審判5~Hサピエンスの戦術②
アンセムが立てた防衛計画はあっという間に破綻する。
皇帝レンはフェルガナ盆地からわずか4日で帝都に戻ってきたのである。通常なら三週間はかかる行程だ。
アンセムは第5師団を編成し終えたばかりで、まともな迎撃準備も出来ず、帝都南方のカバンバイ丘陵を無防備のまま、ファルス軍の軽騎兵隊に占領されてしまったのである。
ただし、過去の記録では遥か東のモンゴル高原から西の彼方のローラシア帝国まで、ジュンガル帝国の軽騎兵隊は2週間で駆け抜けたというから、フェルガナから帝都までの距離を考えれば不可能ではない。
「兵は神速を尊ぶとは、よく言ったもんだよ」
アンセムは苦笑せざるを得ない。3年前の帝都クーデターの際は、皇帝リュドミルは決断に逡巡し早期決着を見逃した。それとは大違いだ。
だが、先発してカバンバイ丘陵を抑えた騎兵隊はそれから動かない。そして、次の日からは航空騎兵10000騎による空襲が、さらにその翌日から帝都南方の有利な射撃地点を抑えた法兵隊から、市内に向けた容赦ない猛法撃が加えられた。
上空を飛来する航空騎兵の大軍と、精鋭の女神連隊、賢者連隊、後宮法兵隊による猛烈な法撃の轟音に驚いた市民は、たちまちパニックを起こしてしまう。
いかにアンセムが熟練の防衛指揮官でも、時間がなければ市民の防衛態勢は整えられない。
第5師団を率いるレーヴァン・コンテ・タブアエランはカバンバイの丘陵を奪回しようと試みるが、アルプ・アル・スランの妻ミトラの身体を使うリーフ指揮の下、エラン・ジャーティマなどのファルス軍の精鋭騎兵が巧みな機動防御を行うため、奪還は失敗した。
機動力を活かして相手が防御したい場所に進出し早期に占拠。そして防御を固める。その間も増強を続ける。さらに市民へ容赦ない攻撃を行って精神的動揺を与える。加えて、帝都防衛の要である東のアスタナ要塞は、東方から進撃して来たルーファス・コンテ・カラザール率いる海軍の河川艦隊によって占領されたという。
皇帝レンの命令はまだ届かないはずだ。レンの弟子であるルーファスは自分で判断してアスタナ要塞を攻略したのである。
この速攻に対し要塞を占領していたシムス・リッツ・フォーサイスは辛くも帝都に撤退することが出来た。
実際のところ、昨年のエルミナ戦役では帝都の市民兵が多数動員されたが、死者は2000人程度と軽微だった。軍人の被害が圧倒的に大きい。
だが、今回は市民に多数の犠牲者が出ている。皇帝レンは容赦ない市内への攻撃を指示し、市内に混乱を起こさせ、不要な身体に入っている市民などいくら死んでも構わないという方針を徹底した。
そして、混乱する市内では、プルコヴォ公の後妻ベアトリーチェの身体を使う警察大臣のフィリップ・コイスギンと、ニコリスコエ公の孫のミッフィー・デューク・ニコリスコエの身体を使う通商大臣のフィルス・リッツ・パーペンが、不安に怯える彼らを巧みに扇動する。
第5師団は市民からも攻撃を受けて、たちまち戦意喪失、帝都市街の確保は不可能になってしまう。
「作戦のお手本みたいだなぁ」
第5師団長のレーヴァン・コンテ・タブアエランは崩壊する自分の師団をみて嘆くが、まさにどうしようもない状態だった。敵の法兵隊は精強でとても近づけない。そして騎兵と航空騎兵は連携して、市内を外側と上空から締め上げていた。
もはやクーデターの失敗は誰の目にも明らかである。
「仕方がない、レーヴァン、シムス。それからグリッペンベルグ卿も…… 私の無謀な計画に付き合わせてしまって」
アンセムは残念な顔をするが、こうなる可能性が大きい事は、ここにいる誰もが知っていた。
彼らは皇帝レンという人物の強力で徹底した戦術能力を知っていたからである。
「アンセム、気にするな。我々も正義を貫いた。そして、この後も予定通り行動するだけさ」
アスタナ要塞から撤退したばかりの、シムス・リッツ・フォーサイスは言う。彼は退却できたが、アンセムの部下である工兵士官達や、侍女のマイラは捕虜になったという。
アンセムとランスロットは、皇太子の勅命として、クーデターに参加した仲間に投降命令を出す。そして、アンセムとランスロットは、タチアナとマシェリの部隊が残る、後宮内へと退却していった。
彼らは男の意地、そして種族の誇りを見せるために、最後の抵抗をするつもりである。
だが、アンセムには最後の望みがあった。レンの娘であるフローラを人質に取っていることである。それを最後の交渉材料に粘るしかない。
彼らの後宮後退を見届けた後、グリッペンベルグ家、タブアエラン親子、フォーサイス卿は皇帝レンに降伏した。
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後宮内で、かつてはマリアン達が畜刑にされて監禁されていた棟に、レン与党の娘達は人質として閉じ込められていた。
その中の一室でメトネ・バイコヌールの身体のフローラが、力なく両足を投げ出して座り込み、かなり疲れた表情で大汗をかいている。そしてその目の前に15歳くらいの全裸の娘がいた。体中になにかベタベタとした粘液が付着している。
その娘の外見は、メトネ・バイコヌールにそっくりであるが、少し違うようである。
「おはよう、メトネお姉ちゃん。もう喋れる?」
フローラは、立ち上がることもできないぐらい疲労している様子だったが、その目の前にいる娘を、姉の名前、そして自分の身体の名前で呼んだ。
「あ、ああー。いい感じね、フローラ。でも、さすがに裸じゃ寒いし恥ずかしいわ」
「はいはい、服は用意してあるよ。あたしの…… ううん、お姉ちゃんの。サイズはピッタリでしょう」
フローラは立ち上がろうとするが、何かで体力を使ってしまったらしく、腰が抜けて立ち上がれない。
彼女達が閉じ込められている部屋には、着替えやタオルは用意してあった。
メトネは、フローラの手を借りずに、自分で身体を拭いて汚れを落とすと、近くにあった服に着替え始める。
「で、お父様やアンセム達はどうなった? 10か月ぶりだから、今の状況はよくわからないわね」
「ええと、アンセムが反乱を起こして、まだシンデレラ達を人質に取っているわ。他の首謀者はタチアナさんと、アンネさんの弟さんね。他にもアンセムのお友達も何人か参加しているみたいだけど」
「あらあら、アンセムったら…… これはお仕置きが必要ね」
メトネは得意の意地悪な微笑みをする。
「お姉ちゃんのお仕置きを受けるアンセムさんかわいそ……」
フローラは、姉のメトネの真似が大の得意だった。メトネの身体を手に入れた今、その真似を見破れるのは、彼女の父とシンデレラぐらいだろう。
だが、やっぱり本物のメトネの意地悪な微笑みは、また別格である。
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アンセムのクーデター発生から10日目。
最初は帝都全体を抑えていたアンセム達クーデター派の勢力も既に後宮を残すだけになっていた。
アンセムの目的はただ一つ、今回の責任を自分とランスロットだけで取るということである。
だから、女神シオンの破壊は彼らだけで実行した。その後は、皇太子アンセムを擁立し、その命令で他の者を動かしたことにする。
そうすれば、他の参加者の責任を回避できるかもしれない。
もっとも、彼らの敵はそういう上っ面の体裁で騙されるような器ではない。だから、残った戦力を後宮内に張り付けて、最後の交渉を行う準備を進める。
そして、アンセムはランスロットと最後の打ち合わせを行った。
「結局、あの男には敵わなかったなぁ」
アンセムはそう正直な感想を漏らす。かつてアンセムはアタス砦で1年2カ月レンと対峙したことがあった。その時は守り切ったが、それは相手の戦力が乏しく、他にも戦線を抱えていたからだ。今回は十分な戦力があり、対処するのも帝都だけである。保持している戦力もレベルが違う。
そもそも勝ち目が乏しいことは分かっていたはずだ。
「男には敵わなくても戦わなければならない時がある、『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし』だよ」
ランスロットは古の格言を持ち出して応答する。
彼らの判断はこうだ。
ここで彼らが死んでも、ラグナ族の家畜化に抵抗して戦ったという事実は残る。今は駄目でも、彼らの抵抗は『不朽の見込み』になる。そして戦う決断という『勇気の剣』は、きっとラグナ族の種族の誇りに刻まれる。
さらに女神シオンを排除した事で、今後新たに身体を奪われる犠牲者も取り除けるはずだ。
「結局、私達は男という宿命からは逃れられなかったな」
「……」
レンがいつも言っていた『勇気の剣は未来を拓く』、その決断で彼らは抵抗した。それが今回の敵であるレンの考え方なのだから、皮肉なものだ。
ロウディル・コンテ・マトロソヴァ、ハティル・コンテ・ドノーは今回の作戦に参加せず、事前に後宮から退去していた。
そして、かつてアンセムの部下だったソーラの放った言葉が突き刺さる。
彼らは、彼女が言うように、わざわざ争いを起こして、多数の犠牲者を出し、そして自分達も死ぬ。
何もしなければ、彼らは平穏に子供を産んでいただろう。そして子供は能力を皇帝レンによって選別されて、優秀な者同士が交配される。それを繰り返すことで、ラグナ族は伝説にある素晴らしい特殊能力を持った種族に成長するに違いない。
選別から外れたからといって、身体が邪険にされるわけではないだろう。
若い身体だということでいくらでも使い道はある。彼は精神入れ替わりという奇跡の力を持っているのだ。
家族と団欒し、子供たちを育て、平和に暮らす。
それは、誰しもが願っていること。そして、彼らも願っていることだ。
だがそれは彼らが欲する平和ではない。
ムラト族の快楽のための道具、ペットのように愛玩され、家畜のように利用され、生殖を他の種族に支配されて品種管理されるような種族に、ラグナ族を落とさせない。
事実、彼らラグナ族の美しい身体は、ムラト族の欲望によって弄ばれているのだ。美しく優秀なラグナ族の品種を選別するということは、ムラト族の興味の玩具になることである。
それはさせない。
それが種族の独立意識、種族の誇りの本質である。
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帝都に政府新庁舎に入った皇帝レンは、平伏するグリッペンベルグ家とタブアエラン親子と接見した。
彼らは膝をついて敬礼している。
「陛下のご采配、感服いたしました」
「まぁ、今回の騒動は最初から腰が引けていたよね。相手が私じゃなければ、もう少し手際が良かったと思うよ。でもそうだなぁ、もう少し手を広げられたかもね。アカドゥル渓谷には私に不満を持つムラト族の身体にされたラグナ族がかなり住んでいる。それを上手く扇動して、部隊の機動を妨害するように仕込んでおけば、80点はあげてよかったかな」
レンは、まるで教師が生徒にテストの答案を返す際にアドバイスするかのように説明した。
「ところで、アンセム君とランスロット君はどうしているかな?」
「種族解放戦線出身の娘達と共に、僅かな兵力で後宮に籠城しています」
警察大臣のコイスギンは答える。
「ふーん、彼らはなにか要求しているかい?」
「いえ…… 最初の要求から何も変わっていません」
現在の皇帝レンが有する、レナ族の女神連隊、アリハント族の賢者連隊、帝国の法兵隊を用いれば、後宮規模の城塞ならば法撃で粉砕することは難しくない。
だが、それをさせないための人質である。
レンは少し考えて言った。
「彼らは戦って死ぬことを望んでいるんだね。ラグナ族の種族としての名誉を奮起するために、出来るだけ派手に戦ってさ」
「しかし、彼らはただの叛徒として処理されることになるわけです。この事態を利用して反対派を処罰し、さらに陛下のお力が強くなるだけでは?」
「いやぁ、以前『勇気の剣』の話はしたでしょう。これって精神的なものだけど、他人に渡せるんだよ。そうすると、今後その剣を受け取った者が、私の計画に抵抗しようと現れるかもしれないね」
「つまり捕縛するか、心理的圧力で降伏させ屈服させた方が、後顧の憂いが少ないということですか」
「そうだね」
皇帝レンは、方針を明確に説明する。
「しかし、後宮は極めて堅固な要塞。しかも、守っているのは要塞戦の名手ヴォルチ卿です。そう簡単にはいかないと思いますが」
参謀長のガストは計画の困難さを説いた。
「こういう、防衛有利の籠城側があっさり敗北する要因ってね、実はけっこう簡単なんだ。ルーファスは覚えているかな」
「はい、先生。内部に協力者を作るか、スパイを送り込んで内側から喰い破るんですね」
「そうだね」
海軍のルーファス・コンテ・カラザールは早期にアスタナ要塞を奪還し、すぐに帝都の河川港に到着、レンと合流していた。
そして師であるレンの説明を聞き入っている。
「じゃあ、それでやってみようか」
皇帝レンは、そんなやり方を楽しそうに話した。




