審判3~勇気の剣②
レンが国王派の援軍要請を一蹴してから1月後の2月。
反国王派の5男ジェリドはオホーツク海一帯を完全に抑えた後、王都ヤクーツクを目指して進撃した。
本来、王都を守るべき責任のある国王の長男ヤンネは、戦意を喪失して先にタイミィルに逃亡し、王都は4男ヨルゲンが残って戦うが、ジェリドに負けて戦死した。
国王派は王都周辺から一掃されてしまったが、全土で壊滅したわけではない。
国王ヤンネは支持を大幅に失いつつも健在で、一族の長老で病床の先々王の2男スバスがヴィリュイ州で独立したままだった。
内戦は、王都と南部を抑える5男ジェリド、北部を抑える7男ラムナル、西部とタイミィルを抑える国王ヤンネと叔父スバス、それ以外の中立に分かれていた。
その間、7男ラムナルは国王ヤンネに止めを刺すためタイミィル半島に侵入。国王派は既に防衛線を突破されていた。
****************************************
その頃、タイミィル総督の8男イェルドは帝都のアスンシオン大学にある大教場にいた。
イェルドは皇帝レンが教壇に上がっても、教師に対する普通の生徒の反応で、他の学生達と一緒に礼をする。
彼は、皇帝レンの教養を受ける為、王族でも亡命者でも使者でもなく、単に生徒として帝都に来ていたのである。
壇上に立つとレンはさっそく話を始めた。
「それでは、今日は勇気の話をしよう。まず勇気とはなんだい?」
レンはいつものように話し始める。
「無謀とか狂気の仲間という人もいますよね」
「昔、すりおろしリンゴ社の創業者も人生はチャレンジしろって、言っていた気がします」
教室内の最前列にいるシンデレラとリンクが発言する。
「チャレンジ精神というは勇気の事だよね。法律ではどうだろう。マキナ教徒の“啓蒙の法”は人間社会の精神的な社会ルールを定めたものだけど、勇気の精神的価値は定めていない。じゃあ、勇気の価値とはなんだろうか? そもそも勇気は実在するのか? 実在するならどういう証明があるのか? 今日はここから説明しよう」
レンは、BMI「照明球」を取り出すと、教場の一点を照らした。
「この宇宙には四つの認識できる次元がある。だけどそのうちひとつだけ、一方通行の次元がある。それは時間だ。もし、他に干渉する要素が何も無いなら、時間は常に同じ方向にしか流れないはず。この光のように直線でまっすぐ進むはずだね」
次にレンは、シンデレラの飼い猫“しょぼん”、ガイスラー族のBMI「X線球」、そして薬瓶が付いた機械、最後に猫が入るくらいのサイズの箱を用意した。
「人の精神は、予め時間によって決められたルートをただ走っているだけなのか? この問題は、精神が存在するかどうかという問題も含めて昔から議論されて来たんだ」
レンが合図すると、付近にいたタイキ族の男シークは、箱と瓶入が付いた機械、そして「X線球」を繋いでいく。
「精神が単なる肉体の延長上、肉体の作用の一部だと主張する人も存在する。単なる脳細胞の活動に過ぎないというわけだね。でも、私達は確かに自分の精神の存在を認識している。それを今から考えてみよう。これは、“シュレーディンガーの猫”という遥か昔の時代に流行した有名な思考実験だよ、それを実際にやってみるよ」
レンが今回の実験の目的の説明を終えると、今度はシークが代わりに装置の説明を行った。
「この装置は、ここにある“X線球”が、放射性物質のラジウムからアルファ粒子を観測すると、箱の中に青酸ガスが流れて中のネコが死ぬという装置です。ラジウムはその状態によって、アルファ粒子を出す場合と出さない場合があり、10分の間にこのラジウムがアルファ粒子を放出する確率は50%になるように調整しています」
レンは、その説明を聞くと、太った猫を持ち上げる。その猫は相変わらず間抜けな顔をしている。そのまま猫を箱の中に入れ、そして箱の蓋を閉めてスイッチを入れた。
「じゃあ、問題。10分後、この中の猫は死んでいるのか? 生きているのか?」
いきなり、ネコの生死を問われて生徒達は困惑した。ムラト族は猫好きが多い。それなのにネコが死ぬとか、そういう問題を振られたからである。
「10分の間にラジウムからアルファ粒子が出れば、猫が死ぬんでしょう。じゃあ、ラジウムがアルファ粒子を出すかどうかの状態で決まるんじゃないですか?」
生徒の1人であるルーファス・コンテ・カラザールが質問する。
「その通り。だけど、そこがこの実験のポイントなんだ。現在、ラジウムがアルファ粒子を放出する状態かどうかは、“50%ずつ重なり合った状態”なんだよ」
「つまり、出すか状態か出さない状態か、半分ずつどちらかの状態か、って事ですね」
ルーファスは答える。だが、レンはそれを否定した。
「違う。アルファ粒子を放出する状態の確率と、放出しない状態の確率が、50%ずつ同時に存在する形状をしている。これを“確率解釈”という」
生徒達はさらに混乱する。そもそも、姿形が確率で存在するなど意味がわからない。
タイキ族のシークは、説明を補足した。
「“確率解釈”というのは、とても小さい物質については、“観測された時点で状態が確定される”という考え方です。観測されるまで、その状態は決定しない」
「重要なのはね、“観測するまでどっちの状態かわからない”じゃないんだ。“観測した時点でどっちの状態か決定される”ってことだよ。つまり、観測するまで、どっちもありえる状態で存在するっていうことかな」
ルーファスはそれに納得できず、質問をした。
「それはやっぱり、確率なんじゃなくて、実際はどっちかの形だったんじゃないですか。観測してやっと判明するだけであって、ラジウムの形状は過去から現在までのどこかの間で決められていた。このラジウムも、アルファ粒子を出すラジウムなのか、出さないラジウムなのかは、既に決まっていて、観測によってそれが判明するだけなんじゃないですか?」
「それがね、違うんだ。様々な実験結果から、我々が観測した瞬間にアルファ粒子の状態は、決定されるんだよ。過去に決定されたことを調べるんじゃない。今、調べた結果が過去になるんだ」
「観測結果が間違っているという可能性は?」
「遥かな昔の“化石の文明”時代の優れた科学技術で計測してもこの結果が出ています、ただし観測結果から導かれるひとつの解釈であり、結論ではありません。否定的な意見もあります」
シークはさらに説明する。この“確率解釈”は実験結果から考えて認められた考え方なのだという。
「この“確率解釈”はとても小さい世界の現象だけ、という事で受け入れられている。観測した時点で状態が決定するなんて、我々の現実世界では、受け入れ難い事実だからね。だけどこれは大きな矛盾も孕んでいる。で、この“シュレーディンガーの猫”という実験があるんだ。これはね、その小さい世界だけという現象でも、装置を使えば容易に大きな世界の事象として扱うことが出来るというものだよ。つまり、科学者が“確率解釈”の矛盾点を自ら皮肉したもの。このシュレーディンガーの猫という実験で示すと次のような順番になるよ」
レンはまとめて黒板に記載した。そうしている間に10分経過を示すブザーが鳴った。
A.アルファ粒子が10分間で発生する確率は50%とする
B.アルファ粒子が発生した場合猫は死んでいる、発生しなかった場合は生きている
C.10分後、中の猫は死んでいるのか? 生きているのか?
「さて、10分経ったよ。この中の猫は死んでいるか、生きているか? どう答えるべきだと思う?」
「箱を開けるまでは、“確率解釈”では、猫が生きている状態と死んでいる状態が50%ずつ重なり合った状態で存在するっとことですか?」
「そうだね。“確率解釈”ではそうなる。結果は開けてみる、つまり観測してみないとわからない。観測するっていうことは、精神の働きによって、結果を認識するってことさ。それをした段階で、不確定な状態が確定するという」
生徒達は考え込んでしまう。どうしてそうなるのか、いくら考えても結論がでないからである。
「ところでさ、最初にした精神、その中の勇気の話を思い出してごらん」
「この実験に、どうして勇気が関係するんですか?」
「ルーファス、この箱を開けて、中の猫が生きているか、死んでいるか。“確率解釈”の場合で未来を確定させるためには、何が必要だい?」
「観測者です」
「猫好きの多いムラト族には、猫が死ぬ可能性という事実を受け入れられない者もいるかもしれない。じゃあ例えば、この猫が死ぬという結果を恐れて、この教場から逃げ出したとして、その結果を観測できるかい?」
「できません」
「どうして?」
「観測していないからです」
「これら“確率解釈”では、観測する事がそこから先の未来を決定するとされている。そして、もし“確率解釈”が事実なら、観測者の精神、つまり観測しようする者の勇気は確かに存在する。だから、勇気の価値はそこにある。私がいつも言っている『勇気の剣は未来を拓く』とは、勇気が無ければ未来は観測できない、ということなんだよ」
レンが説明を終えたところで、飼い主のシンデレラは手を挙げて質問する。
「ところで、先生。“しょぼん”はどうなっているんですか?」
「いやぁ、怖くて箱を開けて見られないね。私にはその勇気がないからね。不確定なまま残しておいてもいいんじゃないか」
「そんな! それじゃ、“しょぼん”が可哀そうです」
「どうしてそう思う? “しょぼん”にとってみれば、死んでいるか生きているかは確定した事実だ。我々がその結果を観測できないだけ。それを可哀そうだと思うのはなぜだい?」
「それは……」
「それは、人が勇気を求めているからだよ。曖昧な未来から逃げたくないというのは精神の働きだろう。以前、性別はなぜ産まれたのかという事を話したが、それは生物が勇気を求めているからなんじゃないかな」
少なくとも、観測という精神の働きで初めて確定する世界があるという解釈がある。
レンは、その精神を勇気だという。それであれば、精神とは、物質とは違うものとして存在するのだろう。
「おっと、もう授業終了の時間だ。じゃあ、この箱はこのまま残しておくから、誰か勇敢な者が開けて確認して欲しい。では、お疲れさま」
シンデレラが合図すると、生徒達は起立して挨拶する。レンはいつものように、微笑みながら退出した。
そして教場には箱が残される。
生徒達は、箱を遠巻きにして顔を見合わせた。果たして中の猫は生きているか、死んでいるのか。開けてみないとわからない。だが、そういわれると、この箱を開けて確認しようという勇者はなかなか現れなかった。
****************************************
この授業を終えたイェルドは考え事をしていた。
このままのレナ王国の運命ならば、兄の国王ヤンネが倒され、内戦を制覇した者が王になるだろう。
だが、そういう未来はイェルドにとって求める未来なのだろうか。
もし、その未来を変えたいなら勇気が必要だという事だ。
帝国の物質的援助では、未来は変えられない。
「勇気の剣か……」
彼はそう呟いて、何かを決意すると、そのまま教場を後にした。




