吊るされた男1~男と女の戦術的思考②
アンセムは、皇帝の部屋から戻る際、すぐに自室に戻らず、第四妃棟の前に隣接した庭園に出た後、梯子をかけて棟の屋根に登っていた。
そして屋根の上で仰向けになり夜空を見上げる。
皇帝の部屋に行く時は、後宮の妃が着る部屋用ドレスに、侍女のマイラが着せた厚手のガウンを着ているだけなので、冬の寒さが肌を刺すようだ。
しかし、彼にはその冷たい空気が心地よかった。
ただし、屋根の上でドレス姿の美姫が大の字になっている星空を眺めている姿は、外見的にはかなり滑稽といえる。
帝都の夜空には、白き女神の輝星エルタニンと、赤く禍々しい凶星アアルがひときわ明るく輝いている。
古き伝説では、夜空に輝く星はもっとたくさんあったといわれている。しかし、今、明るく輝き闇夜を照らす星は、この神々の名を冠する2つだけ。
この白い星と赤い星を扱った神話や伝承は世界各地に存在する。
不思議と、そのどれもが白い星エルタニンを肯定的に捉えていた。神の星、願いを叶える、正義の星などと呼ばれている。
逆に、赤い星アアルの方を、願いを打ち砕くとか、悪魔の星とか、争いを招くなどと、禍々しく扱われていた。
きっと人間の心には、時代や文化は違ったとしても、宇宙の輝きが持つ何かの大きな事象に対して不思議な共通認識があるのだろう。
アンセムはこの美しい夜空の星々を見上げて考える。
アンセム・リッツ・ヴォルチは、幼い頃から帝国軍人だった父の傍ら、いつか大きな手柄を立てて、皇帝の傍で活躍できるような立場に出世したいと夢見ていた。
貴族には様々な特権があるが、同時に軍役の義務があり、一族の誰かが軍務に服さなければならない。
当主が軍人になる場合が普通だが、病気やその他の理由で軍役に就けない場合は、親族の誰かが軍関係の職務に就く必要があった。
だから、将来的な事を考え、次期当主候補の男子はほぼ全員が士官学校に入る。
もちろん、彼はヴォルチ家の次期当主としてその名に恥じないよう、名誉を示さなければならない責任があったし、彼もそれを欲していた。
バイコヌール戦役で、第一次救援軍に参加を志願したのも、若い彼は名誉を欲したからである。
エリーゼの入宮を積極的に進めたのだって、父の遺言などと自己弁護しているが、実際は名誉を欲していたのだ。
もし、本気で妹を後宮に入れたくないなら、叔父達に何と言われようと断る。なるべく波風立てないような工夫した断り方はいくらでもあった。
結局、社会に対して少しでも出世したいという彼の欲望が、妹を入宮させるという父の遺言を実行させたのである。
これは社会で働く男なら特異な事ではない。至って平凡な普通の願いだろう。
自分のような下級貴族の人間にとって、皇帝なんてこの夜空の星々のような天上の存在で、よほど実績を積まなければ会話もできない相手だったはず。
ところが……
それが今の自分は、何の実績も積まず、何の名誉も得ていないのに、いきなり陛下に直接進言できるような立場になってしまった。
「これが、俗に言う女の“玉の輿”ってやつか」
思わず自分の立場について、自分で皮肉を言う。
玉の輿が女の幸せなのか、名誉ある立場で仕事ができるのが男の幸せなのか、なんともいえない不思議な感覚である。
彼は、そのような自分の気持ちの変化に対する高揚を癒すため、いつも屋根に登って夜風に当たり、星空を眺めていたのであった。
アンセムが真っ暗な空を眺めて心を落ちつけていると、彼の世界へ梯子をかけてゆっくりと入り込んでくる娘がいた。
その妃は慣れない様子で慎重には梯子を登ってくると、屋根の上をゆっくりと這いながら、静かにアンセムに近寄ってくる。
「また、ここにいたのですね」
第21妃メトネ・バイコヌールは、アンセムがここで夜空を見上げるようになってから毎晩現れた。そして日を追う毎により近づいて話し掛けてくる。
「毎晩夜空を眺めていらっしゃるなんて、随分と感傷的なのですね」
「いや、芸術的な気分で眺めているわけじゃないよ」
「じゃあ、何のためかしら?」
「東風微風、気温4℃、晴天。明日も帝都は快晴だな」
「ここで天気を気にされているなんて…… 本当に殿方みたいなことをいうのですね」
彼女はクスクスと可愛く微笑む。
工兵の職務には、気象予報も含まれる。アンセムの気象学は基礎知識レベルであるが、それでも工兵士官学校時代の成績は良い方だった。
夜空を眺めるのは、男っぽく孤独を好んで自分の人生のこれからについて自問するというところもあるが、後宮という閉鎖空間での生活でも、外の広い世界の空気に触れていたいという思いもあるのだろう。
「どんな男性も、一人になっている時は大きな世界を思い憧れているものですわ」
彼女の指摘は図星であり、表情や態度からも、既に何か薄々気がついているようだった。
しかし、アンセムはもうほとんど気にしていない。既に陛下に正体が露見してしまっている以上、取り繕っても疲れるだけだ。
「ふーん、じゃあ女は、どういう世界を願っているんだい?」
「大きい夢に憧れる男の世界の傍にずっといたい、かしら?」
「自分で夢をみたりしないの?」
「女の子はいつでも、お姫様になりたいと願っているのよ」
「君みたいな可愛い姫なら、いつでも大歓迎だけどなぁ」
アンセムは、改めてアリス族の娘、メトネを観察する。
甘ったるい容姿に、か弱い体躯。典型的なアリス族のそれである。
彼女のドレスは地味で、装飾は黒いリボンだけ。妃の衣装にしてはかなり目立たない格好だ。
「寒いです……」
そう呟いて、彼女は屋根を這いながらアンセムに近づくと、彼の腕にそのか弱い腕を絡ませる。
メトネは目を潤ませ、愛くるしい表情で迫ってくる。その男をじっと見つめる視線は、獲物を狙う狩人のようでもあるし、愛する男を憂う乙女のようでもある。
「知ってます? あたし達アリス族には、どんな男も落とせる能力があるのですよ」
「知っている。けれど、私が男にみえるのかい?」
「あら? 貴方の心の中から、男の臭いがしますけど?」
メトネはそう言って、アンセムの身体に自らの身体を覆い被せて密着させ、手を握って耳元で囁く。
彼女はここ数日、このようにして彼に迫ってきていた。そして今日は、さらに積極的に迫ってくる。
さらに彼女は、彼のガウンの中に手を伸ばして、エリーゼの胸に手を添えた。敏感なエリーゼの肌からメトネの温かい肌の感触を感じる。
「このまま貴方の中身を引きずり出してしまいたいぐらい。そうすれば、あたしは簡単に貴方を落とせるのに」
「アリス族の力でも落とせない男はいるんだろう」
「うふふ…… 女に興味のある男なら簡単ね。こうやって迫っても、逃げないような男なら」
「男が簡単に落とせるなら、陛下に挑戦してみたらどうなんだ?」
「ダメね。女に興味が無い男は、アリスの力でも落とせないわ」
メトネは、皇帝のことなど興味なさそうに答えた。
さらに、自分の目標が皇帝ではなくアンセムである事を行動で実証するかのように、アンセムの胸板に忍び込んできた。
もっとも、今のアンセムの身体には以前のような厚い胸板はなく、胸の谷間になってしまうのであるが。
「まいったわねぇ…… 乙女の身体は、好きな男に愛されるためにあるのに、あなたには効果が全然ないみたい」
メトネは顔を伏せながら彼に抱きついてくる。
これほど直線的に迫る彼女に対し、アンセムは抵抗もせずに受け入れている。
もし、以前のアンセムの身体なら、彼の理性はとっくに吹き飛び、彼女によって簡単に篭絡されていただろう。アリス族にはそういう力があるし、アンセムの精神も、彼女のような美しい娘を自分の女にしたいと願っているのだから。
しかし、エリーゼの身体はアンセムの求めにもアリスの力にも抵抗し、2人の情緒を妨げている。
「女の子の恋はいつも受け入れるだけよ。今のあたしには、貴方に狩られるのを待つだけの果実になることしかできない。でも、あなたの心は違うでしょう?」
「どうだったかな……」
「あなたは自分の恋のやり方を忘れてしまったの?」
メトネは彼の耳元に優しく静かに囁く。
その言葉で男を思い出した彼は動き出した。
身体は女になっても、心まで女になるつもりはない。
自分の心の願いが自分の願いで、身体の願いは自分の願いじゃない。
男の精神は、女の肉体の抵抗を打ち破って、男の精神の欲望を忠実に実行に移し、エリーゼの身体を操作して、男女の情事に動かされていた。




