愚者3~無血クーデター②
戦処女の時代、現在アスンシオン帝国がある地域は今よりもずっと寒冷な気候で、とても厳しい土地だったという。
地球環境が寒冷のため、海抜が今より遥かに低く、カスピ海もアラル海もアーリア海峡も陸続き、周囲に暖流がないため気温は常に低い。さらに南オビ海も北オビ海も干上がった陸上で、オビ川という大河が流れているだけであった。
海洋から隔絶された内陸であるため、冬季は今とは比べ物にならないほど厳しい寒さで川も海も凍結し、さらに乾燥していて農業生産など不可能、遊牧のような生活しかできない土地だった。
現在のこの地は、確かに冬季は寒いが、夏季は温暖で海も凍結しない。雨量も適切で、農耕に適した肥沃な土地である。
この豊かな大地が、過去、そんな極寒の乾燥した大地だと言ったら、きっと多くの帝国民は信じないだろう。
この新たに開拓された土地に誕生したアスンシオン帝国は、建国以来、何度も衰亡の淵に瀕する国難に見舞われた。
建国神話では、初代皇帝マカロフによる、エステル川周辺に巣食う異形の怪物達との苦難の戦いを記録している。
その後、帝国の南方に誕生した魔王が統治するタリム帝国との戦争、帝国東方の遊牧騎馬民族ジュンガル族との戦争、海賊種族アテナ族との戦争など、これら一連の戦役で帝国領の深くまで蹂躙されたことも珍しくない。
帝国がこのような騒乱の要因となりやすい原因は、この国がエステル=エニセイ河流域の大陸中央の豊かな平地に位置しているため、他国から侵略されやすいという環境にある。
タリム帝国は、現在は永世中立の共和国となっているが、魔王帝国時代の配下だった異形の種族を飼っており、その中には自国外で活動する者もいる。
ジュンガル帝国拡大の爪痕は、大陸各地に残るジュンガル族の末裔、カウル族やフルリ族などからもわかる。
アテナ族は分裂し勢力は衰えているが、いまだに各部族が独自に海賊王を名乗り海賊行為を続けている。
帝国の危機は戦争だけではない。
黄死病という疾病の流行では、帝国民の半数が死んだという。この病気は、人間の皮膚が黄色く変色して、鱗粉を撒き散らしながら他者を襲う亡者のようになってしまうという恐ろしい感染症であり、別名ワイト病ともいわれている。
政治的混乱もあった。現在の貴族院と市民議院による制度が出来る前には、ラグナ族の貴族による他種族への差別が当然のように横行し、さらに同じラグナ族の中でさえ、貴族特権は無制限に拡大して大きな格差が起きていた。
そんな社会不満の中で、ベース主義者が台頭、市民運動による激しい権力抗争があった。
ラグナ族の名誉人種政策や、異種族ごとの分断を図る政策が取られたこともあったが、結局現在のような議会制度、そして“啓蒙の法”で認められた傘下種族には、一定の公民権や自治権、さらに国民には義務教育や各種社会保障等が整備される国家になった。
特権階級である貴族もその権利を大幅に制限され、さらに厳しい責務も与えられている。
そんな帝国の歴史にとって、帝都の象徴である女神シオンは国家の支柱的存在である。
建国王マカロフはアスタナの地でシオンと出会い、そこに都を建てたという。皇帝の名前がリュドミル・シオン・マカロフなのも無関係ではない。
ただし、女神シオンは昔から一方的に人々に幸福を与えるだけの存在ではなかった。
帝国の様々な危機においても、女神シオンは帝国民を救うというより、厳しい試練を与えることが多いといわれている。
今回、帝都を襲った精神入れ替わりという事件。
これも帝都の民には、女神シオンのもたらした“奇跡”として広報された。
この広報は、取り繕った建前のようであるが、実際にこの効果を産み出したのはシオンの力である。
シオンの正体は、帝都アスンシオンの地下宮殿の最下層に設置された制御サーバの管理者、ノード族である。
地下宮殿は、化石の時代に人々が反動氷河期から逃れるために作った完全自給自足を実現したシェルターのようなもので、彼女はこのシステムを維持するために作られた制御装置だ。
彼女の能力“Wi=Fi”は、帝都内のあらゆる波長の電波をコントロールするという能力である。
しかし、極端な事を言えば、これは化石の時代なら誰もが知っているありふれたもので、特殊能力と呼ぶにも値しない。このような独立型のアルコロジーの管理者ならば、当然に備わっている機能だからである。
ムラト族旅団長レンは、このアスンシオンの管理者であるシオンを支配下に置いていた。その理由はわからない。本来、管理者である彼女が、特定の人間に従うなどということはないはずである。
そして、レンが得た“イ=スの正錐”という装置の効果と、シオンの能力を合わせる事によって、帝都中の人々は彼らの意のままに身体を取り換えられてしまった。
皇帝リュドミルの身体はムラト族旅団長のレンによって奪われた。
そして、後宮の娘達、帝都の若い娘達は、ムラト族旅団の兵士達によって身体を奪われた。
さらにこの作戦を援助する仲間、旅団の兵力3万、アカドゥルで暮らしていたムラト族の難民10万人以上、さらにムラト族扶助会という女性の組織のほぼ同数、彼らもこのクーデターを支援するために、帝都の有力者や彼らが欲しい身体を奪っていったのである。
ただし、全ての身体がムラト族達によって奪われたわけではない。
事前にレンを支持すると予想された者や、能力的に認められた者、その者達と家族などの関係者は、その身体を取り換えられたが、家族同士や親類同士、若しくは元の身体とそれほど差異のない身体にされた。
だが、冷徹な戦術家であるレンは敵や役立たずには容赦がない。
彼は、クーデターの弊害になりそうな人間、使えない人間の精神は、完全に無力な身体へ、まるで不要な物を捨てるかのように入れられてしまったのである。
帝都のクーデター自体は、ここ2年で種族解放戦線によるもの、北方総督によるものと連続発生している。政権の乗っ取りを画策したクーデターという意味では、これが三度目という考え方もできるかもしれない。
そして、この両方とも多数の流血を伴う惨事になったのに対し、レンの決行したクーデターは、記録上死者ゼロのいわゆる無血クーデターである。
だが、無血の政権交代だからと言って、社会において正義かどうかは別である。
この彼らの恐ろしい陰謀の為に、帝都の全ての人々は、その人生の目的や幸せを全て奪われてしまった。特に若い女性は、彼女達が幸せを体感するために必要な魅力のある身体を、精神的な凌辱という比喩的な意味の「身体を奪われた」ではなく、字句通りの意味で「身体を奪われた」のである。
しかし、本当に身体を奪われたかどうかを証明するのは難しい。
彼らは入れ替わったりはしていなく、別の人格の素振りをしているだけかもしれない。また、単に思い込んでいるだけかもしれない。その区別を証明する方法はない。
究極的には、個人を識別し、認識できるのは自分という自我だけなのである。
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この奇跡が発生前、帝都に駐留していた6万の正規兵力は、元第5師団長ゴーヴィン・コンテ・タブアエランの指揮下にあり、副官として元第4師団長ロウディル・コンテ・マトロソヴァが付けられて再編成に当たっていた。
この兵士たちは全員が身体を奪われ、その兵士たちはその家族、妻や娘などと身体が入れ替わった。
兄の第4師団長ロウディル・コンテ・マトロソヴァになった、その妹第16妃レニー・コンテ・マトロソヴァは、奇跡発生直後から行動を開始する。自分の家族や部下を落ち着かせると、この現象を女神シオンが起こした“奇跡”と説明し、ただちに入れ替わった兵士達や家族達を動員、彼女は陸軍省に現れた皇帝リュドミルの身体を使うレンとともに、動揺する第4師団の兵士達を落ち着かせる。
すでにムラト族旅団の団員によって、帝都の掲示板には戒厳令が敷かれ、市民に対して精神の自宅に帰宅し、待機するように布告が開始されていた。
さらに、レニーは落ち着かせた兵士達に指示して、この市民たちに精神入れ替わり特別措置法、通称TS法を告示し、この法を順守するように指示徹底させたのである。
そしてこの女神シオンの“奇跡”は、翌日の朝から一般に広報され、ほとんどの各新聞社は通常通りに新聞を発行した。
その新聞には、無血クーデター、治安維持の為の戒厳令発令、精神入れ替わり特別措置法の制定が発表されている。
そして、驚いたことに“啓蒙の法”に従うことを是とするマキナ教徒の多い帝都の人々は、精神の自宅待機、そして法による今後の方針を示されると、これだけの大事件にも関わらず、多くの店舗で通常通り営業を再開したのである。




