塔6~守りたいもの①
「アテナ族の白海王ロックズヒルが、艦隊を率いて南オビ海に侵入」
「レナ軍はクラスノ市へ侵攻、バイエル共和国との連絡路喪失」
「エルミナ戦線崩壊、帝国軍の損害は20万以上」
後宮で皇后アンセムは、いつものように大股を開いて、新聞を読んでいる。
遠くで彼と同名の息子、アンセムが泣き叫んでいたが、侍女のマイラが必死にあやしているにも関わらず、この肉体だけの母親は子供の世話にまったく興味を示さない。
彼が興味を持っているのは新聞の社会面だ。帝都日報新聞の記事は、既に悲劇的な見出しでいっぱいだった。
物資は欠乏、物価は高騰、市民生活は困窮している。警察大臣のコイスギンは帝都に戒厳令を敷き、反政府寄りの記事を書く新聞の発行を差し止めている。
だが、政府寄りの新聞ですら、帝国政府の無力と失態を糾弾している。それは暗に皇帝に対する批判も含まれているだろう。
もっともこの新聞社は、去年の出征時に「帝国最大版図再来」などと大きな見出しをつけて、エルミナ遠征を賛美していたのだ。それが前線で大敗した途端、愚かな浪費、無駄な犠牲と手の平を返したのである。
皇帝リュドミルは、ファルス軍によって包囲されているエルミナ王都サマルカンド、そして帝国領のシル川流域を防衛せんと、すでに残存兵力を結集して出立している。
東方では住民の避難も始まっていた。
現状では、東の国境を突破した20万ものレナ軍の侵入を防ぐ手立てはない。そのため、エニセイ=エステル川流域の非戦闘員は帝都に疎開することになっていた。
帝都はエステル川の西方の支流にあり、帝都のすぐ東側にあるアスタナ要塞を始めとして東方からの侵入にはかなり気を遣った配置となっている。
これは遥か昔、現在の帝国東南のモンゴル高原にある遊牧種族ジュンガル族が強国だった時に取られていた対策だ。
だから、戦える男子を動員してこれら河川沿いの要塞や防御能力のある都市に籠らせ、河川を使った連絡と補給で戦う、という作戦は、アスンシオン帝国の伝統的な国防手段であった。
アンセムは精力的に防衛に必要な指揮書を作成していた。戦争に勝つには、これらエニセイ=エステル川流域の防衛線を強化するしかないと考えている。
現在の帝都には、国家の最高権力者である皇帝も代理の宰相もいない。だから、彼は後方支援として出来る限りのことをしていた。
また、すでに避難が開始されていることから、帝都の区画を整理し、避難住民の受け入れ態勢を整える準備も必要だ。
彼は直接政庁に赴くわけではないが、皇帝の代理人として防衛方針に積極的に関わっていた。
「アンセム~♪ だいぶ深刻そうだね」
第21妃メトネ・バイコヌールが楽しそうに話しかけてきた。彼女はいつも朗らかだが、最近、余計にそういう表情をしている。
アンセムの周辺にいる後宮の妃はみんな暗そうな表情だった。サマルカンドで包囲されている総司令官のテニアナロタ公の娘、第1妃マリアン・デューク・テニアナロタや、コーカンドで包囲される第5師団長タブアエラン公の娘、第25妃ナーディア・コンテ・タブアエランなどは、いつも戦況を心配して家族の安否を不安がるだけであった。
そしてメイド達も動揺が広がっている。メイド長のティトが死の病である事が伝わり、後宮の管理能力がガタ落ちになっているのである。
「まったく、国家存亡の危機だってのに、メトネは楽しそうでいいよな。国が無くなればここでの贅沢だってできなくなるんだぞ」
アンセムの言いぶりは、女に国家の大計などわからないだろうという、酷く見下したものである。しかし、メトネは、愛らしく微笑んでそれに応えた。
「うふふ…… 女はねぇ。いつだって信頼する殿方にその運命を委ねなければならないのよぉ。それがアンセムに分かるのかしら?」
「わかっているさ。すぐにも前線に出て、シル川流域の防衛線か、エニセイ川流域の防衛網の整備に従事したいぐらいだね。私がこんな身体でなければ……」
「わかっていないわよぉ、アンセム」
メトネはクスクスと笑っている。
アンセムは彼女が微笑む理由が分からなかった。アリス族はいつでも楽観的な種族だし、メトネもそういう娘なのだと思っていた。そして、戦争に勝つために社会的に貢献し、日々努力する自分の苦労など、いつも遊んで暮らしている後宮の娘達には理解できるはずがないと思っていたのである。
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「太守のタシケントが寝返っただと?」
「はい、軍監についていたオムスク公が拘束され、ファルス軍の主力を導き入れております」
「なんたること…… 反ファルスの一角があっさりと寝返るとは」
テニアナロタ公は頭を抱え嘆息する。
エルミナ王国の王都サマルカンドでは、タシケント太守のヒンデン・フォーラ・タシケントが寝返ったという知らせが届き動揺が広がっていた。
王都サマルカンドは高い防御機能を持った都市である。対空兵器を多数備え、城壁もエルミナ王国随一の強度。物資の備蓄も、籠城に十分耐えられるはずであった。
アスンシオン帝国とエルミナ王国は、カルシの敗戦から戦線の立て直しを図っている。
まず今まで作戦計画を立案していた参謀長スミルノフを解任。後任にフレグ・リッツ・チェルノフが任命された。
チェルノフはスミルノフよりも10歳若い。一応、彼も士官学校での成績は極めて有能だが、実戦で有能かどうかの評価は難しい人物だ。だが、現在の問題は、担当者を変えてもまったく解決しない。
ともかく、新参謀長となったチェルノフの立案した作戦計画で、エルミナ戦線はシル川流域での防衛作戦に移行していていた。
河川艦隊の技術ではアスンシオンはファルスを大きく凌駕しており、下流のカラザール、バイコヌールはもともとアスンシオン領なので拠点も整備されている。
これらの連絡線を有効に活用すれば、シル川戦線の陣地は長期の包囲に耐えられる。そして、河川という天然の要害がファルスの軽騎兵の機動力を削ぐはずであった。
ところが、エルミナ第1歩兵師団を指揮し、シル川中流域にあってサマルカンドとカラザールの中間にある都市、タシケントの太守が寝返ってしまったのである。
太守のタシケントは強いラグナ族第一主義者であった。今までよくアスンシオンの方針に反対していたが、自分の娘をアスンシオン皇帝に差し出して後宮に入れるなど、親アスンシオン派の人物と見られていた。それだけにこの衝撃は大きい。
この結果、サマルカンドのエルミナ軍主力と帝国第1師団、コーカンドにいる帝国第5師団は敵地に孤立することになってしまったのである。
帝国の援軍は、皇帝自ら率いてカラザール市に集結予定であった。
「総司令官殿、今後この王都は戦場になります。エルマリア王女と聖女連隊の安全を図るために、貴国領へ亡命させたい」
エルミナ騎兵師団を統率する、プレイス・ナイツ・バンクレインが提案する。
「なんという…… 王女と聖女連隊は貴国の国民とランス族の種族の誇りではないか。リュドミル陛下の援軍が到着するまでこの場所に留まるべきだ」
新参謀長のチェルノフは猛然と反対した。だが、バンクレインは王女の退避を譲らない。
「サマルカンドには、宰相のエフタルや、我々エルミナ騎士団が残る。私は王女の絶対安全を亡き国王陛下から託されたのだ。周辺の安全が得られてから、姫を王都に迎えたい」
「何をバカな! 我が国は陛下自ら軍を率いてこちらへ援軍に向かって来られているのだぞ。それを貴国の王族は先に逃げ出すと言うのか!」
チェルノフだけでなく、その場にいる将軍達も揃って反対した。だが、バンクレインはそれでも下がらない。
「男の王と、女の姫を同じ扱いにしないでもらいたい。貴国でも航空騎兵や法兵でもない限り、女性が戦う事などないではないはずだ」
「エルマリア王女は聖女連隊の長ではないか。貴国の種族の誇り、最強部隊の聖女連隊は、ただのお飾りか!」
タシケント太守の寝返りという現実的な窮地もあって、軍議は怒号が飛び交い紛糾する。アスンシオン軍の将兵の怒りもこの時ばかりは遂に爆発した。
カルシの戦いでは、聖女連隊とエルミナ軍主力の無断撤退によって、予定していた予備兵力が投入されず大敗したのである。
この時の彼らの言い訳は「すでに戦線は突破されており、聖女連隊を投入しても、破られた戦線の穴は塞げないだろう」というものだった。
その指摘は純軍事的に見れば、確かにその通りである。だが、その代わり他の多くの者が撤退できたはずだ。
つまり、彼らは自分達が消耗するのが嫌で、前線を見捨てたのである。
結局、お互いが憎しみをぶつけ合う会議を制したのは総司令官のテニアナロタ公だった。
「皆の者、聞いてもらいたい。私は先王オストラゴス3世にとても世話になった。先王はエルマリア王女をことのほか可愛がっておられていたのだ。同じ娘を持つ父親として、戦場のような場所に娘を立たせたくない気持ちは理解できる」
テニアナロタ公は複数の娘がおり、皆美しく優秀な娘だった。しかし、その誰ひとりとして士官学校に入れていない。長女のマリーシアから末娘のマリアンまで、全員由緒ある家に嫁がせている。
「しかし…… 総司令官、人情で戦争はできません」
「王族の亡命はよくあることだ。ましてや16の娘に対して、城に残って最期まで戦えというのは、士気の低下を考えても酷だろう」
こうなってしまうと、アスンシオンの将軍達も反論できない。
結局、エルマリア王女は、シル川の河川ルートは塞がれてしまっているために、いったんコーカンド方面に下がってから、昨年東路軍が来たルートを戻りタラス河畔を抜けて亡命することになった。
また、迫るファルス軍との決戦備えて、多くの一般市民をそのルートで先行して脱出させることが決定する。
しかし。
実は騎士バンクレインが、王女から依頼を受けて王都から離脱したい真意は違っていた。
エルマリア王女は、アスンシオン帝国の皇帝が直接援軍のためにサマルカンドに向かっているという話を聞いた際、もし救援が成功し、皇帝がエルミナの王都を救うという実績を挙げた場合、その時に王女がサマルカンドの王宮に居た場合、おそらく彼女が皇帝に嫁ぐという周囲の重圧、選択肢から逃れられなくなる。
エルマリア王女は、皇帝リュドミルの妻になるのを何より毛嫌いしていた。
彼女は、そのあるかどうかも分からない、しかも極めて個人的な理由で将来の恐怖に怯え、自分の国を見捨てて逃げ出そうと考えたのである。




