愚者2~人生交換1④
カウニス・リッツ・パーペンは妹の第43妃ベス・リッツ・パーペンの身体になってしまった。
彼は、約10カ月ぶりに自分の自宅に戻る。しかし、“啓蒙の法”による登記上では、この自宅はすでに彼の家ではないはずである。
パーペン家の資産はすべて彼らの宗主家ともいえるニコリスコエ公爵家に譲り渡されていた。そのため、カウニスはずっと士官学校の独身寮で暮らし、他の家族も、使用人もみんなバラバラになってしまっている。
彼らが没落した原因は、現当主である彼の父、フィルス・リッツ・パーペンが帝都の公共事業の入札工事における贈収賄容疑で逮捕され、裁判で有罪となったため、貴族としての資格を剥奪され、その資産は全て没収されたことによる。
しかし、パーペン家の家人は誰もが知っていた。
当主のフィルスは贈収賄に加担などしていない。すべて彼の上司だった通商大臣ズェーベン・ヴィス・スヴィロソフと、宗主家のセルバ・デューク・ニコリスコエによって、彼に罪が擦り付けられたのである。
ところが、今回の入れ替わり事件の発生後、後宮でベスの身体になって混乱していたカウニスは、現れた皇帝から直々に、容疑は冤罪であると認め、フィルスの釈放、財産を戻し、さらにニコリスコエ家とスヴィロソフ家は取り潰して、彼らの価値のある財産はすべて没収して、パーペン家に与えると宣告した。
すでに、彼の家族や、かつての使用人によって自宅に戻っているはずだという。
そのためカウニスは慌ててかつての自宅に戻って来たのである。
懐かしい自宅に戻ると、約1年使用されていなかった家は、使用不可能なほどに朽ちてはいないが、建物は埃にまみれ、庭は雑草で荒れ放題だった。
しかし、パーペン家はその以前とは違う身体の者たちが片づけや掃除をしていた。彼はその一度も会話したことのない身体の者達が誰だか知っている。
庭を掃除しているのは使用人のビガス、玄関で迎え入れてくれたのは執事のパブロ、ホールを掃除しているのはメイドのエルビラ、そして会うなり敬礼して部屋まで案内してくれたのは彼の従者のホアキンだ。
そして彼らも、カウニスがベスの身体で帰宅しているにも関わらず「おかえりなさいませ、カウニス様」と挨拶した。
姿形は変わっても自我や記憶は失われない。もちろん、彼はこの家の構造を知っている。彼はまったく迷わずに、父のフィルスの部屋にたどり着くと、ノックして入っていった。
当主のフィルスの身体も以前の身体とはまったく別人になっていた。だが、書斎の机に座る姿は父そのものである。
「カウニスよく戻った。レン殿はどうだった?」
彼は、父が皇帝の身体を得たレンという人物のことを最初から知っていたことを驚く。カウニスはそれまで、父がその男の知り合いだったという話は聞いたことがなかったのである。
彼もその人物について新聞程度の情報なら知っていた。レンというムラト族の旅団長がタルナフ伯のクーデター鎮圧に貢献したことは、帝都で暮らしている者には有名である。
カウニスは、皇帝レンからの伝言と、明日の会議予定、施行予定のTS特措法の説明をする。父のフィルスは、その話を頷いて聞いていたが、急に笑い出した。
「さすがはレン殿、手際がいいな」
その笑い声は彼が知っているものとはまったく違う顔と声だったが、それでも表情や仕草は完全に一致していて違和感はあまりない。
「お前の身は陛下…… レン殿に献上したものだから粗相のないようにな。接待や従者も責任ある仕事だ。疎かにしてはいけない」
仕事や教育に厳しい父はいつものように小言を言う。
「父上はレン殿を知っているのですか」
「ああ。昔から私に助言してくれる友人さ。さぁ、これから忙しくなるぞ、カウニスも覚悟しておけ」
パーペン家当主、フィルス・リッツ・パーペンは優秀な官僚である。
ただし、優秀な官僚というのは個々の企業からは恨まれることも多い。そのため、民間企業からの評判は以前からあまりよくなかった。
本来、行政官僚は、公正な市場の競争を促し、公正な税制を敷いて、公正な取引を導くのが役目である。
まず、特定の企業がある市場を独占状態にしてしまうと、どんな価格設定も自由に出来てしまうために競争が起こらない。こうして経営者は大きな利益を独占し、酷く不均衡な経済状態が発生してしまう。
ただし、市場も競争原理に任せて過熱すればよいというものではない。特に規格と、労働に関するルールは、公平でないと正当な競争が促進されない。
例えば、アスンシオン帝国では、前線の将兵の食料は缶詰が食べられている。現在帝国で使われているこの缶詰の規格は、フィルスが考案したものだった。
積み荷というのは荷台に積む際に規格の違う大きさの箱があると作業効率がひどく低下する。缶詰の場合は内容物の違いはそれほど問題にはならない。だから大きさを各企業で統一させ、荷積みをする際の効率化を図ったのである。
だが競争下にある企業は、独自の基準を推し進めようとする。ライバル企業同士では規格を調整することは難しい。
これら公平な規格を設定するのも彼らの重要な仕事である。
また、法制度による公平な税制も守られなければならない。啓蒙の徒であるマキナ教徒が多数派のアスンシオン帝国の国民は比較的に法制を守る意識が強い国民性であった。
法律で認められている範囲での賭博や売春も許可されており、これらは高い税率が掛けられている。しかし、違法に操業するこれらの業者は後を絶たない。
取り締まりが緩み、ルールを無視するのが儲けるためのあたりまえの風潮になると、市場の公平性は失われてしまうし、税収も落ちる。
これを企業の側から見れば、市場の独占は大きな利益があり、自分達に有利な規格を主流にして、自分達に都合のいい税制になればより利潤を得られる。
利潤を追求する会社としては当然の考え方で、これを正しく監督するのが官僚であり、彼らの仕事を適切に管理するのが政治の役目といえるだろう。
去年、帝都の運河工事の入札で不正な談合があった。運河は掘削場所が三か所あったのだが、建設会社ごとに予め落札する場所を決めておき、価格を操作して高い価格で公共事業を請け負ったのである。
この不正の真相は、工事を発注した通商大臣のズェーベン・ヴィス・スヴィロソフが、セルバ・デューク・ニコリスコエ公爵と手を組んで彼の親族が経営する会社に工事を有利に受注させようとしていたという。
パーペン家はニコリスコエ家の遠い分家である。だから、その入札に参加した一社と遠い血縁関係があった。
この談合入札が露見した際、当主のフィルス・リッツ・パーペンは、その受注を監督する行政責任者の一人に配置されていたのである。
それらは彼のまったく知らない間に仕組まれていた。新聞各社では談合受注した企業の親族が、発注する側の責任者にいると叩いた後、請負会社は談合を事実だと認め完全に露見した。
結局、フィルスは監督者として逮捕される。
そして、ニコリスコエ公爵の甘言に嵌って、不正な取引を見逃したと自供してしまった。それは、フィルスが認めなければニコリスコエ家にも影響があり、家族も取り調べられる。ここで認めれば家族も無事だし、少しの罪で済むはずだという取引であったが、すべては罠であった。
ニコリスコエ公によって焚きつけられた皇帝リュドミルは、彼が嫌いな汚職政治家への見せしめとして圧力が掛り、不正取引法違反で最高刑罰である懲役20年となった。
さらに民事責任を負って、パーペン家は貴族の資格も財産もすべてを没収されたのである。
「あのとき、最初からレン殿についていけば良かったんだ」
20年前、まだカウニスが産まれるより前の話である。
帝都の大学で経済学を学んでいた若いフィルスに下に、30過ぎのムラト族の男が突然現れた。当時のレンは、新しい事業を始めるということで、その会社の会計担当として付いてこないかと頼まれたという。
若いフィルスは迷ったが、彼の父、つまりカウニスからすれば、祖父の希望で民間のベンチャー企業への挑戦は断念し、政府関係の公職に勤めることになった。
そして、ちょうど後宮籠城戦が終わったころ、レンはパーペン家を訪ねて、こう警告した。
「不正は見逃して儲かるもの。しかし、その不満は社会に必ず鬱積する。君は責任感が強いけど、その責任感を逆に利用されると、罪を押し付けられてしまう恐れがある。だから、上司の甘言には惑わないようによく注意するんだ」
レンはフィルスの性格と立場を見抜いて警告した。
新皇帝リュドミル・シオン・マカロフが即位し、新体制となって2年くらいである。各所にその弊害が噴出していた頃であった。
イリ内戦が発生し、帝都で種族解放戦線が蜂起したのも、社会に不正が蔓延っているから、その思想に賛同する者が多かったのだ。
当時から、ニコリスコエ公、スヴィロソフ卿などの貴族達は不正で財を成していることは、フィルスも気が付いていた。
皇帝リュドミルは不正を許せない人物であったが、同時に不正を見抜けない人物でもある。
彼らは皇家にいつも多額の寄付をしていた。後宮や休暇の別邸などの建設に際し、皇家に忠誠を示すという名目でいつも多額の献金をしているのである。
宰相のテニアナロタ公は優れた人物であったが、皇家と貴族の協調性を重んじる人物で、公爵家の不正には甘い。いや、もしかしたら、テニアナロタ公は多少不正があっても、公爵家として皇家に対して相応しい忠誠心を示すのであればそれでよいと考えている節がある。
テニアナロタ公にとっては皇家が久しぶりにその権威の象徴たる後宮を建設するというのに、資金や娘を献上しない貴族達のほうがよほど自分たちの事しか考えていない堕落した貴族にみえたのかもしれない。
彼ら不正の徒として名前が挙がっている貴族の娘が、後宮の妃としての入宮順を表す番号が比較的若いことは、これらのこととは無関係ではないのである。
フィルスの娘のベスは入宮候補に挙がっていたが、彼は後宮に入れないつもりだった。
父として、容姿端麗で成績も優秀だった彼女には、後宮のような閉鎖された不自由な場所ではなく、開かれた社会で自分の幸福を見つけて欲しいと考えていたのである。
そして、彼は皇家に一度も寄付したことはない。不正を許さない彼の家の財政は貴族としては最低限の生活レベルだったのである。
ところが、当主のフィルスは自分が陥れられることがわかると、裁判で有罪になることを予感し、娘を逃がすために後宮に入れた。一度後宮に入ってしまえば、どのような追及や捜査も行われない。
親が汚職で捕まると知れば、皇帝から不興を買うかもしれないが、そこは才色ある娘を信じて任せるしかなかった。
その息子カウニスは、父の無念な気持ち、そして妹の残念な気持ち、それらをあまり考えたことはなかった。
彼は士官学校の寮にいて、自宅には時々帰る程度だったのである。また、実家を失ったカウニスの後見したのはニコリスコエ公だった。
公爵の真意はわからない。親類なので野に放つよりも恩を売って使い潰してやろうと思ったのかもしれない。
「最初は信じられなかったが、まさか本当に身体が入れ替わるなんて事が実現するとはな」
「父上は、今回の事件のことを予め知っていたのですか?」
「ああ。実は、私は政治犯を収容するアスタナ要塞の監獄に収容されたために、彼と牢が近くなってね。牢屋でも一日中牢獄にいるわけじゃなくて運動の時間はあるし、私も彼も凸音信号が使えるから、上手くやり取りしていたんだよ」
カウニスが半年前に、監獄で父に面会した時はひどく痩せ細って暗い顔をしていた。
40歳過ぎの父に懲役20年である。そしてそれまで築いたものをすべて奪われたのだ。おそらく人生を絶望していたに違いない。
だが、今の父は活気に満ちている。身体が若い所為もあるだろう。大きな仕事に挑戦するときのように高揚していた。
「遠回りにはなったが、これからは働き甲斐もあるというものだ。陛下への忠誠とレン殿への協力がひとつになっているのだからね。あと、お前の身体になったベスは、お前の代わりに士官学校で勉強したいといっているよ。まったく、お前は妹よりも成績が悪いんだから…… 私が取引しなければ、お前はどこかのヨボヨボの身体に飛ばされていたかもしれないんだぞ」
「申し訳ありません、父上。勉学に励みます」
父に成績が悪いと叱られるのは、これで何度目だろうか。しかし、いままで出来のいい妹と何度も比べられていたが、これからは妹の身体なので違和感はある。
カウニスの友人にムラト族の若者がいた。その彼は、もし、美人になったら金持の玉の輿にでも乗って悠遊と毎日遊んで暮らしたいと話し合っていた。
もし、それを咎められてヨボヨボ老人にされていたかもしれない事を考えると確かに怖い。しばらくは熱心な父と一緒に働いた方がよさそうだ。
「レン殿に協力する取引で、復讐も果たせたしな」
父の言う復讐を果たせた…… パーペン家は、文字通りニコリスコエ家とスヴィロソフ家から価値があるもの全てを奪ったのである。
全てというのは、財産だけではない。
それは、今の父や使用人たちの身体をみればわかる。
父、フィルスの身体は、ニコリスコエ公が最も可愛がっていた孫娘のミッフィー、執事のパブロの身体は、スヴィロソフ家の愛娘ルーナ、従者のホアキンはニコリスコエ公の後妻で新妻のトリエ、メイドのエルビラはスヴィロソフ家の息子、使用人のビガスはニコリスコエ公の末娘キャリーになっている。他の何人かの使用人も同様だろう。
彼女たちは、それぞれの家にとって、大切な女性達である。
そしてそれらは本来、どんなに借金を背負っても、けっして奪われることのないはずのものだった。女性の身体が奪われるというのは、女性の尊厳的な比喩表現であって、実際にその女性としての価値が奪われるわけではないはずである。
その絶対に奪われるはずのないものが、精神から肉体を引き剥がされ、ニコリスコエ家とスヴィロソフ家が持つ、妻や娘達の身体という資産のひとつとして、パーペン家の復讐の為に奪われてしまったのである。
「これが倍返しか……」
カウニスは、少し前に彼の友人のムラト族の若者に会った時に、彼らが言っていたムラト族文化の用語を思い出して呟いた。
いままでずっと真面目に働いてきた人間の恨みは想像以上に深い。




