愚者5~約束された平和⑤
シル川流域、トゥルケの渡河地点では激烈な攻防が行われていた。
皇后アンセム指揮する兵力は歩兵と工兵合わせて1500、対して敵は軽騎兵15000、10倍差である。
だが、アンセムはそれほど不利と思っていなかった。彼はそういう面で、とても戦術眼の良い士官である。
アンセムは、この作戦では襲撃してくるのが騎兵であると読んでいた。
防御陣地における法兵対策、騎兵対策、歩兵対策、航空騎兵対策はすべて違い、そのうち騎兵で陣地攻撃を行うのは最も下策である。特に、この河川沿岸陣地は背水の陣のため、機動力を用いて後方に回り込むことができない。最悪の相性であるといえる。
彼は、陣地に半月型に馬防柵を張り巡らせる。騎兵対策には、傾斜や障害物は極めて有効だ。代わりに法兵対策には必須の幅の狭い塹壕は効果が薄い。
とにかく、障害物で機動を防ぎ、飛び道具の射程を最大限に活かして戦う。
ハサン・トゥトシュ将軍は、アンセムの築いた即席だが騎兵対策を満遍なく施した小さな砦に、遠距離から弓矢で射掛けて来た。アンセム達防御側も、弩や長弓で反撃する。
アンセムは弓が得意だった。それは練習しているからであり、こういう戦いをイメージして必要なスキルだからである。もちろん、今回は弦が乳房に当たらないように、胸当てでガードしている。
このような弓矢の応酬では、射程がものをいう。そして、即席の陣地でも胸壁や土嚢で守られた陣地には、いかに10倍の人数による射撃、そして彼らが習熟したものであっても、短弓の攻撃などまったく響かない。
もっとも、ハサン・トゥトシュ将軍はすぐに火矢による攻撃に切り替えた。これで障害物の馬防柵を焼き払うのである。
しかし、アンセムの対策はそれの上を行っていた。アンセムが構築した馬防柵は、ユリア樹脂を塗って耐熱性を高め、延焼を抑えている。
ユリア樹脂は尿素樹脂ともいう。木工用の接着剤や塗料などに使用し、安価で製造しやすい。彼は、これを馬防柵に塗っていたのである。
このような小細工は法撃に晒されて破壊されたら意味がない。また、延焼を完全に食い止めることもできない。
しかし、この辺りは、短期決戦の防衛戦となるという戦術指揮官としての読みである。
カラザール市と、タシケント市を同時に攻略しているため、輸送できる資材は限られている。彼はこの与えられたリソースから、必要な物を選び出す能力は非常に長けていた。その能力は、バイコヌール戦役でも、後宮籠城戦でも遺憾なく発揮されている。
翌日の早朝、アンセムは味方の航空騎兵からの通信連絡を受け取った。
早くも、下流のカラザール市、上流のタシケント市ともに奪取に成功したらしい。さらに続く報告で、帝国の騎兵隊もカウル族と合流して南下、さらにアカドゥル渓谷のファルス軍本隊も、帝都からの攻撃で壊滅的な打撃を受けて敗走中だという。
アンセムは、冷静に敵の司令官の行動を考え、この戦争を計算した。
敵がこの渡河地点を奪っても、味方の河川艦隊がすぐに応援に来るはずである。
敗残の敵がこの渡河地点に集結しても、おそらく、ほとんど水際で撃滅されて5割から9割ぐらいの打撃は受けるだろう。
だが、渡河地点を奪わなければ10割損失する。しかも国王や宰相など国家の要諦となる重要人物が捕虜になってしまう。
彼らは、今日、シル川流域都市の陥落、フルリ族や本隊の敗走を聞いて、彼らの一部だけでも味方を逃がすため、全力でこの場所を奪いに来るだろう。
この場所を放棄する策はある。シル川は大河とはいえ、所詮は川、波も低く水温も高い。ありあわせの道具で即席の脱出船を作ればそれでいい。それで彼の部下の兵力1500は助かる。あとは下流に流されて行けば、味方に収容されるだろう。
ここを放棄しても、味方は助かり、敵は5割から9割の損失を受ける。悪い話ではないはずだ。
だが、アンセムは部下に対してその見通しを伏せて、味方が来援すると励まして死守することにした。
「私もあの男と同類なのだな……」
結局、アンセムは完全勝利を目指す為に、人的被害が相当出ることが分かっていて、撤退させなかったのである。
その日の午後、ハサン・トゥトシュ将軍は、全員下馬による突撃、総力戦を決行してきた。もはや補給が無く、馬防柵が健在のため、騎馬を諦めて徒歩にて突撃し、短期決戦を挑むしかない。
アンセムは下馬突撃があることを計算していた。そのため、事前に馬防柵に有刺鉄線、つまり鉄条網を巻き付けていた。
鉄条網は歩兵に対して大変な効果がある。対応するには、鉄条網の有刺鉄線をワイヤーカッターなどの道具を使って無力化しなくてはならない。
普通の騎兵はそんなにたくさん携行していないだろう。
だが、ハサン・トゥトシュ将軍は、有刺鉄線にひるまず、味方の死体を有刺鉄線に被せてそれを乗り越え、損害を顧みない突進を行ってくる。
落とし穴、泥濘、様々な罠、これらのアンセムが張り巡らせた障害で、突撃側は膨大な損失を出しているが、それでも怯まない。
陣地の壁まで辿り着いたとき、突入部隊の数は2000まで減っていた。だが、それでも勇敢なファルス軍の騎兵は、アンセム達工兵隊と白兵戦に持ち込めると思っていた。
だが、アンセムはもうひとつの工夫をしていた。相手から見えないように、そして事前の調査でも分からないように、川の方まで張り出した浮橋陣地を建設していたのである。
ハサン・トゥトシュ将軍たちは、突然現れた追加陣地に驚く。そしてその浮橋からの猛烈な射撃にあう。
彼らは、相手の工兵隊が射撃する地点まで到達すれば、接近戦に持ち込めると考えていた。背水の陣というのは背後にスペースがないから回り込めないのである。陣地に辿り着きさえすれば、もう後退することはできないはずだった。
だが、アンセムは工兵技術で後背地を作っていたのである。
ハサン・トゥトシュ将軍は、それでも怯まず浮橋陣地に突入する。しかし、結局、彼らが突入の為に飛び道具を携行していないことで差が出た。
もちろん、予想外の陣地に戸惑い、心が折れた者も続出している。そのような者は立ち竦み、もはや戦闘継続意欲はない。
「ラグナ族の強者よ! 我が魂を撃ち抜け! 撃ち抜けた者には、勝利の褒美を取らせるぞ!」
ハサン・トゥトシュ将軍は、すでに敗北を覚悟していたが、降伏はできない状態だった。彼は雄叫びを上げると剣を掲げて自らの場所を示す。
それは、おそらくアンセム達、敵に言ったのではなく、味方に言ったのだろう。
アンセムは特に感傷的にならなかった。彼が引き絞って放った矢は、その希望通り、彼の眉間を撃ち抜いた。
その瞬間、浮橋陣地から勝利の歓声が上がる。そして、陣地まで進出していた、ファルス軍の将兵は武器を捨てて降伏したのである。
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その夜、アンセムのトゥルケの渡河地点の陣地には、カラザール市とタシケント市から続々と応援がやって来た。彼はすぐに負傷兵や、捕虜の引き渡し、増援を受け取って防御を固めている。強敵を倒したが戦争は終わっていない。
アルプ・アル・スランの本隊、フルリ族の軽騎兵隊、トルバドール=ツインテール族となど、散り散りになった部隊が、軽騎兵隊の後を追って現れる可能性があったからだ。
だが、シル川北に取り残された彼らに、もう活路となるような選択肢はなかった。
こうなってしまうと、カウル族の軽騎兵隊やドノー伯の騎兵隊の追撃から逃れる術はない。また、航空騎兵による徹底した索敵と誘導があるので、脱出は不可能な状態である。
帝国領内で彼ら散り散りになった部隊は、その日時は前後したが国王アルプ・アル・スランも含め、次々と降伏していった。
さらに、タシケント市の陥落とシル川の制圧を受けて、エルミナ王国の王都で政変が起こる。
サマルカンド市に潜伏していた、騎士長プレイス・ナイツ・バンクレインは、太守タシケントの捕縛を受けて蜂起し、それに市民が呼応して、サマルカンド市は奪還されたのである。
彼らは、その日の内に、ファルスとの条約の無効化、王家君主とする国家の復活を宣言する。
タシケント市にいた、ローザリア卿やエルマリア王女の身体は、サマルカンドの解放を聞いてすぐに移動、バンクレインと打ち合わせた。
占領されていたエルミナ王国に駐留するファルス軍は、アスンシオンにおける主力の壊滅と、国王の捕縛によりランス族の反抗を抑えることが出来ず、次々と降伏。若しくは占領地を放棄して、ヘラート川を越え故郷に逃げ帰っていくのだった。




