愚者5~約束された平和④
「どうなってるんだ! アイーシャは? アル・タ・バズスは? 前線はどうなっている?」
アカドゥル渓谷のファルス軍本隊は、突然の不意打ちに大混乱に陥っていた。
万全の支度、油断なく帰国準備を始めていたはずだが、アスンシオン軍は条約破りによる騙し討ちを開始、しかも後衛に配置した40000の兵はあっという間に連絡が取れなくなった。
さらに、その日の内にアスンシオン軍の航空騎兵による攻撃に晒された。ファルス側の航空騎兵による敵の迎撃や索敵も行われていない。
「伝令! 帝国軍騎兵40000、クリャージ川西方から南進、アタス砦へ向かっています」
「ハイダルのフルリ族に伝えろ! 敵の進撃を阻止せよ」
「了解」
「陛下、とにかくここは下がりましょう。カラザール市に向かっているハサン・トゥトシュに連絡を出して警戒するように。敵の騎兵に退路を断たれると拙い事になります」
国王アルプ・アル・スランは、宰相エル・マリクの意見を受けて、すぐに後退を決意する。だが、それは容易ではない。
「しかし、配置していた精鋭の後衛があっさりやられるとはな…… リクミク、アカドゥル渓谷の両脇に布陣して、敵の追撃を法撃で食い止めてほしい」
「迫撃法は“賢者連隊”が持っていたから、竜巻魔法しかないよ? 火力が心配だけど」
「仕方がない。リクミク達の退路は用意できないが……」
「それは大丈夫だよ。渓谷の山岳地形なら、あたし達だけの方が逆に退却しやすいから、法門は捨てて行くことになるけどね」
「すまない」
国王アルプ・アル・スランはトルバドール=ツインテールの法兵隊に撤退援護を任せた。だが、撤退も追撃の阻止も容易ではない。
このアカドゥル渓谷には、帝都攻撃の為に集めたファルス軍の補給物資などを集中させている。
条約破りは一応警戒していた。しかし、後衛が一瞬で突破されるなど予想していなかったのだ。
航空騎兵の喪失も痛い。ファルス軍は対空魔法をあまり持っていなかった。それは、ファルス軍では対空戦闘は航空騎兵が行うという発想が大きいからである。
上空に敵の航空騎兵が張り付いた以上、ファルス軍の動きは筒抜けである。
だが、さらに彼らに止めを刺す報告が入った。
「シル川河口に敵艦隊出現! バイコヌール市はアスンシオンに降伏、艦隊はすぐにも遡上し、カラザール市へ向かっています!」
「なんだと…… 敵がこんなに手際がいいなんて…… 信じられん」
国王や宰相、一般兵士に至るまで、ファルス軍はアスンシオン軍を愚鈍だと考えていた。
事実、エルミナ戦役で戦ったアスンシオン軍はそうだった。痛い目に遭ったのは、ドゥシャンベ山間追撃戦で、猛将エラン・ジャーティマを失った、ムラト族旅団との戦闘ぐらいである。
彼らは、今の皇帝の中身が、そのムラト族旅団の指揮官だという事を知らない。
国王アルプ・アル・スランは、物資を捨てて、迅速にシル川を目指すという選択肢しか取れなくなったのである。
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ルーファス・コンテ・カラザール率いる艦隊は、バイコヌール市に上陸。ゴードン・ガロンジオン達、主力が上陸するとバイコヌール市長はあっさりと降伏し、帝国に帰順を表明した。
彼らは市の施設を占拠し、港湾の船舶を接収すると、河川艦隊を往復させて主力部隊を輸送。バイコヌール市の防御には最低限だけ残し、今度は彼らを乗せて、シル川を遡上させた。
河川艦隊は、カラザール市の近郊にまず30000の兵力を上陸させる。
カラザール市はファルス軍の将軍アル・ラヴァンが防御を固めており、強襲上陸はしない予定である。
上陸した30000はカラザール市を包囲、すると河川艦隊はまたバイコヌール市に戻って、今度は移動した第二陣30000を乗せてシル川を遡上、タシケント市の近郊に上陸させた。
タシケント市は、太守のヒンデン・フォーラ・タシケントが支配している。
上陸した部隊は速やかに、カラザールとタシケントの両市攻略戦に着手する。
そして、再度引き返した河川艦隊は、今度は皇后アンセム・コンテ・ヴォルチ率いる第三陣を積むと、彼ら6000を乗せて、予想される渡河地点6か所に配置した。
アンセムは、歩兵1000、工兵隊500と、タシケントとカラザールの間にあるトゥルケの渡河地点に上陸する。
アンセムは上陸後、直ちに渡河地点に陣地設営を命じる。彼の読みでは、このトゥルケの渡河地点か、隣のオトラル渡河地点を選ぶ可能性が高い。彼は、この二か所の防御をやや増員し、他を少し減員していた。
こうして、シル川流域への制圧作戦は一斉に開始された。
カラザール攻略軍は、ロウディル・コンテ・マトロソヴァの身体を使う、第16妃レニー・コンテ・マトロソヴァである。
攻撃開始の合図を受けて、法兵隊のグリンダ・コンテ・サラエヴォニアの身体を使うマック率いるムラト族第1法兵連隊は法撃を開始する。
以前の低火力と違い、帝国軍精鋭法兵“ソミュア”の身体を使っている彼らの火力は段違いであった。
さらにカラザール市攻略軍には、第76妃ミーティア・コンテ・カラザールの身体を使う領主のルーファス・コンテ・カラザールが支援していた。彼は市内を知り尽くしており、市民の支持も根強い。駐留しているファルス軍以外の抵抗はほとんど考えられない。
タシケント攻略軍は、第38妃アンネ・リッツ・ローザリアの身体を使う、ランスロット・リッツ・ローザリアが指揮している。
タシケントはアイダール湖の北岸に位置する極めて強固な城塞都市であり、法兵隊の第16妃レニー・コンテ・マトロソヴァの身体を使う、ロウディル・コンテ・マトロソヴァと彼の法兵隊は、ただちに法撃戦を開始する。
こちらは、エルミナ軍の法兵隊が反撃を行うが、エルマリア・フォーラ・コーカンドの身体を使う、ゲイリー率いる“聖女連隊”が配置されており、“陽彩”の効果でまったく損害を受けない。
逆に、その様子を見た太守のヒンデン・フォーラ・タシケントは、帝国軍の中にエルマリア王女の姿を認めて、自らが国を寝返ったことを思い出し恐慌状態に陥った。籠城側も動揺が広がっている。
航空優勢を得ていた両攻略軍とも、ファルス軍本隊の動向に注視しながら、かといって、無理な出血をすることなく、基本的な攻略手順で都市攻略戦を開始していた。
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アタス砦周辺で、ハティル・コンテ・ドノー率いる騎兵隊40000は、フルリ族のハイダル率いる50000の軽騎兵隊と遭遇、激しい騎兵戦を行っていた。
「隊長、こりゃあ、負けてますなぁ」
副官についている、第9妃オフィーリア・リッツ・ヤロスラヴリの身体のマーティン・リッツ・タクナアリタは呟く。
「そんなことはわかっている! くそっ、妹の身体じゃなければ……」
ドノー伯は女の身体の所為にしたが劣勢の原因はそうではない。敵の騎乗技術が上手すぎるのである。
実際、ドノーの使っている妹プリムローザの身体も、マーティンの使っているオフィーリアの身体も、従者のガウェインとパルトの身体のグリスとドーの身体も、この騎兵40000の半数は“ヴェスタの加護”を持っており、VAFリングを付けているので、金属鎧並みの防御力を持っている。
金属鎧の体格のいい男子を乗せたら馬には相当な負担だ。だから騎手は軽い方がいい。馬が疲れないという意味では、今の彼らは以前より有利かもしれない。
だが、腕力は最低だった。男の時の四分の一もないかもしれない。ドノー伯は槍での突撃を好んだが、そんな長柄武器を抱えての突撃は不可能である。
すると短弓によって騎射をするしかないが、これが難しい。いや、騎兵では必須科目でここにいる騎兵はみんな訓練しているはずであるが、その習熟度において、フルリ族の軽騎兵に負けていた。
H属のジュンガル系種族の諸派カウル族やフルリ族は、男も女も小柄である。しかし、その進化は、彼ら遊牧騎馬民族の馬への適正なのである。
ドノー伯達、帝国軍騎兵隊は、上空の航空騎兵から包囲の危険性を知らされて、いったん下がった。
敵はどうやら撤退命令を受けているらしく、追撃を仕掛けてこない。また、VAFは効果的に作用しているので装甲は固いため、被害は少ないが、負けは負けである。
彼は、悔しくて仕方がない。突進を命じられたのに、それができないのである。
「ああ、俺の筋肉を返してくれ……」
「隊長。もし、男だったら、矢が三発ぐらい刺さっていましたよ。VAFがなければ、今頃膝に矢を受けていたでしょうに」
「こんな身体じゃ、膝に矢どころか棒も立たん」
部隊長のリタ・ヴィス・グリッペンベルグの身体の、グーゼフ・ヴィス・グリッペンベルグが茶化した。
「膝に矢を受けてしまった」とは「戦えなくなった」という意味で、遠回しには「結婚して所帯を持った」という意味である。
だから、彼ら会話は、女の身体になった為に、死なずに済んだが、男の象徴がないから、女と結婚して所帯を持つことはできないという揶揄だろう。
フルリ族は、少しずつ後退しているようだった。彼らが側面攻撃や、迂回機動がとれないのは、帝国側に航空騎兵の索敵があるからである。情報戦において一方的な差がついてしまっている。
敵が撤退するとしたら、どこか渡河地点を奪って逃げるしかない。アカドゥル渓谷の補給物資を奪われた上に、逃げ道を失えば全滅である。
そのために、敵はこんな無駄なところに兵力を張り付けたくないのだろう。
翌日、同僚たちと対応策を考えていたドノー伯は、フルリ族が別の軽騎兵隊の払暁攻撃を受けて混乱しているという情報を知った。
航空騎兵による偵察により、帝国傘下の異種族、カウル族がフルリ族の陣地に朝駆けによる襲撃を仕掛けたという。
彼らはその報告を聞いて慌てて出撃し、この攻撃に加わるが、彼らは勝利には少ししか寄与できないまま、フルリ族は敗走してしまっていた。
ドノー伯達は、カウル族の手際のいい長駆攻撃をみて呆然としている。
「確かここからカウル族の居留地は、我々の馬だと4日はかかる距離だ。それをたった一晩で走り抜けて来たってわけか」
「一応、過去の記録だと、ローラシア帝国からジュンガル族の拠点まで二週間で踏破したらしいですけどね」
「こりゃあ、美味しいところはぜんぶ持っていかれましたな」
「悔しいが見事な馬術だよ。やっぱり、我々ラグナ族は、遊牧騎馬民族には勝てないなぁ」
もちろん、フルリ族は彼らとの騎兵戦で疲労し、補給を失って矢弾も減っていた。しかし、長駆したカウル族も疲労という面では同じ、彼らを襲撃したカウル族の軽騎兵隊は、それに匹敵する機動力だった。
ドノー伯は再び嘆息する。カウル族のような強力な戦力を有効に使っていれば、エルミナ戦役はずっと戦い易かっただろう。
彼らは、当初、士気も高く協力的だったのだ。時間を浪費して彼らの士気をすり潰したのは、戦略的失敗である。
カウル族の三男バアトルは、皇帝レンと話がついていて、帝国とある取引で、協力を約束している。
長男のクトゥクと次男のエゲンはまだ抵抗していたが、カウル族の各部族は、すでに多くがバアトルを支持し、ほぼ体制を固めていた。
追撃に一息ついたドノー伯と、タクナアリタ卿に声を掛ける娘がいた。見事な馬術で颯爽と彼らの前に現れる。
「プリムローザさん、オフィーリアさん! 私です! ニコレです!」
現れたのはカウル族の娘である。年齢はドノー伯の妹、プリムローザと同じぐらいだろうか。
「え、誰?」
ニコレと名乗るカウル族の娘に対して、ドノー伯もタクナアリタ卿も心当たりがない。
「そんな…… お忘れになってしまったのですか?」
「あ、ああ、妹の友達か」
第8妃プリムローザ・コンテ・ドノーと第9妃オフィーリア・リッツ・ヤロスラヴリは、第20妃ニコレとはそこまで仲が良くはなかったが、後宮のような狭い鳥籠で暮らしていて、女同士のコミュニティでお互いを知らないなんてことはない。
「いや、私は実は別人なんだ」
「え?」
「話せば長くなるんだが……」
ドノー伯は説明に窮する。
そもそも、ニコレからすれば、プリムローザが、武装して戦場にいる事自体がおかしい。そして、オフィーリアは後宮籠城戦の時は法兵のはずなのに騎乗している。
ニコレは、ドノー伯からシオンの奇跡の説明を聞いて驚愕する。
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カラザール市へ向かっていたハサン・トゥトシュ将軍の軽騎兵15000は、カラザール市近郊まで近づいたが、市は完全に包囲されている事を知る。
アスンシオン軍はシル川流域に精鋭を連れてきているようで、その周囲は完全に固められていた。
既に城門は破られて市街戦が始まっており、索敵の報告では川港はもう陥落しているようだ。既にカラザール市の防衛司令官のアル・ラヴァンとの合流は不可能な状況に近い。
川港が奪われている以上、このまま無理に攻撃しても、効果的に援軍を送られて上手くいかないだろう。軽騎兵の彼らは、例え外周の敵を突破して市内突入に成功しても市街戦では有利に戦えない。
こうなれば一刻も早く、シル川の渡河地点をどこか確保して味方の退路を切り拓かなくてはならない。
彼は、タシケントに向かう事も考えたが、裏切り者の太守は信用できない。
ハサン・トゥトゥシュ将軍は、素早く周囲を索敵し、以前調査した渡河が可能な地点を確認させた。
すると、それらの場所はすべてアスンシオン軍の陣地が築かれているという。
彼は敵のあまりの手回しの良さに驚いた。
しかし、渡河地点の防御は急造陣地で兵力も少ないようである。カラザール市とタシケント市の同時攻略に兵力を向けているため、渡河地点の確保に充てている兵力や物資には限りがあるのだろう。
カラザール市とタシケント市が陥落すれば、これらも守りを固められて、容易に援軍を送れる状況になる。もはや渡河地点の確保は不可能だ。
ハサン・トゥトゥシュ将軍は、ただちに確保すべき渡河地点をトゥルケに見定めて、自軍部隊を向けた。
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アカドゥル渓谷北口では、ファルス軍の後衛を突破した陸軍大臣のゴーヴィン・コンテ・タブアエラン率いる市民軍が、アカドゥル渓谷奪還作戦を発動していた。
ファルス軍の法兵リクミクは、アカドゥル渓谷の側面に陣取り、谷底を通過する市民兵に竜巻魔法を叩き込んでいる。
市民兵はその猛烈な強風に晒され、石つぶてに怯み、悲鳴を上げて逃げ去るが、それでも数に物を言わせて次から次へと押し寄せて来る。
竜巻魔法自体の殺傷力は低い。たいした鎧も付けていない市民兵ですら殺すことはできない。ファルス軍が竜巻魔法しかないことは偵察と今までの情報で露見されていて、市民兵は50万もいるのだ。たった6000程度の法兵隊で食い止められるわけがない。
だが、その日の昼間、彼女達は奮戦し、なんとか追撃を受け止めた。
しかし精鋭のトルバドール=ツインテール族は、その夜の攻撃を食い止めることはできず、突破されてしまう。
その夜、敵はなんと、夜目の効くトルバドール=ツインテール族達に、夜襲を挑んできたのである。
そして、襲って来たのはリルリル達、マリル族の身体であった。本来、B属地上丸耳系のマリル族は、B属地上猫耳系のツインテール族が大の苦手だった。彼女達と相対すると本能的に恐怖を覚え竦んでしまう。
だが、現れた40000のマリル族は、トルバドール=ツインテール族にまったく怯えることがない。
それは当然で、彼らのマリル族の身体の精神は、マリル族ではなく、ラグナ族の男性兵士だった。精神への恐怖の刷り込みは、身体から徐々に与えられるものだが、彼らはまだその身体になってたった3日である。
もっとも、彼女達の身のこなしと、彼らが夜目や第二耳の使い方に慣れていなかったことから、なんとか退却には成功した。いくら、恐怖を拭えても、夜戦能力はすぐには手に入らない。
リクミク達トルバドール=ツインテールの法兵隊は、竜巻魔法の法台を捨てて、アカドゥル渓谷の南の丘を抜けて敗走することになる。




