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塔6~守りたいもの②

 カウル族の長男クトゥクの勢力圏にあるゲルと呼ばれる移動式の居住施設を訪れる娘があった。

 彼女は見事に馬を乗りこなし、同じカウル族の侍女を連れている。彼女は出会う者達に挨拶するだけで、特に静止されることもなく長男クトゥクのゲルの下に辿り着いた。


「兄上、お久しぶりでございます」


 後宮第20妃ニコレは、ゲルに入るなり長兄のクトゥクに対してカウル族文化に則った礼をした。


「ニコレか、三年ぶりかな。後宮からここへ来るとは、さすが勇猛な父上の娘だな。帝国を見限ったのかい?」

「そうではありません。兄上、私は兄上を諌めに参りました」


 カウル族は族長ノヤンの死後、長男クトゥク、次男エゲン、三男バアトルがそれぞれ対立していた。

 彼らの中で最もアスンシオン寄りと思われる人物は長男のクトゥクだった。遊牧民族でありながら、アスンシオン帝国大学を卒業しており、知的で無難な性格だと考えられている。苛烈なエゲンや勇敢なバアトルとは少し違うタイプである。

 そこで、ニコレは帝国政府からの族長としての承認を交渉材料にクトゥクを帝国に引き留めようと考えたのである。


「なるほど、ニコレは私への説得の使者に来たというわけか」

「はい、兄上」

「意外だな。お前と仲がいいバアトルのところに行くものかと思っていたが……」

「兄上は、帝都で暮らされていたこともあり、帝国政府からも信頼が厚いです。帝国の推薦があれば、エゲン兄もバアトル兄も兄上に恭順しましょう」

「帝都の生活ねぇ…… どうだいニコレ、後宮の生活は? 贅沢が染みついてもう半遊牧生活なんて戻れないだろう」

「それは……」


 ニコレは返答に詰まる。確かに後宮での生活は、半遊牧農耕の生活とは比較にならない贅沢なものだった。

 あらゆる仕事は免除され、美味しい食事は食べ放題。甘い物もいくらでも出る。服も好きな物が着れた。いつでも風呂に入れ、屋内は清潔でいつも温かい。

 それに対してここの生活では、族長の娘でも日の出から日の入りまできつい仕事があり、食事は極めて貧しく味も悪い。彼女がここにいた時は、甘い物など兄が帝都の大学から戻った時の土産、チョコレートの菓子を一口食べた事があるだけだった。服は母のお下がり、水浴びもままならず、屋内は虫が湧くのは当たり前。ゲルでの生活は、天気が良ければいいが雨や風の強い日は最悪だった。

 後宮の生活と半遊牧農耕の生活。余りにも違う。その結果、ニコレと彼女の侍女達は、堕落した後宮生活の所為で、あっという間に増えてしまった自らの体重に絶望し、密かに毎日トレーニングやダイエットをする羽目になっていたのである。


「皇帝陛下はどんな人だい?」

「陛下はお優しい方です」

「優しい? ふーん……」


 ニコレはリュドミル皇帝を優しいと言った。女性が夫に対して評価するのであれば、それは悪い意味ではないだろう。

 だが、男性の社会で指導者を評価して「優しい」というのは、意味が違う。


「ニコレ、私の考えは決まったよ」


 クトゥクは立ち上がって言う。


「それでは帝国への帰属を考えていただけるのですね」

「いや、帝国と袂を分かつ」

「そんな!」


 ニコレは狼狽する。帝国政府に理解のある長兄なら分かってもらえると思っていた。それを完全に否定されたのである。


「ニコレ、ラグナ族なんかに嫁いでも不幸になるだけだ。食生活、スタイル、我々とラグナは何もかも違う」


 クトゥクの指摘はその通りかもしれない。R属のラグナ族の娘達は、ニコレと同じ贅沢な食事をしているのにいくら食べても太らない。そして、ニコレも後宮でラグナ族の煌びやかなドレスを借りて着てみたが、美形種族と誉れ高いラグナ族の妃との見栄えの差は雲泥である。

 種族の違いは仕方がない。しかし、女性にとって、外見的魅力で圧倒的に劣っているというのは、苦痛でしかなかった。


「それに、ニコレが運良く子供を授かっても、産まれてくる子供は差別を受ける。私は帝都で少し暮らしていて分かったよ。我々カウルはラグナのルールでは暮らせない」


 ニコレも後宮で暮らしていてそれは感じていた。

 確かに友人のタチアナやソーラは優しかった。ニコレを差別するような言動は無かったし、他の妃達も明るい朗らかな性格のニコレを特に嫌ったりはしていない。

 だが当然、彼女自身、強い劣等感を感じていた。そして、ニコレが邪険にされなかったのは、後宮の妃では美しいのが当たり前なので、容姿が違うニコレの姿が物珍しかっただけなのである。それはある意味、もっと屈辱である。


「ニコレ、お前はカウルじゃかなりの美人だ。だから同族に嫁ぐべきなんだ。それがお前にとって一番幸せになれることなんだよ」


 兄の指摘に反論できず黙るニコレを前に、クトゥクはさらに宣言する。


「私は長男だ。カウル族は私が継ぐ。一族の娘であるニコレは私に従ってもらう。お前はフルリ族の族長に嫁がせる。それに、皇帝はもう終わりさ」

「陛下が終わり……?」


 普通は、自分の結婚先を勝手に決められたことに対し、ニコレは大きなショックを受けるはずだ。

 ただ、後宮行きの際も父のノヤンによって勝手に決められたので、彼女は自分の人生とはそういうものなのだと諦めている。カウル族の文化では、女の嫁ぎ先は族長が決め、自分では決められない。それが当り前なのである。

 それよりも「皇帝がもう終わり」と説明する兄に大きな疑問を持ったのである。


「兄上、陛下が終わりってどういうことですか?」

「すぐに分かるさ。私は、お前を嫁がせる約束でフルリ族の援軍を得て、エゲンを倒す。エゲンの奴め、弟のクセに何かにつけて私に反抗しやがって。エゲンを倒せばバアトルは私を族長と認めるだろう」


 ニコレはそのまま帝国に戻ることを許されず長男クトゥクの集落に留め置かれた。

 そして、カウル族のクトゥクはフルリ族との同盟関係を発表、弟エゲンとの対決姿勢を明確に表明する。


****************************************


 皇帝リュドミル自ら率いる救援軍4個師団、約10万は、アカドゥル渓谷をカラザール市に向けて進撃していた。


「陛下、隊列が伸びきっております。部隊間の連絡の為に、少し歩調を合わせて態勢を整えてください」


 第13師団長ランスロット・リッツ・ローザリアは皇帝を諌める。

 彼は、最も若い師団長であり昔から皇帝のお気に入りの将校として有名であった。もちろん彼自身飛び級で士官学校を卒業するなど極めて優秀な若者である。彼は、良く言えば若く血気盛ん、悪く言えば、短気で直情的な皇帝の性格を良く知っていた。


 軍隊というのは、もっとも足の遅い者に速度を合わせて移動するものである。

 実際、騎兵や河川艦隊の移動が早い理由は、このもっとも足の遅い者の足並みが揃うという事実も大きい。

 ところが、皇帝率いる援軍部隊は、各師団とも帝都をバラバラに出撃した。

 そのため各師団は離れ隊列も伸びきっている。


「ランスロット、我々は一刻も早くカラザール市に到着する必要があるのだ」


 皇帝は焦っていた。

 チェルノフ参謀長がサマルカンド入りする前に帝都で提示した作戦を実行するには、カラザール市への早急な集結が求められているからである。


 皇帝が承認した反撃作戦の計画はこうである。

 まず、カラザール市に残存帝国軍と健在の河川艦隊を集結させる。

 この河川艦隊の機動力を活かして、シル川を遡上し、敵の戦線を食い破って、サマルカンド市を救援する。

 ファルス軍には河川艦隊に対抗する術があまりない。そして、シル川沿いでの兵力の展開はアスンシオンの防御を容易にする。戦力の集合さえできれば現実的な案に思えた。

 既に東からレナ王国が大挙侵攻してきており、時間的余裕はない。


 だが、それは帝国側の都合であった。

 敵は、相手の都合に合わせる必要などない。それは戦術の理である。


 皇帝が直率する第12師団がアカドゥル渓谷を抜けたところで、彼らは突然ファルス軍の軽騎兵隊による急襲を受けたのである。

 進撃を急いでいた師団は突然の攻撃に大混乱に陥る。その報告を聞いたリュドミルは狼狽した。


「な、なんだと!? 敵はもうカラザールを突破したというのか!」


 皇帝は自ら双眼鏡を覗き、前方に現れたファルス軍の旗を見て驚愕した。戦線はまだ遥か南、サマルカンド市にあると思っていたからである。


挿絵(By みてみん)


 カラザール市の上流にタシケント市は存在し、お互いは隣接する地域である。

 ファルス軍はタシケントの寝返りによって川を渡り、右岸に易々と進出することが可能だったのだ。

 当然、敵がカラザール市方向に進出してくる可能性は考えられた。だから皇帝はカラザール市への集結を急いでいたのだ。

 だが、ファルス軍は手前のカラザール市を無視して、その奥へと浸透して来たのである。

 もっとも、この大胆な作戦が実行された背景には、カウル族が帝国からの寝返りを確定させた事も要因として大きいだろう。


 直接的な要因としては、皇帝軍の進撃情報は漏れ、ファルス軍の奇襲を容易にした。

 次に副次的な理由として、もし、この近辺にアスンシオン軍の有力な軽騎兵隊がいるならば、急激な浸透はかえって仇となり、地の利のあるほうが断然有利である。下手をすれば容易に退路を断たれてしまう。

 だが、アスンシオン軍が有力な軽騎兵力を喪失することが確定したために、ファルス軍が奥深く入り込んでも捕捉できない。もちろんアスンシオンは地の利を活かして防御を固めるだろうが、この周辺は平野が広がっている。固めた防御拠点など無視していけばいいのである。

 つまり、カウル族の寝返りによって軽騎兵による補足の危険性の排除がされた事で、この強引な浸透攻撃を可能にしたのである。


 自分達の都合による目先の作戦に拘泥した皇帝は、その危険性を無視し、自分の望んだ救援計画を素早く実行して味方を援けることしか考えられなかったのだ。

 結局、第7師団、第12師団、第13師団、第24師団の隊列で進んでいた皇帝軍は、前方の師団から順次撃滅された。

 幸い、ファルス側も渡河させた騎兵が3万強と少なく、多くの兵力を展開できなかったために、奇襲性は高い効果があったが、敵の士気崩壊後の追撃圧力は弱かった。おそらく、各師団の損耗率はそれぞれ50%から10%程度だろう。


 しかし、帝国軍が受けた最も甚大な損害は兵数ではなく士気だろう。

 出鼻を挫かれた形の皇帝率いる援軍部隊の士気はあっという間に崩壊し、多くの兵が進んで来たアカドゥル渓谷を我先にと逆走して逃げ出したのである。

 そして、戦場となったアカドゥル渓谷は、そこに居住していたムラト族の難民を大量に発生させ、軍隊の移動を妨げた。

 退却しようとする帝国軍は難民の波に呑まれて身動きがとれず、後方からファルス軍によって容易に補足され、軍隊も住民もパニックに陥った。略奪が横行し、悲劇的な展開が繰り広げられる。

 そんな中、第13師団を率いるローザリア卿の奮戦はすさまじく、血気にはやって前進しようとする皇帝を諌めて下げさせてから、見事な指揮で戦いつつ自軍を後退させている。

 その後、帝国軍はアカドゥル渓谷に防衛線を引き、そこで敵を食い止める策に移行している。ただし、もはや味方の連携は完全に乱れていた。


 その敗報を聞いた帝都の市民は一様に暗い。

 だが、それでも帝都の人々は、戦線が遠くシル川水系なので、すぐに帝都に災禍が起きるとは考えていなかったようである。

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