愚者1~イ=スの奇跡⑤
アンセムは、談話室を出て自室に戻る。
皇后の館がアンセムの部屋であるが、そこに戻っても誰もいない。
この後宮で二番目に広いアンセムの部屋には、いつも侍女のマイラか、侍女のパリスのどちらかがいて必ず彼を出迎えていた。
アンセムは独りが好きだったはずなのに、いつもいるはずの彼女達がいなくなると、なんだかとても寂しい気分になる。
マイラの精神はカバンバイの防衛線で、コンドラチェフの身体に入っている。では、マイラの身体は何処に行ってしまったのか?
テーベ族の侍女のパリスはどうしたのだろう?
少し聞いた話では、戦力になりそうな身体はみんなレンの旅団員が奪取し、既に集結して次の作戦準備を開始しているという。
テーベ族は強力な特殊能力“月影”を持っている。もしかしたら優先的に身体を奪われたのかもしれない。
ただ“破瓜の呪い”があるので、正直言ってテーベ族の処女にはなりたくはない感じはする。
侍女がいないので仕方なく自分で夜着へと着替えを済ませると、突然、ドアをノックする音がした。
「どうぞー」
もしかしたら、マイラやパリスが戻って来たのと思ったが、考えてみれば彼女達侍女は、ノックをしないですぐに入ってくるので、彼女達ではない。
「失礼するよ」
部屋に入って来たのは第16妃レニー・コンテ・マトロソヴァだった。先ほどの談話室で着ていたドレス姿のままである。
彼女の中身は予想がついていた。
「こんばんは、マトロソヴァ伯」
元第4師団長ロウディル・コンテ・マトロソヴァは、タルナフのクーデター際にレンを紹介したことから考えても、彼と繋がりが強いらしい。
それにレンがアスタナ要塞に収監された後もリュドミル皇帝に内密で便宜を図っていたようであった。
そうであれば、彼はこの入れ替わり計画の事を予め知っていたのだろうか?
「アンセム君、皇太子様が無事だと知った時は、心底、レン殿の綿密な計画に感服したよ」
ロウディルは、皇太子救出作戦の失敗、そして紹介したレンが罪に問われた事をずっと心配していた。
彼からすれば、それは自分の身体が自分のもので無くなったことよりも重要らしい。
「伯爵は、今回のレン旅団長の計画を知っていたのですか?」
アンセムは単刀直入に尋ねる。
「いいや、私は知らなかった。ところがね、妹のレニーは最初から計画を知っていて、どうやら積極的に協力していたみたいなんだ」
「レニーが?」
そういえば…… アンセムにも思い当たる節がある。
最近、メトネとレニーの仲が急激に良くなっていた。2人だけで会う事も多かった。きっと、何かを相談していたのだろう。
「私も、今日気がついたら突然レニーの身体になっていてね。それは皆と同じだと思うのだけれど、机の上に私宛の置き手紙があったんだ。だから、レニーはこの日に、私がレニーの身体に来る事を知っていたってことさ。しかも、私が買ってやって、一番似合うと褒めた服を着て待っていたんだよ」
「どういう手紙だったんですか?」
「内容は、まぁ…… 簡単に言うと、レニーは私になりたかったみたいなんだ。それで、私の身体を取っていった。私宛には、これからはレン殿の傍で幸せに暮らしてくれ、だそうだ」
アンセムは、レニーが東路軍の全滅という報告を受けた時に、ロウディルの事をとても心配していたことを憶えている。
「つまり、私は男としての資格無しと妹のレニーに判断されて、身体ごと家から追い出されてしまったんだ。情けない話だが…… おかげで、家に帰れと言われても帰り辛くてね。レニーは今回の件を全て知っているみたいだし、もう後の事は彼女に任せて、私はここに残って明日の会議を待つよ」
ロウディルは、法兵の能力としては優秀な人間だと思う。努力家で人柄も良く、親身になって他人を心配できる友達甲斐のある人物だろう。
だが部隊の指揮官としては、なにかが足りないのだろう。
「ところでアンセム君に頼みがあるんだが」
ロウディルは急に神妙な顔つきをして頼む。
「なんでしょう」
「私がレニーに買ってやったドレスだが、脱ぎ方が分からない。これでは休めないので、教えてくれないか……」
アンセムは苦笑すると、すぐにレニーの身体の後ろに回り、ドレスの背中の編み上げ紐を外して、後ろ布を除くと現れるファスナーを下げた。
すると、レニーの赤いドレスはするりと脱げた。
「おお! こうなっていたのか」
ロウディルはやっと自分の服が脱げたことに感激し、アンセムに感謝を述べるとレニーの自室へと戻って行った。
立ち去るレニーの身体のロウディルを見て、アンセムは彼の事が心配になる。
彼は、明日の会議に行く服はどうするのだろう。着るのは脱ぐのよりもっと難しいのだ。