吊るされた男1~男と女の戦術的思考③
ある日の昼食後、アンセムは興味があってボイラー室を訪れた。
このような大型で最新式の機械に、男心に興味を惹かれたのである。
ボイラー室内に入ると、胸に青色リボンを付けたメイド服の娘達、ボイラーメイド達がせわしく働いている。
ボイラーは、熱によってお湯を沸かす装置のため、当然、室内の湿度は高く、みんな汗で服を濡らしながら作業している。
温度を調節する者、台車で樽に入れられた燃料を運ぶ者、ポンプを操作する者。
その中で作業しているボイラーメイドの一人がアンセムの姿を認めると、すぐに畏まった。
「妃様、こちらはボイラー室です。どのようなご用件でしょうか」
「ああ…… こんな凄く大きなボイラーは初めてみるものでね。ちょっと興味が出たから覗いてみたんだ。仕事の邪魔をしてごめん」
「ご見学ですね、光栄です妃様。私はボイラーメイド長のフランと申します」
ボイラー長のフランは、額に汗を滲ませながら、いつものメイドの挨拶を行う。
他のボイラーメイド達も合わせて挨拶を行うが、みんな怪訝な顔でアンセムを見ている。
それは当然だろう。いままで大きな機械への興味という理由で、ボイラーを見学に来た妃など一人もいない。
「妃様、ここは防水のためにタールを使用していますので、お肌に触ります」
「いや、大丈夫。しかし、ここの仕事は重労働だろう? かなり大変じゃないか?」
「皇帝陛下や妃様達が健やかに過ごせるよう、大切なお役目だと思っています」
フランはそう答えた。
しかし、ボイラー仕事は普通、男の役割である。後宮のような特異な場所でもなければボイラー室で仕事をする女など帝国内に1人もいないだろう。
燃料の運搬には腕力を使うし、湿度は高く汗だくの重労働。防水塗料は衣服に臭いが付き、肌に悪い刺激的な薬品類もある。若い女性がする仕事にしては、かなり損な役回りだと思う。
侍女のマイラは、ボイラーメイドは宮女採用試験で最も成績が悪かった者、つまり採用ギリギリの点数の者が担当する事が多いと説明していた。
しかし、アンセムはそうは思わない。
工兵である彼の職場はこのような場所だった。そういう場所で働いて滲む女性の汗は美しい。
今も後ろで睨んでいる侍女がいなければ、いつでも彼女を口説きにかかっていたところである。
アンセムはボイラーのセクションを見て回る。
ボイラー室の清掃は行き届いていて、アンセムが昔の勤務地で管理していた施設のボイラー室の様な炭と油で汚れたイメージはない。
しかし、着火用の硫黄剤や防水用のタールの入った黒樽が積み上げられ、そこから発生する酷い刺激臭は相変わらずである。
「ここの燃料は薪じゃないね。高エネルギー物質かい?」
「はい。このボイラーは分割セクション式を採用している大型ボイラーで、油はマテリアを混ぜたエマルジョン燃料を使用しています。それほど高圧力は出ないのですが、継続的な使用と、交換や整備のメンテナンスが容易なので複数人での作業に秀でています」
「なるほど……」
遥かな昔、世界には動植物の死骸が結晶化したエネルギー、化石燃料が豊富にあったという。当時の人類は、それら炭素化合物を燃焼させて湯を沸かしていたらしい。
だから、人類考古学者はその時代を“化石の時代”と呼んでいる。
だが、その時代に地球が埋蔵していた全ての化石燃料は、取り尽されて枯渇し、もうほとんど存在しない。
そのため、帝都で使用する燃料は、森林を伐採した薪や、それを加工した炭、植物から抽出した油を合わせて使用するのが一般的であった。
ただし、植物油はともかく、薪や炭は重くて燃料として運ぶには極めて大変な作業だ。そして、燃やした後に残る燃えカスを処分するのはもっと大変である。
そのため、後宮のボイラーは水と界面活性剤と高エネルギー物質を添加した最も高価なエマルジョン燃料を使用していた。
搬入の大変さは相変わらずだが、完全燃焼するよう性質を調整されているので、燃えカスの撤去の手間は楽である。
ボイラー室で沸かした湯は、風呂場はもちろん、調理場やシャワー室に供給されている。また、後宮全体を温めるセントラルヒーティングが採用されており、蒸気を床下の配管に送り込んで建物全体を温めていた。
このボイラーがあるからこそ、後宮の妃達は、常に適温に保たれた室内で、いつでも入浴できる美容に気を遣った生活ができ、調理場では美味しい料理が簡単に作れて、お茶もすぐに準備できるのである。
人類は、火を使うことで他の動物に対して覇権を得たというが、もう一段階、技術的な面で人類文明の進歩を挙げるとすれば、火によってお湯を沸かすことが挙げられる。
効率的にお湯を沸かすことは、いつの時代の人類にとっても、最も重要な技術課題のひとつなのである。
それは、化石燃料が失われたこの世界でもまったく変わらない。
アンセムは、陸軍工兵科出身の士官である。
工兵とは、歩兵、騎兵、法兵という三大兵科の次に挙げられる兵科で、主に街道の整備、橋梁やトンネルの建設や破壊、渡河支援、陣地の建設と管理、障害の設置や除去、地図作成などを行う。
貴族の士官では騎兵科や法兵科を選ぶ者が多い。工兵の仕事は、騎兵や法兵に比べて、どちらかというと裏方で地味な役割と考えられているからである。
しかし、地味な役割といっても工兵の必要性が陸軍で見下されているわけではなく、工兵出身で陸軍大臣になった者もいるし、手柄を立てれば十分に出世の道は開かれていた。
アンセムはもともと工作や機械が好きで、科学が得意だった。そのため工兵科を選んだのである。
当然、彼はこういう大型機械が大好きだ。最新式の大型ボイラーを見学していると心が躍り出している。まるで新しいおもちゃを与えられた男児のような輝く目をして、細部までいろいろ観察して回っていた。
その様子があまりに真剣な表情なので、周囲のボイラーメイド達も気が気でならない。
「お妃様は機械がとてもお好きなのですね」
「え? あ、ああ」
フランの質問自体、彼は女になってしまったという事実を実感させる。
好きな機械の種類、程度の差こそあれ、機械の嫌いな男などいない。
普通、こんな質問を女は男にしないだろう。
しかし、アンセムが機械を隅々まで見ていると、外見上は綺麗に設置されているが、雑な部分がかなりあった。
「これ、ここに防振ゴムが設置されてないけど、振動とか大丈夫なの?」
「えっ? 仕様書には書いてありませんでしたが……」
アンセムは一通り見学し終わると、今度は逆にボイラーメイド達に質問を始めた。
ボイラーの管理は、通常の女性が望む仕事ではない。帝都には女性にボイラー管理を教える学校は存在しない。だから全員が機械の素人で、実は入宮前に三か月程度の講習を受けただけだという。
ボイラー長のフランですらその有様であった。
一応、マニュアルは丁寧に作られているようなので、皆熱心にそれを確認しつつ作業しているようである。
ただし、それではマニュアルにない事はできない。特に設置に関しては、マニュアルに書かれていないことはたくさんあった。
後宮では外から専門の熟練した男性技術者を呼んで指導を受けるという事が出来ないのである。
だから工兵のアンセムには、当然ある場所にあるはずの設備がなかったり、経路に不要な装置があるように見えた。
とりあえず、アンセムはすぐに効果がありそうな場所から改善を提案する。
ボイラーメイド達はアンセムの知識に驚いていた。それは、知識の内容自体か、貴族出身の妃が機械の知識に詳しい事であるかは不明であるが、おそらく後者だろう。
さらにアンセムは自ら十字レンチを使って、力の入れ方、ナットの締め方まで詳しく説明している。
ドレス姿の妃がレンチを持ち、作業する姿は奇妙であるがそれはそれで美しいかもしれない。
しかし、説明に熱中しすぎた彼が最後に発した解説は、ボイラーメイド達の顰蹙を買うのに十分であった。
「ナットを締める時は女性を抱きしめる時のように、優しくゆっくり、だけど逃がさないように最後までキュッと締めるんだ」
この説明を聞いたボイラーメイド達は、みんな唖然としたという。




