塔6~守りたいもの⑤
士官室の中では、催涙ガスの中、男同士の激しい切り合いが行われていた。
二対一、しかも2人の側がより柄の長い武器を所持している上、催涙ガス対策にゴーグルとマスクを準備していた。
もっとも1人の男の身体は完全に女で、もう1人は女装している貧弱な体格のムラト族の男だ。
催涙ガスで苦しいはずの状況だったが、雄叫びを挙げて迫力のある攻撃を繰り出すタルナフは、剣技で彼らを圧倒した。
ムラト族の女装男の渾身の一撃がタルナフの左肩に刺さったかと思うと、彼はその苦痛をものともせずに、サーベルが刺さったことで動きの止まったアルトを、強烈な一撃で殴り飛ばした。
メイド服姿で鎧をつけていないムラト族の男は呻きながら腹を抑えて昏倒する。
さらに右側からサーベルで攻めていたアンセムは、タルナフが短いショートソードしか所持していないにも関わらず、彼の剣技に圧倒されていた。
一対一になったことで、アンセムの武器は叩き落とされ、彼女の豪華なドレスに剣を突きつけられる。
「アンセム。今からでも遅くはない。あの皇帝は見捨てろ」
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タチアナは泣き喚く皇太子を抱えて甲板に出ていた。既に二発目の迫撃法弾が撃ち込まれて、船体に大穴があいている。テーベ族のメイド連隊は湖岸港制圧後に動きはないが、周囲から現れたムラト族の突入部隊は既に船に乗り込もうとしていた。
おそらく、タルナフの腹心のゴードンとフレームレートが艦の防衛を指揮しているだろう。
もともとタルナフがこの河川戦艦に皇后を呼んだのは、いざという時は両者を人質として連れ出せるようにするためだった。
帝都には士官学校や帝都の防衛兵、そしてムラト族旅団3万がいる。
帝国の政府機能は抑え、ムラト族旅団は中立を表明し、士官学校の生徒達や防衛兵も支持を得たはずだった。しかし、タルナフ伯は様々な可能性を考慮し、場合によっては退却できるルートを確保していたのである。
だが、船の航行能力を喪失した以上、もう脱出はできない。
そして、甲板のタチアナから見れば、ムラト族旅団の兵士達は、皇后も皇太子も、そして父のタルナフが艦内にいるにも関わらず、彼らの生命にまるで価値が無いかの如く襲い掛かって来ていた。
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剣を突き付けられ、追い詰められたアンセムだったが、彼には最後の奥の手があった。
彼はエリーゼの大きな胸の谷間に、短剣が忍ばせてあったのである。胸の大きく開いたドレスからそれを取り出すと、タルナフの右目にそれを突き刺した。
ザクッ—
さすがに屈強なタルナフも呻き声をあげて倒れ込む。先ほどのサーベルで受けたダメージも利いているようだった。
アンセムは地面に落ちていたサーベルを拾い上げた。
敗北を悟ったタルナフはアンセムを残った目で強く睨みつけると、邪悪に微笑んだ。
「あのボンクラ皇帝じゃ、お前も、お前の子も、この国も終わりだ。せいぜい不幸になって足掻くがいいさ」
タルナフはそう吐き捨てる。
アンセムは、冷徹な殺人者の形相でタルナフを睨みつけると、彼の喉元にサーベルを突き刺した。
タルナフはその瞬間も笑っている。それは彼に対して「地獄で待っている」とでも言わんばかりである。
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皇太子を抱えるタチアナは船首に追い詰められていた。既に船の大半は制圧されているようだ。彼女の父がどうなったのかも分からない。
周囲には戦闘の激しい音が響いていたが、タチアナの周囲には抱えている乳幼児の泣き声だけが響いている。
すると、タチアナがいる甲板に皇后アンセムが現れた。そのドレスは鮮血で汚れている。
「まさか…… お父様が……」
タチアナは酷く動揺した。あの場所から皇后だけが彼女を追って現れたということは、父が倒されたということである。
「タチアナ、その子は関係ない。はやく返すんだ」
強く迫るアンセム。
「アンセム様、もう終わりです。お父様も私も、この国の将来を考えて実行した事。これでもう、この国を救う方法はなくなりました」
「皇帝陛下がきっとなんとかするはずだ」
アンセムは大声でタチアナを静止する。
「陛下が? アンセム様、そんな思ってもいない嘘を言ってはダメ。貴方のその嘘の所為で、多くの国民の命が犠牲になるのですよ」
タチアナは優しく微笑むと、皇太子を抱えたまま船首から静かに飛び降りた。
「まてっ! 子供を返せッ!」
アンセムは怒号を挙げて掛け寄る。だが、舳先から水面を覗いても、そこに見えるのは、波立つ水柱だけだった。
船内を制圧して現れたムラト族の兵士達にアンセムは必死の形相で命令する。
「すぐに湖水に捜索隊を出せ! すぐにだ!!」
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「残念ながら皇太子様の発見には至りませんでした……」
捜索隊の現場指揮をしたマトロソヴァ伯の報告を聞いて、力なくうな垂れるアンセム。顔面蒼白である。
首謀者タルナフの副官のゴードン・ガロンジオンや、参謀のフレームレートは降伏し、今は拘束されている。
湖に皇太子と共に飛び込んだタチアナは、周辺の湖岸に流れ着いて気絶しているところを発見された。“ヴェスタの加護”のある彼女は落下の衝撃に対して防御が掛かっているし、基本的にラグナ族には強い生存本能があり、自殺はなかなかできない。だから彼女も無意識のうちに湖岸に泳ぎ着いてしまったのだろう。
イローヴィア湖周辺は徹底的に捜索したが、皇太子アンセム・シオン・マカロフはついに見つからなかった。
10か月の乳幼児である。湖に落ちては助からないだろう。
これが普通の母親なら、涙を流すところである。
ところが、アンセムはなぜか涙が出てこない。
彼は皇帝に、この事件をどう報告していいのか悩んでいたのである。
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それから数日後、帝都にアスンシオン皇帝リュドミル・シオン・マカロフが帰還した。
アカドゥル渓谷にある戦線は、有利な渓谷の地形で防衛線を敷く事ができたために落ち着いた。彼は帝都での異変を聞いて、急ぎ戻って来たのである。
皇帝は他には目もくれず、真っ先に後宮に来た。出迎えの衛兵や妃に対しても無言、そのまま急ぎ足でアンセムのいる皇后の間に向かう。
そして乱暴に扉を開け放った。
「陛下…… 申し訳ありません」
現れた皇帝に対して、立ちあがって頭を下げるアンセム。
皇帝は、アンセムに近寄って行く。
すると……
「バカ野郎!」
ドンッ――
強い打撃音が後宮内に鳴り響く。
皇帝は思いっきりアンセムの顔面を殴りつけた。エリーゼの身体は、鍛えられた男の腕力で繰り出される暴力によって、跳ね飛ばされる。
皇帝は一度も女性に手を挙げた事はない。これからもそうだろう。
彼は、男のアンセムを殴ったのである。
「お前は…… お前はあの子の母親だろう。なぜ、子供のことを最優先に行動できないんだ!」
リュドミルは、アンセムが見たこともないような怒りの形相で睨みつける。
「国のこと? 私のこと? そんな事はどうでもいい。お前は世界中の全てが敵になったって、お前だけはあの子の事を守ってやらないでどうするんだ!」
アンセムは蹲って泣き伏せる。
「ばかやろう……」
そして、怒りの表情を見せていた皇帝は、顔を伏せると、次第に泣き崩れた。
そうだった。
アンセムは忘れていた。
皇帝リュドミルは、皇太子アンセムの世話を一度もした事は無い。
抱いた事も、撫でた事も、あやしたこともない。政庁から帰宅しても、皇太子の様子をみて無表情に頷くだけである。
普通の女がみれば、このような男は、自分の子供をそんなに大切に思っていない薄情な態度に思うかもしれない。
だが、男のアンセムは知っていたはずだ。
それは、父親であれば子供に対する、よくある愛情表現のひとつだったはず。
程度の差はあれ、どんな男も、女よりも強く子供に対して表情豊かに接したりはしない。
でも、それはその子を愛していないわけではない。
アンセムは、そんな父親の意志を無視して、国家の為に働くなどと自分の都合を優先して子供を放置し、誘拐された挙句、国家の秩序の為などいって強引な討伐作戦を実行し、大切なそれを失ってしまった。
アンセムは、この世界でたった一人の母親なのである。
リュドミルの、そして彼らの子供の願いを裏切ったのは彼なのだ。
「ごめんなさい…… ごめんなさい……」
彼は改めて失ったものの大きさに気付き、臥してただ泣き続けるだけであった。




