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僕の大切なもの (前)

 それは、ふと目が覚めたある日のことだった。

 いつもなら一度寝て起きれば、今までの痛みを忘れることができたのだが、今日は違った。

 まだ体に鈍い痛みにが残っているのを感じる。

 なぜだろうか?

 少年は不思議に思ったが、その理由はすぐに判明した。

 一度目が覚めたのにもかかわらず再び襲ってきた眠気。

 いつもよりも短い時間で目が覚めてしまったのだ。

 目が覚めてしまった理由もすぐ近くにあった。

 明かりのついていない暗い室内。

 カーテンも閉め切られ、外界からの光も遮断されている。

 唯一明かりと呼べるものは、ふすまの隙間から漏れてくる隣の部屋の明かりだけ……

 今日は奇妙なことにいつもの怒鳴り声や物の壊れる音がしなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、男のむせび泣くような声。

 その声によって少年は目覚めたのだ。


 けれども少年は理解していた。

 いつもと違う時間に目覚めようとも、いつもと違う音が聞こえようとも、いつも変わらないことがあることを……

 再び眠りについてからしばらく経つと、そのときはやってきた。

 いつもと同じ怒鳴り声を上げながら、男が部屋に入ってくる。

 そして暴力という名の痛みを少年の体に刻み、去っていく。


 けれども今日は痛くなかった。

 体に傷は増えれども…………

 今日は痛みを感じなかった──────




 赤や黄に染められた木々の葉たちが、その役目を終え、道に美しい絨毯を敷いていく。

 時折感じる肌寒さも、日に日にその頻度を増してきていた晩秋の時期。

 もう秋も終わりなのだと、どこか寂しさを思わせるころ……


「はいはーい、じゃあ今日の作業も張り切って始めるわよ!!」

「「おー!!」」

 秋の終わりの寂しさを忘れてしまうほどに、みんなの活気溢れる声が教室内に響いていた。

 途切れることなく聞こえるせわしない足音。

 そんな喧噪は、この教室だけでなく学校中でこだましていた。


 我が校の行事には入学式と卒業式を覗けば大きなイベントが三つ存在している。

 一つ目は修学旅行。

 これは一学期に行われる三泊四日の旅行だ。

 ちなみに今年は沖縄に行ってきた。

 太陽の光が反射し、青く透き通るほどに綺麗な海やこちらではお目にかかれない珍しい料理。

 紙面ではなく、実物で見る文化遺産の見学など、様々な体験ができた。


 二つ目は球技大会。

 これは毎年秋真っ盛りに行われる、クラス対抗の行事。

 スポーツの苦手な僕にとっては、あまり喜ばしいイベントではないが、今年は茜たちとの特訓や君の助けもあり、なんと優勝することができた。

 これは僕にとって予想外に嬉しい思い出だ。


 そして三つ目が文化祭。

 冬を目前にして行われる最大規模の行事であり、家族や他校の生徒など外来からも多く人が集まってくる。

 そのため、開催期間も土日の二日間にわたっている。

 この行事はあくまもで在学生が主体となって企画され、クラス単位の出し物はもちろんのこと、部活、はたまた個人に至るまで、その裁量が任されていた。

 文化祭の成功も失敗もすべて自分たちの手にかかっているだけに、みんなが一体となって全力で取り組んでいる。


 というわけで、現在僕たちのクラスでも、みんながその準備に追われて大忙しだった。

 僕たちのクラスの出し物は、定番である喫茶店。

 制服は今ではもう広く認知されているメイド服や執事服を使う予定だが、僕たちのクラスのウリは、なんといってもそのメニューの味だ。

 お茶の種類はもちろん、軽食やケーキも用意するなど、どうせやるなら本格的にやってみようとのことで提案された。

 なのでコテコテのメイド喫茶というよりは、ちょっと味のある喫茶店というイメージだ。


「その機材は、こっちに運んでー!」

「茜ちゃーん、こっちはどうするのー?」

「それはまだ置いといたままでいいわよー」

 クラス委員である茜が指揮を取り、クラス全体の作業を進めていく。

 茜の普段の行いに加え、本人の性格も相まって、男女のどちらからも信頼のあるおかげで、みんなが指示通りに動き、準備は滞りなく進んでいた。


「お手頃な紅茶でもダージリン、アッサム、セイロンなどいろいろな種類がありますし、そこからミルクティーやレモンティーと派生させて淹れることもできます」

「へぇー、美咲ちゃんって詳しいんだね」

「紅茶とかあまり飲んだことないから、ちょっと味が気になるかも」

「じゃあ試飲もかねて休憩時間にでも飲んでみましょうか。淹れ方にもちょっとしたコツがあるんですよ」

「やったー、じゃあ私たちもデザートの試作、張り切っちゃうわよ!」

「この前、美味しく焼けるコツを見つけたもんね」

 また、一番の課題となっているメニューについても、このクラスで一番紅茶に詳しい津山さんを中心にお菓子作りが好きな女子たちが集まり、日々その完成度を高めていっていた。

 正直最初はどうなることかと思っていたが、順調に進んでいるようで何よりだ。


「おーい、買い出し班、今戻ったぞ~」

 ガラガラと教室の戸が開かれ、両手に荷物を抱えた恭太郎をはじめとする数人の男子たちが、買い出しから戻ってきた。

「はい、ご苦労様。じゃあ恭太郎たちは少し休憩とったら空き教室から机を運んできてちょうだい」

 茜から労いの言葉と次の指示を受け取った買い出し班の面々は「へーい」と少し疲れたように返事をし、休憩に入っていった。


「あー、教室はあったけーなー、外はもう結構寒くなってきてたぜ」

 なんてことを言いながら、机で作業中である僕の対面に恭太郎が座る。

「お疲れ様、もうすぐ冬だからね。そんなに寒いなら、さっき津山さんが淹れてくれた紅茶があるけど飲む?」

 と、まだ湯気の上っている熱々のティーカップを差し出した。

「おう、サンキュー」

 僕から受け取ったカップを口に運び、恭太郎はグビグビと飲んでいく。

 中々いい飲みっぷりだ。


「ウマい! 疲れが吹き飛ぶようだぜ。ところで涼は何やってんだ?」

 恭太郎は机に積まれている紙の束を横目に見ながら、今も作業を続けている僕に質問をしてきた。

「生徒会とか学校に提出する書類の作成だよ」

 生徒主体の文化祭と言っても、なんでもかんでも好きなことができるわけではない。

 当然、学校側の許可が必要になってくる。


 僕が今やっているのは、そのための書類の作成。

 特に僕たちのクラスのような飲食物の販売の場合は、衛生管理やその調理方法の規則がこと細かに決まっているので、ちゃんとその規則に従っていると証明するためにその細かな方法を明記して、学校側に許可をとらなければならない。

「あ、そういえば」

「どうした?」

「さっき買い物に行ったときにもらった領収書もちゃんと出しておいてね」

 学校側から各クラスに支給された予算の内訳の伝票を作成し、生徒会に提出する。

 この予算の管理も僕の仕事だ。


「涼もこんなめんどくさそうな仕事よくやるよな」

「結局は誰かがやらなきゃいけないことだよ。それに僕は力仕事よりも、こういうデスクワークの方が得意だから」

 いわゆる適材適所というやつだ。

「ほらほら恭太郎、あんたもそろそろ仕事に戻りなさいな」

 指揮官から直々に恭太郎にお声がかかる。

「さてと、じゃあ俺も次の仕事に取りかかるとしますか」

「頑張ってきてね」

「はいよ」

 意気揚々とはいかないが、文句一つ言わずに恭太郎は、自分の作業へと戻っていった。

 疲労の声は所々から聞こえてくるが、みんななんだかんだで、それなりに楽しんで仕事をやっているようだ。


 着々と作業をしていくうちに時間はどんどん過ぎていく。

「はーい、みんな今日の作業はここまでー!」

 今日の作業の終わりを告げる茜の声。

 仕事に集中していて気づかなかったが、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 時間的にはまだそこまで遅くはないが、早い夜の訪れが、秋の終わりを直に感じさせる。


「みんな、今日はご苦労様。明日からの準備もよろしくねー」

 最後に茜が締め、今日の作業は終了だ。

 みんなはそれぞれに「お疲れー」「ご苦労様」などお互いの労を労いながら帰っていった。


「はー、今日も疲れたぜ……帰ってギャルゲーでもして癒されるか」

「疲れてるなら早く寝たらどう?」

「神谷君の言うとおりです。寝不足はお肌の天敵ですよ」

「それにこれくらいでへばってもらっちゃ困るわよ。まだまだ作業は続くんだから」

 今日の僕たちは、いつものメンバー四人で帰宅していた。


「でもこういうのって、なんかいいですよね」

「何がだよ?」

 ふいな津山さんの発言に恭太郎が不思議そうに首を傾げる。

「ふふ、こうやってみんなで文化祭の準備をすることですよ。いつもはバラバラなみんなの力を合わせて、大きなことを成す。これってとても素敵なことだと思いませんか?」

 津山さんは星の瞬く夜空を見上げながら、何かを思い返すように言った。

「そうね。でも感傷に浸るのはまだ早いわよ。私たちの文化祭はこれからなんだから。絶対に何があっても成功させて見せるわ」

 グッと拳を握り、茜はやる気に満ち溢れている表情を見せる。

「僕たちも頑張ろうね、恭太郎」

 それに影響されたのか、僕の心にもやる気の炎が燃えたぎってきた。

「あったりめーだ。ここまでの苦労が水の泡じゃたまんねーよ」

 僕たちが文化祭への意気込みをさらに高めた夜だった────


 そして時間はあっという間に過ぎていき、文化祭の前日を迎えた。

 みんなが明日の文化祭に向け、それぞれスパートをかける。

 僕も事務仕事はあらかた片づけ終え、今は教室の飾りつけに尽力しているところだ。

 教室内で作業をしていると、より良く、より高い完成度を目指そうというみんなの必死さが伝わってくるようだった。


 しかし、それでも疲れだけはどうしようもなく僕たちの体を蝕んでいく。

 僕たちの学校では、文化祭二日前の一日だけ、担任監視のもとで泊り込みの作業が許されている。

 そのため僕たちは、昨日から学校に泊まり込みで作業を続けていたのだった。


 全体の工程が順調に進んでいるように見えても、どうしても些細な問題は発生してしまう。

 あれがない、これが足りない、また調理に使う機材が故障したなど、数えればキリがない。

 その都度対応に追われる茜はもちろん、泊まり込みで作業しているみんなも仮眠は固い床の上でなど、疲れは溜まっていく一方だった。

 すでに気力だけで動いている人も中にはいるだろう。

 それでも誰も文句一つ言わずに作業をこなしているのは、それだけこの文化祭がみんなにとって大切なものだからなのだ。


 始めは気乗りがしない、準備をするのが面倒だと思っていた人もいたことだろう。

 それでもみんなで力を合わせて進むうちに、絶対に成功させてやろうという気概が生まれた人もいるはずだ。

 一人一人の力は微力でも、それが集まればこれほどのことを成すことができる。

 僕も文化祭の成功を胸に、また新たな思い出の一ページを作りたいと願っていた。


 逢魔が時を迎え、校内にチャイムの音が鳴り響く。

 さらに数時間が経過し、街中に光が灯されたころ────


「「終わったーーー!!」」


 みんなの声が全校に聞こえるほどにこだまする。

 すべての作業工程を終え、ついに僕たちの喫茶店が完成した。

 疲れ果てて寝ころぶ者もいれば、お互いを労い合う者もいる中、僕は教室の中心に立ち、今一度完成した僕らの喫茶店内を見回していた。

 並べられたテーブルの上には純白のテーブルクロスがかけられ、花で飾りつけるように中心に花瓶が添えられている。

 カーテンもブラウン系の落ち着いたものにつけ替え、メニュー表などのアイテムも手作りで用意した。

 壁も床も綺麗に磨かれ、ピカピカに輝いている。

 その他にも、細部にいたるまで細かな飾りつけが施されており、当初の構想どおり、中々いい雰囲気を醸し出していた。


「はいはーい、みんなちゅうもーく!」

 前に立った茜が、みんなの視線を集める。

「えー、まずはこの数日間本当にお疲れ様! みんなの頑張りのおかげで、私たちのクラスは無事に文化祭当日を迎えることができそうです。ここで、ささやかなものではありますが、前夜祭を開催したいと思います!!」

 言い終わると同時に教室の扉が開き、キャスター付きのテーブルが、津山さんをはじめとするメニュー開発班の手で運ばれてきた。

 その瞬間、教室内に茶葉の香ばしい香りと、生クリームのとろけるような甘い匂いが広がった。

「「おお~!!」」

 テーブルの上に載せられているものを見て、みんなが歓喜の声を上げる。

 匂いからもわかるとおり、そこにはポットに淹れられた紅茶と切り分けられたケーキが数種類ずつ用意されていた。


「皆さん、今日までの準備ご苦労様でした! 甘いものを食べて明日の英気を養ってください!!」

 その言葉を皮切りに、今まで疲れ果てていたのが嘘のようにみんながテーブルの周りに集まりだした。

「ちゃんと人数分用意してありますから、押さないでくださいねー!」

 それぞれが自分の好きな紅茶とケーキをとっていく。

 早くも所々から「このケーキ美味しー」「美味い、もう一杯!」などと感想が飛び交っていた。

 僕も早く食べてみたかったが、今の込み具合ではもう少し時間がかかりそうだ。


 そんなことを思っていると、

「はい、神谷君。私のおススメです、よかったらどうぞ」

 横から津山さんが紅茶の入ったカップを差し出してくれた。

「ありがとう」

 津山さんから手渡された紅茶を口に運ぶとフルーティーで爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。

 甘さもちょうどよく、何杯でも飲めてしまいそうなほどに美味しかった。

「ケーキもいろいろありますから、好きなものを食べてくださいね」

「うん、いただくよ」


 ささやかながらに行われた前夜祭も盛況のうちに幕を閉じ、さっきの疲れもどこえやら、みんな明日のことで、もう頭が一杯の様子だった。

「じゃあみんな、明日もその調子で頼むわよ! 私たちで絶対に文化祭を成功させて見せようじゃない!!」

「「おーー!!」」

 最後にみんなで結束を固め合い、今日は終わっていった。

 今年はどんな文化祭になるのか、僕も今から楽しみだ────

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