ、第33妃ソーラ・リッツ・レルヒェンフェルト、第20妃ニコレと一緒に朝食を摂っていた。
「あれ、なんかスープに入っているなぁ」
アンセムが食べていたコーンスープに、黄色いイモ虫のような生き物が入っている。
それは綺麗に茹で上がっていて動かないが、一見して明らかに虫とわかるグロテスクな外観だ。
「大変、すぐに取り換えて貰わないと」
隣にいたタチアナは驚いてキッチンメイドを呼ぼうとする。
しかし、アンセムは表情も変えずにそのイモ虫をスプーンで拾うと、皿の脇に除けた。
彼の知識では、その虫はミールワームというゴミムシダマシ科の幼虫であろう。ゴミムシダマシは穀物害虫で、食糧庫に良く湧く。
幼少の頃は、この虫を川釣りの際にエサとして使用していたものだ。
しかし、ここにいる妃達はこんな虫は知らないだろうし、触れるどころか見るのも嫌うに違いない。
事実、スープからテーブルに出された虫を見て、妃達の一部は悲鳴を上げている。
「このスープを作ったキッチンメイドを呼びつけて処罰するべきですわ!」
第8妃プリムローザ・コンテ・ドノーは、怒りに任せて強く言い放った。
しかし、当のアンセムはまったく気にしていない様子である。
「いいよ、もったいない。虫なんか除ければいいじゃないか」
彼が3年前のバイコヌール戦役で戦ったアタス砦の包囲戦では、虫入りの食事なんて当たり前だった。籠城末期には食糧が欠乏し、1日でおがくず入りの汁だけという日もあったのだ。
さすがの彼も、今では食事に入った虫ごと食べたりはしない。けれども、そのスープも含めて、何事もなかったようにそのまま食事を続けている。
それにミールワームというイモ虫自体、これを食べる習慣の文化も存在する。ただラグナ族の文化で嫌悪されているというだけに過ぎない。
周囲にいる妃達からは「汚らしい」という呟きが聞こえるが、彼はまったく気にも留めていなかった。
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だが、それは始まりに過ぎなかった。
アンセムの周囲は急に、あからさまな嫌がらせと思われる事件が続いたのである。
その日の午後、彼は侍女のマイラを連れて図書館へ向かうと、掲示用の黒板に中傷的な文言が書かれるのを目撃した。
不潔―― 臭い―― 売女――
黒板には、ヴォルチ家を示すクローバーに円陣の紋章に似せた絵が描かれ、その下にそのような文言が大きく書きなぐりされている。
それを見て、アンセムの後ろに控えていたマイラは蒼ざめた。
「大変、メイド長に報告しなくちゃ……」
だが、マイラの心配を他所に、当のアンセムはまったく気にも留めていない。
「え、これの何が問題なの?」
アンセムは、この書き込みの文言に何の侮辱も中傷も感じていない。
「不潔」「汚い」という文言は女性がよく使う表現で、妹のエリーゼや元彼女のミュリカもよく使っていた。
だが、一般的な男にはあまり響かない。
髭や体毛、汗、そして性欲の存在により、どうやっても男は女よりも不潔で臭いものである。そんな事は女に指摘されるまでもない。
極論すれば、男の世界では、必要以上に清潔にしている男性を指して「綺麗好き」と呼ぶ場合、肯定的な褒め言葉ではない。
ただしこの言葉を、道具などをいつでも使用しやすい状態にしておく「整頓好き」という意味で使うなら、褒め言葉である。
また、売女などと売春婦呼ばわりされても、アンセムは自分を男だと思っているので、特に侮蔑された感じを受けない。
女の部分を男に変えて、売男としたら意味すら通じず中傷にもならない。
むしろ、ラグナ族の文化では、適齢の未婚男性は、女性に対して積極的なのが好まれた。だからアンセムも婚活に熱心だったし、逆に、女欲が低く女性に声を掛けない男性の方が、朴念仁などと呼ばれて侮蔑の対象である。
しかし図書館で求めていた本を借りた後、自室に戻るとアンセムは強い不満を述べた。
「さっき行った図書館は、がっかりだったなぁ……」
「やっぱり、ああいうのはよくないですよね」
マイラは、図書館の嫌がらせの書き込みの事だと思ったが、アンセムの回答はまったく違う。
「だってさ、地形図とか、武器関係の本が全然ないんだもんなぁ」
「後宮でそんな本を読む人はいないと思います……」
アンセムは本の種類に不満を述べている。
予想はしていたが、実用書関係はファッションなどの本が多く、続いて料理や裁縫、園芸などである。歴史や小説関係が充実していたのはまだマシだったと考えるべきか。
彼が探していた攻城兵器の本などあるわけがない。
「ところで…… お嬢様、ここ数日、お食事で他の妃様達から無視されていませんか?」
「え、なんで? メシのとき声を掛けないなんて普通だろ?」
「そんなの男性だけです。それにお嬢様だって、一人で食べる食事は寂しいって、以前、おっしゃっていたじゃないですか」
「メシを食うまではね。食っている間はメシに集中するもんさ。食い始めたらさっさと食う。メシの時間は雑談する場所じゃないだろう」
どこまでも男性的思考な彼女のお嬢様に対し、マイラはやはり気になって尋ねてみる。
「私も、貴族の社交界はよくわからないのですが、やっぱり権力争いとかすごく激しいんじゃないでしょうか」
「そりゃあそうさ。だから、貴族はこんなところに大切な娘を差し出してでも、権勢を振るって威張りたいんだもんなぁ」
「それならもう少し他の妃様達と仲良くされたほうが良いと思います。ミリアム様達は、お嬢様のことを陰で相当悪く言っているみたいですし」
「いや、俺だってミリアムの親父をチン○小さい奴ってずっと悪口言ってたし。陰口なんて男でも女でも同じだろ。何の違いがあるんだ?」
突然下品な物言いをするお嬢様に対して、マイラは嘆息する。
バイコヌール戦役の緒戦、総司令官だったミリアムの父、コンラット・デューク・アティラウの杜撰な計画と指揮により、第一次救援軍はあっという間に総崩れ、帝国軍は散々な目にあった。
その当時から、前線の兵士達によるアティラウ公への罵詈雑言は当たり前だった。アンセムは今でも言っている。
だが、男の世界の“いじめ”と女の世界の“いじめ”は、同じ戦術ではない。悪口ひとつ取っても、その中身はまったく違う。
彼はそのことに気が付いていない。
「今日の出来事は、どうみてもお嬢様への嫌がらせだと思うんですけど……」
「あんな文言で侮辱されたと思う男はあんまりいないかなぁ」
「じゃあ、男性はどういう文言なら嫌がるのですか?」
「そうだな、“ひ弱”とか“仕事ができない”とかかなぁ、あとは…… “チン○”が小さいとか」
また彼女のお嬢様が猥褻な単語を発したのでマイラは顔が真っ赤になった。
後宮では適用されないが、帝国の“啓蒙の法”では、仕事中に異性に対して性的文言を使用した場合は、セクハラ法違反で、罰金刑である。
この法は“勤務中”、“異性に対し”、“プライベートゾーン(水着で隠さなければならない範囲)に関する文言”という限定的な項目があり、他の国にあるような相手側の感情的思考は考慮されず、拡大解釈しにくくなっている。
ラグナ族文化では、女性はか弱いほうが魅力的とされている。また、仕事に対して積極的であることは求められていない。だから、男性に使うような文言を女性に対して使用しても効果は薄い。
帝国では、力強い女性を指して「男勝り」という表現は肯定的な褒め言葉ではない。
このように、性別によって侮蔑の言葉が違うというのは、お互いの意識の違いを端的に表しているだろう。
「とにかく、この後宮では皇帝陛下とメイド長を除けば、公爵家のマリアン様とミリアム様が強い権勢を持っているのです。両方に睨まれたら大変なことになりかねません」
「うーん、マリアンは昔遠くから見たけど、相変わらず優しそう可愛い典型的なお姫様って感じだよな。ミリアムは気が強そうだけど、ああいう高飛車な女をベッドで服従させるってのも男心をくすぐるよね」
「お嬢様……」
マイラは、いつまでも現実を理解していない、婚活気分のお嬢様に対して、呆れた声でしか返事ができなかった。




