塔6~守りたいもの④
早朝、政庁に出て報告を聞いた皇后アンセムは驚愕した。
政庁や後宮にはまだタルナフの兵は1人も入ってきていない。政庁は、アンセムに従順なテーベ族のメイド連隊1000人が固めている。“月影”の能力を持つ彼女達に、安易に近づけば相当数の死人が出るだろう。
彼女達は任務に盲目的に忠実で、それは相手側も十分にわかっているはずだ。なにしろ、後宮の防衛実務に加わっていたタチアナがいるのである。
「タルナフ伯、タチアナが裏切っただと…… そんな……」
皇后アンセムは、政庁の会議の席で頭を抱えて唸る。クーデターを知って一部の士官達が政庁に集まったが、もはや打つ手はないという状態だ。
自分の子供を奪われたという失態。そして手を打つのが遅すぎたという大失態。
しかし、皇后アンセムにとってもっと致命的だったのは、この事態を打開する手が何も思い浮かばないという事である。
「タルナフ伯は帝都の主要機能をすべて抑えています。アスタナ要塞のヤロスラヴリ卿は、はやくもタルナフ支持を鮮明に打ち出したようですね」
東路軍の生き残り、ドゥシャンベの戦いの敗戦の責で、謹慎中のシムス・リッツ・フォーサイスが言った。彼の目の前にいるアンセムの士官学校の同期で、いわゆる悪友だが、彼はそんな事を知る由もない。
「皇后様、今回の件、我々はどのように対応すれば……」
他の士官達からもまともな案など出ない。
そもそも、皇帝と皇后の子である皇太子を人質に取られては、彼らは迂闊な発言も行動もできないのである。
そうこうしているうちに、タルナフ伯は現在の皇帝の廃位、皇太子の即位の既成事実としてどんどん進め地盤を固めるだろう。
皆が苦悩する中、ロウディル・コンテ・マトロソヴァは、皇后に頭を下げていう。
「皇后様、私の知人に、このような事態の解決に抜群の才覚を持つ知恵者がいます。また、現在、彼は帝都でタルナフ伯に対抗しうる軍事力を持つ指揮官の1人です。是非ともお会いしていただきたいと思います」
負傷後、法兵士官学校の教官主任をしていたマトロソヴァ伯は、このような困難な時に有効な作戦を練れる者を紹介すると言った。
「そんな知恵者がいるのですか」
アンセムは藁をも縋るつもりであった。東路軍を全滅から救ったというムラト族旅団の話は聞いている。そのような知恵者がいるなら、ぜひ会って話を聞きたい。
「すぐに会いましょう、通してください」
アンセムが言うと既にその男は会議場の近くに控えていた。
現れたのは、もう齢60近いムラト族の男。白髪頭で背もラグナ族に比べれば低い。
メガネを掛けており学者のような風体であるといえばそうみえるが、強く凛々しいことを求められるラグナ族の将校に比べれば、見た目的にかなり貧相である。
アンセムは内心、彼のような勇壮とは無縁の、どこにでもいそうなムラト族のみすぼらしい男が、マトロソヴァ伯が尊敬する知恵者とはとても思えなかった。
もし、このムラト族の男が若く、アスンシオンの士官学校に入校しようとした場合でも、面接で見た目が指揮官の素質無し、と烙印されて必ず落とされるだろう。
「お初にお目にかかります皇后様。ムラト族旅団、旅団長レンと申します」
「皇后の…… エリーゼです。さっそくですが、マトロソヴァ伯より貴殿が知恵者とお伺いしました。このタルナフ伯のクーデターに対して、適切な案を示してはいただけないか」
アンセムはムラト族の男に直に問う。
「畏れながら皇后様。今回のタルナフ伯の策を打ち破るには、こちらは何が重要かを見定めなければなりません」
「なにが重要かといいますと?」
「国家の安全か、皇帝陛下か、皇室の血脈かです」
「どれも重要です。どれが最も重要で、どれかを切り捨てる等という事はできません」
「タルナフ伯は、この中で国家の安全と皇室の血脈を取り、皇帝陛下を切り捨てました。その目的の達成という意味では、彼の策は非常に有効です」
以前、後宮の第21妃メトネ・バイコヌールは、皇帝はタルナフ伯の事が嫌いなのではないかと言っていた。もしかしたら、その指摘は真実なのかもしれない。でなければ、名門貴族からの糾弾があったからといってタルナフ伯を司令官から左遷したりはしないだろう。
それでは彼は今後出世できないということになる。もしかしたら、実力のある彼を警戒し、いつか謀殺するかもしれない。
そして、レンの示した国家の危機の打開策。
彼はタルナフ伯の方針を正確に予測し、説明した。
今回の戦乱の責任をすべて現皇帝に押しつけて廃位させ、多少の領土割譲は我慢して他国と停戦する。それは不可能な外交交渉ではないという。
その後は、乳幼児の皇太子を後見して柔軟に対応すれば良い。北方を平定し、次期宰相候補と噂されている彼ならば多くの国民が支持するに違いない。さらに、優秀で決断力に富むタルナフ伯なら、それは可能だし、きっと上手くやるだろう。
タルナフ伯の立場に立った人生観では、このクーデターは、むしろ彼に取って最良の選択肢である。
だが……
それが、国家の安寧にとって有効な手段だと言っても、アンセムはそれですぐに納得できない。
少なくとも、彼は、皇帝の傍に居てリュドミルという男をよく知ってしまったからである。
レンの見通しを聞いた士官達は皆、黙った。
士官学校では、国家、皇帝、皇室への忠誠を毎日宣誓していた。
それが、皇帝を廃位するのが最も有効な策だと直言され、タルナフ伯の強引なやり方に屈するべきと指摘されては議論の余地もない。
「レン殿、タルナフ伯の考えの予測、そして貴方の考えは理解しました。タルナフ伯と話しあってみましょう。せめて、皇帝陛下の身の安全が保障されるように交渉いたします」
アンセムは苦慮した末に、タルナフ伯と妥協し、たとえば皇帝を権威だけの上皇のような存在で残して、生命だけは延命を図る方法をとるべきだと考えた。
だが、レンはそんな見通しをキッパリと否定する。
「皇后様、そんな未来は来ません。悪役は酷いやり方で処刑してこそ国民は納得します。相手は最初の頃は上手い事言いくるめて妥協するでしょう。しかし、タルナフ伯が皇帝陛下を生かしておくはずがない。皇后様がどう手を尽くそうと、最終的には皇帝陛下は必ず殺されますよ」
「その辺りは今後の交渉や対応で上手く……」
「不可能です。死に至る病を患ってから手を尽くしても遅い。その前にちゃんと処置をしていないと人は助からないのです」
レンが出したのは一般的な比喩だったはずだが、まるでメイド長ティトの病状を知っているかのように話したのでアンセムはとても驚いた。
確かに、ティトが卵巣がんになったのは、最初の処置を誤ったためである。ティトにヴェスタの加護や子宮はないのだから、ボルバキア感染の危険性を考えれば、事前に卵巣は取ってしまうべきだった。また、その可能性を考えて検査を徹底するべきだったのだ。
だが、ティトの本来は女であるというプライドがそれを許さなかったのである。病気に掛かってから、あの時やっぱり治療すればよかったなどと言っても手遅れだ。
レンが直言をやめないので、さすがに紹介したマトロソヴァ伯も慌てている。
「かといって、他に方法は無い! タルナフ伯との交渉にベストを尽くします」
さすがのアンセムも、皇后の演技も出来ず強く宣言する。
「皇后様。歴史とは生きている人間が作るもの、最善の方法が常に、自分達の希望する最良ではありません。皇后様が望むなら、他にも打開する策があります」
「そんな策があるのですか?」
「成功率は高いです。しかし、非常に危険な策ですので、皇后様にもご覚悟が必要ですが」
危険だが、成功率が高く、皇帝を救い現在の問題を解決する策と聞いて、彼は飛び付いた。
「ぜひとも聞かせてください。成功の見込みがあるならばその策でいきましょう」
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皇后とタルナフ伯との会見は、アスシンオン市を臨むイローヴィア湖に停泊していた河川戦艦ヴァリアント内で行われることになった。
皇后は、後宮から派手な馬車の行列で移動し、その隊列を湖岸港までテーベ族のメイド達が見送った。
到着した馬車の中から現れた皇后は豪華な威厳のあるドレスを着ていた。胸元が開き、裾が大きく広がった貴族らしい風格のものである。そして、彼は2人の侍女を連れて河川戦艦に乗り込んでいく。
皇后とタルナフは、事前に方針についてある程度、了承していた。ただし、皇后側が出した条件は「タルナフと詳細について直接話し合うこと」という内容である。
タルナフは簡単にこれを了承した。
もともと、皇后とタルナフは以前の後宮籠城で共に戦った間柄でもあり、お互いの実力を認めていたし、性格も理解していた。
タルナフとすれば、乳幼児を皇帝として擁立する以上、その母親たる皇后の協力は必要不可欠である。というより、彼のクーデター計画はそれが実現してやっと完成すると言ってよい。
タルナフは、皇后のアンセムが具体的に何を要求するかは分からなかったが、おそらく、リュドミル皇帝の助命や、もしくは皇太子が成人になった暁には政権を返す約束などが予想される。
皇后は、河川戦艦ヴァリアントの士官が使う応接室に通された。部屋は艦内だけあって部屋は狭い。
皇后は、ゆっくり、そして堂々と椅子に腰を掛ける。
長年男として暮らしてきたアンセムだが、一応、余所行きの振る舞いだけは皇后としての威厳が身に付いていた。
部屋にはタルナフ伯が向かいのテーブルに座り、その後ろに皇太子アンセムを抱きかかえるタチアナ、彼の腹心であるタイキ族のフレームレート、第6師団長のゴードン・ガロンジオンがいる。
皇后アンセムは人を遠ざけるように促すと、タルナフ伯はすぐに了承する。タルナフ伯自身、他に知られたくない話をする事は了解済みである。
そして、その場所には、タルナフとタチアナ、そして皇太子。アンセムと、侍女のマイラ、そしてもう1人の侍女だけが残った。
「それでは、アンセム君。陛下の退位に協力してくれるという話でよいのかな?」
さっそくタルナフは話を切り出してきた。
「それについてですが、タルナフ伯。陛下は軍事や行政権を持たず象徴として現在の地位に留まり、伯爵が今後、帝国を実質的に運営する。この案ではいかがでしょうか? 皇帝陛下は私が説き伏せます」
「それはできん」
タルナフは首を横に振る。
「俺は陛下に嫌われているからなぁ。権力を少しでも持たせておけば、何か理由をつけて必ず排除されるだろう。逆に俺から陛下に対して何か理由をつけて排除するかもしれない」
「そうですか……」
アンセムは、タルナフがレンの言った予想通りの反応をしたのである。
彼は意を決した。
「それでは、タルナフ伯。こちらの要求はひとつです」
アンセムはゆっくりと静かに呟く。
「伯爵には国家反逆罪で、ここで死んでもらう」
アンセムはエリーゼの美しい顔を使い、恐ろしい殺意の目線で睨みつける。同時に、右側にいた侍女に女装するムラト族旅団の工兵隊員アルトが、アンセムのパニエの利いた地面まで広がるスカートの中から催涙手榴弾を取りだすと、それを地面に投げつけた。
さらに皇后のスカートの中には、屋内戦闘用の武器や、煙幕対策のゴーグルとマスク、そして信号弾が隠されていた。
貴族の着る裾の広いドレスは、武器や手榴弾を隠すのに極めて便利だった。まさか手荷物検査で、皇后のスカートの中を覗く警備の兵士がいるわけがないからである。
侍女のマイラも、信号弾を拾うと、窓の外に向かって発射する。
「血迷ったかアンセム! あの愚かな男がこの国を滅ぼすんだぞ!」
タルナフは、煙幕で苦しみつつも、男の持つ低い怒号で吠えながら、テーブルを蹴り飛ばした。彼は長い武器は携帯していなかったが、懐のショートソードを抜いて身構える。
そして、突然の催涙ガスと怒号、衝撃音に、すやすやと静かに寝息を立てていた皇太子は大声で泣きはじめた。
タチナアは泣き叫ぶ皇太子を抱えて部屋から脱出した。
女装していたムラト族の男アルトはサーベルで、タルナフの持つショートソードと対決する格好になった。
マイラの合図した信号弾を確認すると、外に待機していた第16妃レニー・コンテ・マトロソヴァは、河川戦艦ヴァリアントの操舵室に対して、正確に迫撃魔法を撃ちこんだ。彼女の強力な法撃力により、戦艦ヴァリアントの操舵室は粉砕され、離岸は不可能となった。
船着き場にいた、皇后の付き添いのテミス率いるテーベ族のメイド連隊は、信号弾を合図にその“月影”の能力で周辺の兵隊に攻撃を開始する。
さらに、待機していたマトロソヴァ伯は、直接、河川戦艦の近くに駐屯していた第2師団の隊列に竜巻魔法を叩きこんだ。
そして、港の周囲に潜んでいたラルフ率いるムラト族の精鋭歩兵部隊は一斉にヴァリアントを目指して突撃を仕掛ける。
戦艦ヴァリアントの着岸地点の周辺に居た第2師団は、突然の奇襲を受けてあっというまに大混乱に陥った。




