運命の輪1~貴族男子の嫁入り支度①
「お兄様、だから私は何度も嫌だと申し上げているでしょう!」
「そんなこと言わずに…… 頼むからいう事を聞いてくれよ!」
帝都のある邸宅の廊下で、若い男女の言い争う声がする。
1人は、20代半ばの貴族風の男。もう1人は、10代半ばの貴族風の娘。
「お兄様もお父上と同じよ。ご家名のために、私を皇家に売ろうというのね!」
「父上と先帝とのお約束なんだ。うちみたいな低い位階の貴族が、皇家との大切な約束を断れるはずないだろう」
アスンシオン帝国の下級貴族、ヴォルチ家では、当主のオーギュスト・リッツ・ヴォルチの病死を受け、その長男アンセム・リッツ・ヴォルチが家督を相続することになった。
ヴォルチ家の親類たちはその承認の条件として、新しい当主に前の当主が行った皇家との約束を果たすよう求める。
その約束とは、先代が現在の皇帝の父、つまり先帝との間で行った、娘のエリーゼを皇太子の側室にするというものである。
叔父達としても、ヴォルチ家の女が後宮に入るのは歓迎すべきことだし、皇帝側室の兄ということになれば、24歳という若輩の新当主にも箔がつく。
それに側室としての入宮とはいえ、現皇帝にはまだ子がおらず、正妃も決まっていない。
陛下に見染められ、さらに男子誕生ともなれば、その子が次期皇帝という期待もあった。
アンセムの父、オーギュストは優秀な帝国軍人であったが、それと同時に娘の将来を憂う父親の1人でもある。
娘を差し出して名声を得ることに不安はあったが、先帝に「是非に」と頼まれ、それを断る事など不可能だろう。せめて「娘が成人するまで」という条件をつける程度が精一杯である。
先帝は1年前に崩御し、当時の皇太子リュドミルが皇帝となった。しかし、約束が無くなったわけではない。
むしろ、先帝が崩御したにも関わらず次の皇帝にまだ子がいないため、帝国政府は後宮の整備をさらに急いだ。そして、アンセムの妹、エリーゼ・リッツ・ヴォルチにも白羽の矢が命中したのである。
妹の入宮手続きをほぼ整えたところで、エリーゼは兄に対して猛反発。
というわけで、新当主となったアンセムはその初仕事として、嫌がる妹を説得するという難題を解決しなければならなかった。
ただし、兄妹ゲンカの原因は、兄側に非がある。
それは辺境のヴォルチ家の領地で暮らす妹を、帝都に違う理由で騙して連れ出したからであった。
「エリーゼだって、陛下の妻になる件は賛成していたじゃないか!」
「そんな昔にお父様とした約束なんて無効だわ。その時は後宮の仕組みなんてよく知らなかったし」
邸宅の二階へと通じる階段上で、妹は煌びやかなドレスを翻して言い放つ。
妹のエリーゼは亡き母に似て、美貌を謳われる姫であった。そして、同時に活発な娘でもある。
もちろん、16歳という年頃の若者であれば男女に限らずいろいろなことに興味を持つのは、当然の事だろう。
後宮という場所は、皇帝が複数の妻と使用人である宮女達と一緒に暮らす閉鎖空間である。
皇帝以外の男は出入りできず、僅かな例外を除けば、一度入った女はもう二度と外に出られない。
そんな自由のない閉鎖された場所に拘束されて、若い娘が残りの人生を過ごす。しかも、顔も見たこともない男の妻となり、その子を宿すためだけの存在として、である。
それでも皇帝に見染められる女はまだマシだろう。
子供を授かれば立場上はそれなりの身分と生活が保障されるし、女として多少の生き甲斐もある。
しかし、皇帝のお手付きにならなければ、一生日陰の存在として寂しく老い朽ちていくだけなのだ。
もしエリーゼが後宮に入らない道を歩むならば、彼女ほどの美貌と行動力があれば、それこそ自由で快活とした人生を歩み、彼女の意中となる男が現れるかもしれない。
その方が妹にとって幸福かもしれないとは、兄であるアンセムも考えている。
ただし、下級でも貴族には社会的な立場や責任もある。
皇家との約束を反故にすれば、ヴォルチ家が皇家を軽んじたことになる。また、帝国貴族の位階の中では最下位の男爵とはいえ、家名第一の貴族社会で自由な恋愛など許されないことはアンセムも理解していたし、エリーゼも貴族の家名を継ぐ者なのだからそこは譲れない。
アンセムは父の死には立ち会えなかったが、父は死の間際に皇家への忠誠と家名の栄達を遺言したという。
「お前だって、父上のご遺言は知っているだろう。陛下の直近で仕える事ができる。大変な名誉だろう!」
「そんなに陛下のお側にいるお勤めが大切なことなら、お兄様が女装でも去勢でもして後宮に上がればよいのだわ!」
「後宮には処女の娘しか入れない。無理なわがままを言わないでくれ……」
エリーゼは振り向きざまに、怒りに任せて兄を強く突き放そうとする。
その手を掴んで落ち着かせようとするアンセム。
「だから嫌ですと……」
その時――
近寄る兄の手を振り払って離れようとした瞬間、妹は階段から足を踏み外して体勢を崩し、兄の方へと倒れ込んだ。
「キャッ!」
「エリーゼ! 危ない!」
バランスを崩して階段下に倒れる妹を庇い、兄は階下に立ち塞がった。だが、転がり落ちる妹を完全に支えることはできず、一緒にそのまま階下に転げ落ちる。
バターン――
邸宅に大きな衝撃音が木霊した。
「あいたた……」
わずかな時間が過ぎてアンセムは意識を取り戻す。
すると彼は自分が妹を庇って下敷きになったはずなのに、なぜか自分の身体が誰かの上に乗っている事に気がついた。
すぐにエリーゼの無事を確認しようとする。
「大丈夫か、エリーゼ。ケガはしていないか?」
身体を起こしながら声を発する。
しかし、なにかが妙だ。さっきまでの自分の声と違い、とても高い。それに、上半身を起こしながら、顔にバサッと覆い被るものがあった。
「な、なんだこれは!?」
思わず大きな声を上げる。
その声は、以前の野太い声とは違う、澄んだ美しい声。そして顔に覆い被さったのは、長く光沢のある髪だった。
すぐに、自分の両手に目を向けると、彼の逞しい男の手が、白肌の華奢な女の手に変わっている。
視線を下におろすと、彼はさっきまでエリーゼが着ていた彼女のお気に入りの黄色いワンピースタイプのドレスを着ていた。
彼の胸部には女性特有の大きな膨らみがあり、ドレスの胸元からその谷間がはっきりとわかる。
そして、さらに視線を下げると若い男が横たわっていた。
男は貴族風の正装に身を包んだ20代半ばの姿、その顔は鏡で見たことがある。
アンセムの足元にはアンセムが倒れていたのである。
「うわっ!?」
アンセムは慌てて立ちあがる。
そして立ち上がるなり、何か思い出したように、自分が着ているドレスのスカートの上から自分の股間を探す。
しかし、いくら探しても彼にとって馴染みのある突起に触れられない。
「な、なんだこれは!!」
もう一度同じ言葉を、今度は悲鳴にも似た女性の甲高い声で邸宅中に響かせた。
「いたたた……」
下敷きになった男から呻き声が漏れる。
「もう、お兄様ったらなんなの…… 庇ってくれたのに私が下敷きじゃないの」
倒れていたアンセムの姿をした男は、困惑した表情でゆっくりと立ち上がった。
そして目の前で、自分の股間を焦った様子で何か探しているドレス姿の娘を見る。
「な、なんで私がそこにいるの……」
2人は自らの身に起こった出来事を理解するのに、もう数十秒を要した。
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帝都のある貴族の邸宅の応接室で、沈黙する若い男女がいた。
1人は、ソファーに深く腰掛け、股を開いて男座りをする黄色いワンピースタイプのドレスを着た美しい姫。
もう1人は、両膝を揃えて、ソファーに浅く女座りをする貴族風の正装に身を包んだ若い男。
2人は、お互いの身体を確認しあった後、邸宅の応接室へ移動した、そして、お互い机を挟んで座り、黙っている。
「お兄様、私の身体で脚を開いて座るのをやめてください。レディなんですから……」
「あ、ああ……」
アンセムの身体のエリーゼは、正面に座っている自分の身体から、目線を逸らして恥ずかしそうに言った。
エリーゼの身体のアンセムは、慌ててスカートを直しながら脚を揃えて座り直す。
「しかし、困ったぞ。私がエリーゼになってしまうなんて…… 皆にどう説明をすればいいのか……」
エリーゼの身体のアンセムは頭を抱えながらうな垂れる。
いくら確認しても、体の全てがエリーゼのものになっていた。もちろん、女性としての部分も全てである。
「まぁ、身体が入れ替わっちゃった原因は分からないけど、これで問題の一つは解決したわね」
「どういうことだ?」
アンセムの身体のエリーゼは勝ち誇ったかのようにさらりと言った。
そして、かつての自分の身体を指で示して言う。
「お兄様がその姿で後宮に行くのよ」
「え!?」
突然の宣告
アンセムは確かに妹を後宮にいれようとした。しかし、自分が後宮に行くなど聞いていない。
「当然でしょ。後宮に入れる資格を持つ処女はお兄様なんだから。陛下のお傍での大切なお勤め、頑張って奉公してきてくださいね、お兄様」