吊るされた男1~男と女の戦術的思考①
皇帝リュドミルは妃全員が揃う夕食の席でアンセムにだけ言う。
「ヴォルチ卿、今晩も私の部屋に来て欲しい。ティト、夕食は部屋へ運んでくれ」
皇帝はそう言い残して、その席で食事をせず、アンセムを連れて退出する。
そのまるで他の妃たちなど眼中にないといった態度。アンセムも、他の妃達に配慮とか遠慮とか、気を遣うような様子は一切ない。
もちろん、彼にしてみれば究極の上司である皇帝の命令に従っているだけであり、男性的思考であれば、その与えられた仕事に対して周囲の女に配慮する必要など思いもよらない事だ。
だが、夕食の席の妃達は口を揃えて憤った。
「なんなのです! あの女は」
「屈辱ですわ!」
アンセムが来るまでの後宮は、第1妃マリアン・デューク・テニアナロタ派と、第2妃ミリアム・デューク・アティラウ派、そしてどちらにも所属しない者達に分かれていた。
それぞれの派閥に分かれているとはいっても、彼女達は本格的にいがみ合って対立しているわけではない。
趣味や会話で気の合う3~4人の友人同士の小集団と、その集団がさらに集まった各派に分かれているに過ぎず、これは女性のコミュニティでは古今東西よく見られるものである。
その両派が揃って、新入りの妃エリーゼへの不満を繰り返し言い放っている。
とはいえ、すぐに表立って行動を起こせない。
もし、あの新入りの女が皇帝に特定の妃に対する中傷を告げ口すれば、どんな残酷な罰が与えられるかもしれない。
皇帝は、後宮でそれだけの絶対権力を持っている。ここでは外の世界の法律“啓蒙の法”はまったく通用しない世界なのだ。
帝国史には、皇帝の寵愛を受けた側室によって、かつてのライバルの達が残虐な方法で虐げられるという事件が、幾度となく繰り返されている。
そしてもちろん、妃達は皇帝の私室に呼ばれた新入り女が陛下の寵愛を受けているものと考えていた。
若い男と若い女が密室でやることは他にない。
彼女達は、さぞかし甘美で官能的な会話が繰り広げられているものだろうと想像していたし、その妄想をどんどん膨らませ、羨みや嫉妬、一部は憎悪という感情にまで達していた。
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ところが、皇帝の私室で実際に行われている皇帝リュドミルと妃アンセムの会話は、他の妃達の想像範囲を遥かに超えていた。
彼らの話題はいつも政治または軍事に関する社会的話題である。それ以外の私的、性的、情緒的な文言は一切ない。
今日の話題も、国境の城砦強化についてであった。
「陛下、砦自体の強化も重要ですが、その砦同士の連絡線の確保、つまり街道の整備も同様に重要です」
「しかし、街道を整備すれば敵の侵入を受けた際に侵攻を容易にしてしまうのではないか?」
「それは敵国の勢力圏との間に連結線がなければよいのです。輸送は水の流れと同じ、一か所でも狭い部分があると物資は円滑には流れません。味方は前線まで常に太い連絡線で補給を送る事ができるのに対し、敵は国境間の狭い連絡線を避けることはできず、常に大きな制約を得る事になります」
「なるほどな……」
「特にバイコヌール戦役での我が軍苦戦の原因は、以前指摘した通りアカドゥル渓谷の通行困難さがあります。しかし本官の測量では、この渓谷は数か所の掘削と道路の整備だけで比較的容易に大軍が通行できるようになり、帝都とカラザール市間の部隊の移動や補給を容易にするでしょう」
アンセムは各地の地形や地勢に詳しく、地域防御戦略について多くの意見を具申していた。
実際に、彼はバイコヌール戦役直前まで、工兵隊の測量部隊に所属しており、アカドゥル渓谷の測量にも参加したことがある。
戦争が始まってすぐに動員されたため、作業計画は途中で中断され、戦争が終わっても予算不足で放棄されたが、その周辺地形は完璧に頭に入っていた。
「ふむ…… 道を作ることによって、アカドゥル渓谷から敵の侵攻を受け易くしてしまうような気がするが」
「帝都の動員規模は周辺地域の都市とは比較になりません。カラザール伯軍が帝国軍と互角に戦えたのは、帝都からカラザール市やバイコヌール市などのシル川流域方面への補給線が細く、こちらの戦力が小出しになってしまったからです」
「戦力が小出しになったのは、司令官の無策の所為ではないかな?」
「もちろん運用面の不手際は否定できません。しかし、輸送の観点から見れば街道整備が疎かにされていたのも事実です。この街道が事前に整備されていれば、大軍を動員した後に素早く展開することが可能で、そうすればカラザール伯軍側がどんなに知略を巡らせ、幸運が訪れても撃破できたはずでした」
アンセムは大軍をどのように前線に運ぶか、または少数で敵を防ぐためにどのような工作物を用意すればよいかなど、工兵士官として地方の要塞の防衛状況やその設備、技術的な意見に関して積極的に進言した。
皇帝はアンセムの地政学的な意見を感心して聞いている。
アンセムは若い頃から軍人を志し、士官学校時代には国家と皇家へ忠誠を毎日宣誓していた。
だから、このように皇帝に直接進言できる奉公は帝国軍人にとって最高の名誉である。皇家への忠誠と家名の栄達を遺言した父上が聞いたら喜ぶだろう。
「ふむ、我が軍の展開の遅れは、アティラウ公の指揮不足の所為だけではなかったのだな」
「与えられた権限で、インフラの不足をカバーするのは運用する指揮官の役割であり、指導者の計画性は無関係ではありません」
バイコヌール戦役は、総司令官だったアティラウ公の稚拙な指揮によって、部隊は統制のないバラバラの行動となり、各個に散々叩かれた。
しかし、アンセムは人事に関しては言葉を濁す。彼は、実際にその杜撰な計画により、前線で字句通り死ぬ寸前まで苦労したので、アティラウ公を強く批判したい気持ちはあった。
だが、下級貴族の下っ端士官の分際で、帝国七公爵家当主の総司令官の失策を直訴できる立場にはないと考えたからである。
「ところで、ヴォルチ卿。最近、イリ伯の様子がおかしいのだ。病気と称して出頭命令にも応じない。イリ市は南方防御の要。放置しておけんが……」
「その件については本官の意見を申し上げるところではありません。閣僚の皆様と協議されるべきです」
イリ伯領は南方の隣国ハイランド王国、タリム共和国に隣接する帝国領である。
3年前のバイコヌール戦役では、病気を理由に中立を固辞。帝国側にもカラザール伯側にも加わらなかった。
イリ家の当主マクマード・コンテ・イリは、以前から他国への内通を疑われていたし、それを察してか病気という名目でいつまでも帝都への出頭命令を断り自領に引き籠っている。
皇帝リュドミルは彼に対して強く処断するべきだと考えており、アンセムに賛同を求めている。
しかし彼は、このような政治的な意見を求められても、発言を控えるようにしている。
アンセムは人事に疎く、政治上の意見を口にする事は立場上からも身分からも国益を害すると考えていたのである。
皇帝と彼の会話はいつもこのような内容である。そして、この皇帝は夜が更けるまでアンセムを話し相手から離さなかった。
話題に熱中し、就寝時刻に差し掛かると皇帝の私室にメイド長ティトが静かに入室する。
「陛下、そろそろ消灯時刻でございます」
「ああ、もうそんな時間か。ヴォルチ卿、この続きはまた明日にしよう」
皇帝は、どんな後宮の美姫も相手にしていないのに、どういうわけかいつもティトには素直に従っている。なにか理由がありそうだか、尋ねる立場にはない。
「お休みなさいませ、陛下」
「ああ、またな」
アンセムは男の敬礼をして退出する。
エリーゼのドレス姿での男の敬礼はかなり違和感があるが、背筋を伸ばして決めると意外と様になっていた。
男性が男の身体で女性の可愛いポーズを真似ても不自然だが、女性が女の身体で男性の格好いいポーズをした場合はそれなりに見栄えがいい。事実、若干形式は違うものの、女性兵士も部隊によっては男性の敬礼をする場合がある。
このあたりは外見的見栄えに対する柔軟性は女性の特権ともいえるだろう。




