愚者1~イ=スの奇跡②
アンセムが帝都に到着する頃には完全に日が暮れ、周囲は暗くなってしまっていた。
実は工兵士官出身のアンセムは騎乗があまり得意ではない。
特に、自分の身体がエリーゼになってしまってからは、後宮で閉鎖的に暮らしている所為もあって、練習を完全にサボっていた。
もちろん基本動作は出来るが、長時間、しかも日暮れの早駆けとなるとまた別の技術である。騎兵科の士官は当然習得する技術であるが、彼は習熟していなかった。
また、ラグナ族の文化では女性はズボンをほとんど履かない。エリーゼの身体は男と構造が違うなど、男の時との違いにかなり違和感があり、その所為もある。
そのため馬で急ぐといっても、通常の伝令を使う場合よりも時間がかかってしまったのである。
帝都は静まりかえっていた。
あちらこちらの看板に「外出禁止の戒厳令」「自らの精神の自宅に帰宅せよ」という政府広報の張り紙が建てられている。
つまり、帝都の人々は、この入れ替わり事件の後の混乱の後、戒厳令が敷かれて、自分の精神の自宅に戻るように指示徹底されているらしい。
ただし、帝都内の国道を馬で進むアンセムは、路肩で座りこみ放心状態でうな垂れる老人、意味不明の言葉をしゃべり続け路地に消える貴族の男、虚ろな目をして徘徊する老婆など、あきらかに精神に異常をきたしている人間を何人も目撃した。
実は、帝都では長い戦争の連敗続き、そしてその後遺症から、精神に異常をきたす者が多かった。
これは戦場という非日常から来る戦争ストレスが原因である。特にラグナ族はこの病気に成り易い。
R属系統の人間種は、ほとんど自殺できない。だがそれは強靱な精神力によるものではない。
単に遺伝子に刻まれた強力な生存本能を持っており、無意識のうちに生きようとしてしまう、または自殺しようとする精神の働きを抑止しようとするだけである。
しかし、根本的な精神力の強さは、他の人間種とそれほど変わらない。
このような理由があって、精神を病む者は後を絶たなかったのである。
もちろん、この路上で徘徊している者達が、これらの精神的な病を患った者が入れ替わってその身体になったのか、それとも入れ替わってしまった後に、自らの身体に絶望してそうなってしまったのか、あるいは徘徊している者がほとんど高齢者であることから、老化した身体に突然変化したため精神に異常をきたしてしまうのか、その理由は今の時点ではまったくわからない。
だが、皇后アンセムが構築した、帝都に対する有事対策はまるで機能していない事だけは分かった。
彼は帝都での市街戦に備え、地区別の班長などを決め、細かく住民に伝達する手段や、対空戦闘の訓練、防火訓練などの必要な措置を徹底させていた。
ところが、今のところ人間同士の連絡に関する彼の作ったマニュアルはまったく意味を成していない。
ただ、彼が帝都の随所に設置した広報用の立看板だけはどうやら役に立っているようだ。
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アンセムは、市内の道を後宮へと進む。
各家は明かりが灯っており、屋内に人はいるようだが、彼は真っ先に後宮を目指した。その間、彼を途中呼び止める者も、まともな精神の者にも出会う事もなく、政庁入口に辿りつく。
政庁南の石橋付近には、警備詰所があり通常であれば男性の警備兵が常駐しているはずである。しかし誰もいない。
その石橋を渡って政庁内に入る。
政庁は機能が移転し、ここには聖女連隊とハイランドの王族と神官達、そして貴族の避難民の仮宿舎があったはずである。しかし、ここにも誰もいなかった。
この政庁には国庫の大金や国家の貴重品などがあり、そのあまりの無警戒ぶりに心配になる。
例えば、もし、この入れ替わり現象が完全なランダムで行われているのであれば、帝都にいる窃盗犯、凶悪犯、山賊集団などの犯罪者の精神が、警察施設の収容所や監獄などから出され、誰かの身体を得て野放しになっている可能性だってあるはずだ。
そうすれば、これらの品物が狙われるかもしれない。
だが今のところ、それらの心配はないようだった。それを言えば街中の銀行や個人宅だって危ないが、彼が通って来た限りではそのような暴力や混乱は見られない。
政庁の厩舎で馬を置き、徒歩で後宮へと繋ぐ南門へと向かう。政庁と後宮を繋ぐ南門も開きっぱなしである。
ここは何度も来ているいわば自宅なのに、彼はまるで他所の家に来るような感覚で後宮に入って行った。
後宮の南門付近には、後宮警備の女性達が詰めているはずだった。しかし、ここにも誰もいない。
余りの静けさに、彼はとても不安になる。国の中枢、男子禁制の皇帝の私邸が完全無防備なのである。
南門を抜けると、後宮最初の施設、挨拶の館がある。
ここは、出勤する皇帝を並んで見送り、帰宅する皇帝を出迎える建物であった。
アンセムも出撃する前はここで宮女達の挨拶を受けている。
赤い豪華な絨毯が敷かれ、左右の壁には国家の威厳を示すアスンシオン帝国の国旗、皇帝家の紋章などが飾られている館だ。
その館を進んでいくと、アンセムは急に呼び止められた。
「あ、おかえりーアンセム。予想より遅かったわね~♪」
奥から手を振って近づいてくるのは、第21妃メトネ・バイコヌールである。いつものように愛くるしい笑顔、甘ったるい声で話しかけてくる。
彼が見る限り、彼女に変化はない。
ただ、彼女はいつも後宮で過ごしていた豪華なドレスではなく、アリス族の種族衣装ともいえるアリスのエプロンドレスという、アリス族特有の白と水色のワンピースの服を着ていた。
服装は違ったが、無邪気な様子で微笑むその姿は、彼が出撃したときに見送った姿となんら変わっていない。
アンセムの見知ったメトネの無事な姿を見ると急に安心した。もしや、何かもっと大きな異変がさらに起きてしまったのかと不安になっていたのである。
「メトネ、無事か! 陛下は? 帝都は? みんなはどうなっちゃったんだ?」
アンセムは旧知の者に出会ったことで、さっそく状況を問いただしてみる。
だが、彼女はその甘い口調で恐るべき言葉を吐いた。
「うーんとね、簡単に言うとね。この都にある価値のありそうなものは、レンお父様とその仲間達が全部いただきました。権力も財産も、身体さえもぜーんぶよ!」
メトネは幼子がはしゃぐように言う。
!?
全部、いただいた……?
アンセムはメトネの口から発せられた言葉が、何を言っているのか理解できない。
「どうしちゃったのアンセム~ 呆けちゃって。事実を呑みこめないの~?」
メトネはいつもの調子のいい挑発したような明るい声で言う。
頭は真っ白になったが、混乱する頭でなんとか整理する。
現実に彼がここまで来るまでに見た様子、防衛線で工事をしていた兵士達、都の静寂と混乱、それらを見ていると、メトネの言っている事が妄言ではない事は理解できる。
「意味が…… 意味がわからない。メトネ、ちゃんと説明してくれ……」
「もう、アンセムはバカだなぁ~ アナタ達は負けちゃったの。負けて全てを取られたの、なにもかも」
私達が、負けた……?
奪われた? 何もかも?
「あ、お父様が来た。お父様~ アンセムが帰って来たよ~!」
挨拶の館の奥から歩いて来た者、それはアンセムのよく知る人物、リュドミル・シオン・マカロフの姿だった。
それは、間違いなく皇帝のその姿である。
するとメトネは無邪気に走り、子供のような仕草でその男に近づくと、その腰に抱きついた。
本来ならば、以前のメトネは皇帝をいつも避けていた。
だが、今の彼女は、アンセムが今までみたことのないような表情、いつもの甘く愛くるしい顔ではなく、心の底から安心しきった純粋な子供の目でその男を見つめている。
そして、その男は、メトネをまるで自分の子供を褒めるように頭を撫でた。
メトネは抱きついたまま、勝ち誇ったようにアンセムを見ると言った。
「紹介するね、アンセム。私のお父様、レンよ」
皇帝の姿をレンと紹介されて、アンセムは絶句する。
「いやぁ、アンセム君。一ヶ月ぶりですね」
その男は皇帝の声でアンセムに久しぶりと言った。
アンセムは、メトネの言う「全てを奪われた」という言葉の意味を、ようやく理解し始めた。




