愚者1~イ=スの奇跡①
それは一瞬の出来事だった。
アンセムと共に軍議に参加していた工兵士官のニヴェル・コンドラチェフ、ヨハン・リッツ・エイブル、フバーク・ストラトスの3人が突然、不可解な行動を取り始めたのである。
「えっ!? ここは何処……?」
見れば、3人とも内股になり、まるで自分に何が起こったのか分からない様子で、周囲をきょろきょろと見渡している。
続いて、彼らは下を覗いて自分の身体や服の様子を見ている。
「なにこの服!?」
「胸が無くなってる!」
今度は3人とも急に叫び声をあげた。
彼らは驚いた様子で自分の胸をペタペタと触った後、恐る恐るベルトを外してズボンを上から覗きこんでいるようだ。
「なによコレェ!?」
「男!?」
3人はズボンの中にあるものを確認すると卒倒しそうになっている。
「お、おい…… どうした?」
アンセムは心配になって声を掛けてみた。すると、コンドラチェフはこちらを見て、声を掛けた。
「あっ、皇后様! 私はマイラです。いったい私…… どうなっちゃったのですか!?」
コンドラチェフは自分の事を皇后アンセムの侍女マイラだと言っている。
「え、君が…… マイラ?」
アンセムは何が起こったのか理解できない。だが、当人達はもっと理解できていないようだ。
アンセムは、彼ら、いや彼女達から何が起こったのか話を聞く。
ニヴェル・コンドラチェフの身体にはアンセムの侍女のマイラが、ヨハン・リッツ・エイブルの身体には第25妃ナーディア・コンテ・タブアエランの侍女マリカが、フバーク・ストラトスの身体には第78妃レシア・リッツ・フォーサイスの侍女ミーナの精神が、それぞれ宿っているようであった。
皆、身体が突然男になってしまい混乱している。特に股間に異物がついているのと、胸が無いのは彼女達にとって衝撃が大きいようだ。
だが、アンセムは彼女達より少し落ち着いてこの状況を理解できた。
彼自身、約2年前にこの現象を経験していたからである。だから、そんなことはありえないと現実を否定する事なく受け入れられている。
「どうやら、君達は後宮から精神だけがここに来て、コンドラチェフ達と身体が入れ替わってしまったようだな」
アンセムはマイラ達に説明する。冷静に話すアンセムの言葉を聞き、彼女達の動揺はやや治まった。
彼もこの不可思議な現象が、再び起こるとは思っていなかった。しかも3人同時にである。
「この身体でメイド服は着れるのかしら……」
「なにか股間に挟まっていて歩きにくいです」
「こんな身体じゃトイレに行くこともできないわ」
彼女達は、そんな心配を呟いているが、最も大きな心配は「どうやったら元に戻れるか?」だろう。しかしそれはアンセムも分からない。
アンセム自身は妹のエリーゼと入れ替わった後、自分の身体のエリーゼは戦死してしまった。だから、おそらくもう戻れない。
しかし、なぜ今回は3人同時なのだろうか?
アンセムは外で喧騒が聞こえた為、嫌な予感がして幕舎から外へ出て見る。すると周辺に居た新兵達は皆、自分の身体に驚き、絶句し、悲鳴をあげていた。
自分の身に何が起こったのか分からず、身体の変化に驚き、慌てている。それは、マイラ達が最初にとった行動そのままだった。
アンセムは、慌てる彼らを宥めながら、建設中の陣地内を移動して確認した。すると、その現象は、カバンバイ丘陵に設置していた防衛線「プリンセスライン」を工事していた全ての兵士に及んでいたのである。
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状況を把握して、アンセムもさすがに冷静ではいられない。
一瞬にして20万もいる兵士の身体が、別人の精神と入れ替わってしまった。
だが、身体が入れ替わってしまった者達の混乱はそれ以上だ。現状を理解できず、あちこちでヒステリックに喚く者、泣き出す者が現れている。
この「プリンセスライン」に配置されていた兵士は全員男である。ところが、宿っている精神を確認してみると、どういうわけか全員が帝都で暮らす女性のようだった。
この現象が、アンセムが経験した入れ替わりの“奇跡”によるものなら、帝都に居る彼女達の身体には、ここにいる兵士の精神が入っている事になる。
帝都で暮らす都会の女性達は、いきなり男性化して金属製の胸当てを着せられ、剣を携帯し、スコップを持って荒れ地の丘陵で陣地設営の作業していた汗臭い男になってしまったのだ。
アンセムも彼女達も皆混乱し、何から手を付けていいのか分からず、呆然とするばかりであった。
この「プリンセスライン」から帝都までは約30km、軍隊の移動速度なら1日の行程で、それほど遠くはない。
しばらくして冷静になってくると、彼女達は自分の身体や家族の事が気になり、早く帝都に戻りたいと言い出す者が続出した。
だが、1日で移動できる距離といっても、調査で時間が経過してしまい、今は午後4時過ぎである。今から移動しても夜間になり、夜間行軍の準備をしているわけではない彼ら、いや彼女達では、とても移動できないだろう。
そもそも彼女達は、夜間移動する準備があったとしても、まともな軍隊の行軍などできない。
もちろん、この防衛線には騎乗の得意な偵察兵も連絡兵もいたはずだった。
だが、その兵士全員に宿っているのが、一度も馬に乗った事のない女性の精神になってしまっている。それは学生や主婦、母親など様々だったが、とにかくその誰もが馬を駆って素早く帝都に戻り、状況を把握してここに戻るなどという任務が出来そうにない。
敵が来るまでに準備期間を十分用意できるように、帝都のすぐ近くに防衛線を引いたので、敵の本隊がすぐに襲来するということはないだろう。
しかし、軽騎兵による威力偵察が現れる可能性もある。
ここに今いる男達は、見た目の格好だけは兵士だが、もし敵が少数でも現れたなら、彼女達の精神では到底戦えるとは思えない。こちらの兵力が20万あっても関係無いだろう。
そして、その結果はアンセムが彼女達を指揮したところで変わらない。
小隊長、中隊長、大隊長といった指揮官は誰もいない。指揮系統は完全に喪失し、その指揮を補助する参謀どころか、偵察員も連絡員もいない。
はっきりいって組織としてはメチャクチャであった。
結局、アンセムは自分で馬を駆って帝都に戻り、状況を確認する事にした。
馬を飛ばせば帝都まで2時間程度の距離だ。事件発生から状況の把握に数時間を費やしてしまったが、おそらく日が暮れるギリギリまでには帝都に到着するだろう。
アンセムは、とりあえず陣地構築を中止し、各自に待機場所のテントで待つよう指示する。
幸い、到着したばかりで補給物資は潤沢にあったので、彼女達にはそれらを使って夕食の支度をして待ち、状況を整理するので冷静に待機しているよう伝えた。
こうなっては敵が来ない事を祈るしかない。
万一の際を考え、アンセムはコンドラチェフの身体のマイラ達に、敵が現れた場合は明かりを消して身を隠すように、皆に伝えるよう指示した。
「ところで、後宮でもしマイラの身体に会ったらなんて伝えればいい?」
皇后アンセムは、出立のために騎乗するとコンドラチェフの姿のマイラに声を掛けた。
「あの…… 髪はお湯に浸けないように言ってください」
マイラと初めて会った時、風呂に向かうアンセムを送りだした際の彼女の注意がそれだった。アンセムはそれを思い出して苦笑する。
だが、当のマイラは悲しそうだった。彼女は皇后アンセムの髪も自分の髪も大切にしていた。それが他人の物になってしまったという事実は、笑い事ではない。
「ああ、わかった。それじゃあ、マイラ。行ってくる」
「いってらっしゃいませ、皇后様。あの…… 後宮からその言葉で出発されるのを送り出したのに、またその言葉で送り出すなんて、なにか変な気分ですね」
「そうだね」
アンセムは微笑んで応えると、馬を走らせ帝都へ向けて出発した。
前線の防衛陣地に残された彼女達は、一同が不安そうな様子でそれを見送っている。