運命の輪3~入宮初夜②
アンセムはマイラに食後にいつもしている習慣の手伝いを頼んだ。
「さてと、メシもしっかり喰ったし、支度するか。マイラ、悪いけど着替え手伝って」
「はい、畏まりました」
アンセムはマイラに手伝ってもらってランニング姿に着替えた。
普通は、下にショートパンツを履くのだろうが、後宮の宮女はズボンの類が禁止だという。だから、仕方なくミニスカートを履いている。
だが、脚は素肌が剥き出しで、スカートもヒラヒラとしており、走るとエリーゼの下着が見えそうでかなり不安な姿だ。
だが仕方がない。別に見えても減るもんじゃないし、どうせここには女しかいない。
アンセムは首からタオルを下げて、室内で屈伸運動をしながら言った。
「じゃあ、マイラ。行ってくるよ」
「本当にお庭を走るのですか?」
「いやぁ、食後にいつもの鍛錬をしていないと、なんだか気分が悪くてさ」
「わかりました。寒いのでお戻りになった時に暖かいミルクティを用意しておきますね」
「ああ、頼むよ」
後宮の生活施設は、全て屋内廊下で繋がっているが、周囲の城壁との間に外周路も整備されており、敷石でほぼ一周できるルートがあった。
アンセムは月夜の中、人の少ないこの外周ルートを走り始める。
だが、たった数百メートル走るだけで、エリーゼの身体は悲鳴を上げ始めた。
持久力の訓練というのは、基本的にその身体の酸素や筋肉の効率性を高めるものである。
アンセムが昔のペースで走り始めてから、僅かの距離でいつものペースでは走れなくなってしまう。
「エリーゼめ…… なんて運動不足なんだ」
アンセムは不満を呟いたが、彼にとっては筋肉の疲労よりも、それ以上にキツイことがあった。
走るたびに、エリーゼの乳房が揺れて引き裂かれるように痛い。その痛さは、昔の身体には乳房がないので比較しようもないが、ランニングを断念するのに十分な激痛であった。
しかし、走ると必ず胸が痛くなるのであれば、そもそも女性という身体は走る構造にはなっていないのではないかと思う。
ただ、女の身体は歩くだけなら男より楽な感じがする。特に股間に何もついてないので、下腹部にプラプラしている感じがしない。
もっとも、アンセムは股に密着した下着の感触を感じる度に、男の象徴を失った喪失感に苛まれるのであるが。
ランニングがウォーキングになってからしばらくすると、外周路の北奥にある後宮で最も高い建物、浴場の煙突付近を通りかかった。
逞しくそそり立つ煙突と、その先端から力強くもくもくと煙を吐き出すその姿をみて、なんだか悲しい気分になってくる。
煙突の下にある施設は、火を焚く施設。つまり、ボイラー室がある。後宮のボイラー室は規模が大きく、調理場と風呂に湯を供給していた。さらに、その蒸気を床下に送り込んでほとんどの施設を暖めている。
このボイラー室は他の建物と少し離れて、後宮の隅の方にあった。ボイラーが常時火を使う施設と考えれば当然の配置といえるだろう。
アンセムがそのボイラー室の煙突の脇を通りかかった際、1人の妃が不安そうに空を見上げているのを見つけた。
「”しょぼん”、降りてきなさいー」
彼女が見上げている煙突の上の方を見ると、煙突のハシゴの一か所に小さな生き物が乗っており、高すぎて下に降りられなくなっているようである。
その生き物は、猫というペット用の愛玩動物だ。帝都では飼う者がおらず、あまり見かけない。
アンセムが過去に見たことがある猫は俊敏で受け身も上手く、あれぐらいの高さなら軽く降りられそうだが、その猫は見るからに丸々と肥えており、そのまま落ちればケガをしそうだった。
その下にいる妃は、月明かりに照らされて輝く、地面まで届くほど長くボリュームのある美しい髪、そして幼い少女のような愛くるしい体躯をしている。
ラグナ族の幼女の可能性もあるが、容貌からいってたぶんアリス族であろう。
アリス族はラグナ族の遺伝子の中に存在する別種族で、ラグナ族の中から稀に産まれる事がある。本来ならアリス族のような遺伝子はラグナ族の大きな集団の中に吸収されて消え去ってしまうものだが、アリス族がラグナ族の中に寄生して約1000年経った現在でも失われていない。
アリス族の容姿は、男性であれば誰でも虜にする事が出来ると噂される美少女、さらにその小さく弱々しい体躯には、男を惑わす特殊能力があるという。彼女達は、その力で駆使して金のある男を篭絡し、その生活基盤に寄生する。
この行為はラグナ族の女性から見れば、たいへんな嫌悪の対象である。アリス族は性格的に相手に恋人がいようと平然とその座を奪って居座ろうとする性分を持ち、彼女らによって、夫や恋人を奪われる話は後を絶たない。
ラグナ族の女性達からすればアリス族の行為は絶対に許す事は出来ないものである。また、種族分類学者は、アリス族のこの篭絡効果を、男性を誘惑するフェロモンにあるとし、これは男性には好意に作用するが、女性には敵意に作用するとの実験結果を示していた。
それゆえ、歴史的にラグナ族の女性はアリス族の女性に対して敵意を持って差別的に表現する。
特に玉の輿寄生種族という差称はアリス族の事を指していた。
猫がいる煙突のハシゴの高さはそれほどでもないため、アリス族の妃は手を広げてネコを受けとめようとしているが、彼女の低い身長では着地地点まで遠く、猫は飛びおりることができない。
「あの猫、君のペット?」
アリス族の精神構造はラグナ族と若干違うが、文化的にはラグナ族とほぼ相違ない。ラグナ族文化には猫を飼う習慣は無く、帝国内に居住する異種族のムラト族がよく飼っていた。
「うん。友達から預かった大切な猫なの。あの子、運動が苦手だからあそこから落ちたら大変」
アリス族の少女は、困った顔をしていた。
普通の女性なら、美少女がこのような表情をしても心を揺り動かされる事はないだろう。
だが、エリーゼの身体の中にいるアンセムは、可愛い少女の頼みを放置しておけないという、男なら誰でも普通に持っている男の性があった。
そして、アンセムは手っ取り早く高さを得る方法を思いついた。男であれば小さい子供相手にはよくやる方法である。
「よいしょっと」
「きゃっ!」
アンセムは、アリス族の娘の股の下に入りこんで首を通すと、そのまま一気に肩に乗せて担ぎ上げた。
昔のアンセムの体格なら、小柄なアリス族の娘を肩車するなど造作もない事であったが、エリーゼの肩幅と筋力では相当にキツイ。
第一、普通の女性は肩車なんてしない。
「さすがにちょっとキツかったか……」
しかし、その肩車のおかげで十分な高さが得られ、“しょぼん”と呼ばれた猫はアリスの娘の懐に飛び込んできた。
飛び込んできた衝撃でさらに揺れて危うく倒れそうになるが、そこは男の意地で必死に踏ん張る。
そしてアンセムはゆっくりとアリス族の娘を降ろした。
娘はすぐに向き直ると、猫を抱えたまま、可愛く挨拶を行う。
「初めまして、あたしはメトネ・バイコヌール。バイコヌール公爵の娘です。よろしくお願いいたします」
「ヴォルチ家の…… エリーゼです。初めましてメトネ様」
「メトネでいいよ。あたし、庶子で貴族の爵姓ついてないし」
アンセムも名乗って挨拶を交わす。バイコヌール領といえば、3年前の戦役で戦場となった地域である。
ラグナ族の啓蒙の法では、庶子であっても当主に認知されれば貴族の家名を認められる。
ただし、母親の素行、素性の疑い等から、貴族審査委員会によって承認されない場合は、名前に爵位を示す爵姓が入らない。
バイコヌール公は放蕩な性格で領内にたくさんの愛人、庶子がいるという噂がある。
そのため、美姫であるメトネを皇家に献上するために、娘を認知して後宮に入れたという噂があった。実際にバイコヌール戦役に参加したアンセムは、その噂を知り合いのバイコヌール兵から聞いた事がある。
そういう意味では、後宮という環境はアリス族の女性にとっては居心地のよい場所なのかもしれない。
働かなくても文句は言われないし、アリスの持つ篭絡能力はライバル達を蹴落とすのに有効だ。野心家のバイコヌール公の考えそうなことである。
「ケガがなくて良かったよ」
「あ、うん。助かったわ。ありがとう、エリーゼ様」
「帝都で猫なんて珍しいね」
メトネは可愛く微笑みかけてくる。ラグナ族とその諸派は大陸中に美しさで知られる美形種族であるが、アリス族の微笑みは、その中でもさらに男性を虜にすることに特化している。
こんなに可愛いらしい容姿で微笑みお願いされたらどんな男も断る事は出来ないだろう。もちろん、だからラグナ族の女性達に忌み嫌われるのであるが。
アンセムは、急にメトネの方に歩み寄った。
メトネは急接近してきた彼によってそのままボイラー室の壁際に追い詰められてしまう。
アンセムは片腕を壁に付きつけて、彼女が容易に逃げられない得意の体勢を作ると、顔を近づけて質問を続けた。
「エ、エリーゼ様……!?」
「ねぇ、メトネはどうして侍女を連れていないの?」
突然、急接近されたことにメトネは驚いている。
アンセムはそのまま彼女に囁くように尋ねた。
「だって、ラグナの女はアリスが嫌いだから……」
庶子のメトネには入宮の際に付き添いの侍女がいるわけがなく、戦役の負債に苦しむバイコヌール公にそんな金銭的余裕があるわけがない。後宮運営によってメトネにつけられたレディメイドはラグナ族なので彼女と仲が良くないのだろう。
今回は以前と違い、身長差がちょうどいい感じで意外と格好がついていた。
「ラグナの女が嫉妬するのは当然さ。こんな美しい姫をみては、声を掛けずにはいれられないからね」
「え……?」
さらに彼は顔を耳元に近付けて囁く。
メトネは当初は驚いた表情でいたものの、何かに気が付いたように頷き、突然冷静になった。
「うふふ、エリーゼ様は、まるで殿方みたいですね」
彼女はクスクスと愛らしく笑むと、今度は彼女の方から顔を近づけてくる。
そして、アンセムにいきなり唇を重ね合わせた。
突然のことに驚いたアンセムがあわてて離れると、彼女はまた優しく微笑む。
「これは、先ほどのお礼よ」
アンセムの精神はナンパの成功に、精神的興奮は絶頂に達しようとしていたが、今の彼の身体はその興奮に正常に反応しない。
男の精神は、男性的な興奮状態を得ようと肉体に強く命令していたし、目の前のアリスの娘のフェロモンはその実行を強制するよう促すものであったが、エリーゼの肉体は、アンセムの命令もフェロモンへの反応も、無反応で抵抗した。
精神は興奮しているのに身体は反応しないという、なんともいえない感覚に苛まれていると、メトネはそう意地悪っぽく笑う。
「じゃあ、また後でね~」
猫を抱え、手を振って立ち去るアリスの娘を見送りながら、アンセムは呆然と立ち竦むだけであった。