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持たざる僕 (後)

 出会いもあれば、別れもある。

 そしてそれは、決して望まれるものばかりとは限らない……

 そんな別れはなんの前触れもなく、唐突に訪れた。


 数日後、僕たちがいつものように猫の世話をしに川原に着いたときだった。

「ひどい、誰がこんなことを……」

 僕たちの目に飛び込んできたのは、血にまみれながら倒れている猫の姿。

 猫はピクリとも動かずに、辺りをハエが飛び交う草むらの中で、その目を閉じ、生涯を終えていた。


「…………どう……して……」

 その光景を見た津山さんはショックのあまりその場に座り込んでしまう。

「昨日は……あんなに……元気だったのに…………」

 発せられたその声は、ガチガチと震えていた。

 そして津山さんは猫にそっと手を当て、自らのもとに引き寄せる。

「なんで猫ちゃんが……こんなひどいことをされなければいけないんですか……? この子が何をしたっていうんですか!?」

 誰に問いかけるわけでもなく、津山さんは泣き叫んだ。

 血にまみれた猫をその胸に抱きしめながら……


「服、汚れちゃうよ」

 それが僕の口から出た言葉だった。

 こんなときにもっと気の利いた言葉をかけてあげられない自分が情けない。

「さあ、早くその猫を……」

「……せない……」

 僕の言葉を遮るように津山さんはつぶやいた。

「津山……さん?」

 異様な雰囲気を感じ取り、俯いていた津山さんの顔を覗き込む。


「許せない……」


 そこには僕の知っている、いつもの優しい微笑みを浮かべていた津山さんはいなかった。

 目からこぼれ落ちる悲しみを表す涙とは裏腹な表情。

 その表情を僕はどこかで見たことがあるような気がした。

 いつだっただろうか? 

 それをなんと表現するのだろうか?

 しかし、僕は思い出すことができなかった。

 ただ、それが良くないことだというのは覚えている。


 ゆっくりと猫を抱いたまま津山さんは立ち上がり、そのままフラフラと歩き出す。

「どこに行くの?」

「……探すんです」

「誰を?」

「決まっています。猫ちゃんを…………こんな目に遭わせた人たちを……」

 何かの激しい衝動に駆られているかのような口調。

「見つけてどうするのさ?」

「もちろん…………猫ちゃんが味わった苦しみを……味あわせてやるんです……」

 一度こちらを振り返り、向けられたその瞳には、とうに僕の姿など映ってはいなかった。


「そんなの無茶だよ。津山さん一人でそんなことできるわけがない」

 どこからどう見ても彼女は普通の華奢な女の子。

 そんな彼女に、そんな真似ができるわけがないと僕は高を括っていた。

 いや、それ以前にそんなことをして許されるはずがない。

「……できますよ。私には、そのための力だってあるんですから」

 しかし、津山さんは淡々とした口調で僕の言葉を否定した。

 まるで嘘を言っているとは思えない口ぶりに、彼女にはそれを実行に移すだけの何かがあるのだろうと信じさせられてしまう。

 だからといって、このまま黙って見過ごすわけにはいかず、先を歩く津山さんを止めようとしたとき……


(──出しゃばるなよ)


 ふと聞こえた君の声に僕は動きを止めた。

(いいじゃねぇか、あの女がそうしたいって言ってんだ。好きにやらせてやれよ)

「……でも、津山さんがやろうとしてることはいけないことだ。そんなことをしてもなんの意味もない」

(それはお前の独りよがりな価値観だ。そんなものを他人に押しつけるな)

「そんなことをすれば、津山さんはいつかきっと後悔する日が来る」

(はっ、そんなにあの女が心配か? なんなら、俺が代わりにやってやってもいいんだぜ。菅恭太郎のときみたいにな……くく……)

「……ダメだ。君はいつもやり過ぎる」

(ったく、お前もいい加減に理解したらどうだ? それくらいやらなきゃ理解できない奴らもいるってことをな)

「そんなことをしたらかわいそうだよ。痛いのは……誰だって嫌いだろ……」

(くくく、あーっははははははっ!! まさか、誰とも知らぬ他人に同情してるのか? こんなことまでされておいて? コイツはとんだお笑いだぜ!! 痛みを伴うからこそ人間は理解する。自分の罪、犯した過ちの重さをな。それくらいお前にもわかるだろ?)

「わからないよ……たとえそうであったとしても、僕にはそんなことできない」

(はっ、やっぱり今のお前には何を言っても無駄らしいな。まあいいさ、好きにしろ。だが忘れるな、お前もいつかその身をもって知る日が来る。必ずな────)


 君が何を言おうと、僕の考えは変わらない。

 君が僕のことを理解できないように、僕も君の考えが理解できないのだから……

 僕の行動は、すでに一つに決まっていた。


「もうやめようよ、津山さん」

 僕の言葉に津山さんが歩みを止めて、振り返る。

「なんで、止めるんですか?」

 先ほどとは違い、抑揚のないその言葉には、まるで感情が籠っていないかのようだった。

「そんなことをしても、その猫は帰ってこない」

「じゃあこの猫ちゃんの無念は? 悲しみは? 苦しみは? 私たちじゃなくて誰が癒してあげるっていうんですか!?」

 津山さんは激しい昂りを見せながら、その思いを吐露してきた。


「これは仕方がないことだったんだよ。ここに捨てられたときから、その猫はいつ死んでしまってもおかしくない状況だった」

 あれほどみんなでかわいがっていた猫との突然の別れ。

 きっと津山さんもそれをとても悲しんでいて、今はちょっと頭が混乱しているだけなのだと、そう思っていた。

「なんで……なんでそんな簡単に割り切れるんですか! 神谷君には私の気持ちが理解できませんかっ!?」

「僕だって悲しいよ。だから、早くその猫を供養してあげよう。それで十分だよ」


 でも実際は違った……

「いいえ、神谷君は何もわかってません! 私の気持ちも、この猫ちゃんの気持ちも……」

 僕は津山さんの気持ちを微塵も理解などできていなかったのだ。

「少し落ち着こう、津山さん」

 それでも僕は津山さんの説得をやめない。

「神谷君は、この猫ちゃんのことをどう思っているんですか?」

「それは……かわいそうだと……」

「じゃあこの猫ちゃんをこんな目に遭わせた人たちについては? 猫ちゃんのことをかわいそうだと思ってくれているのなら、私の気持ちだって…………!!」


「ごめん…………僕にはわからないよ。なんで津山さんがそんなに感情的になっているのか……」


 津山さんが持つものを、持たざる僕にはそれが理解できなかった。

 ただ……

 ズキンッと一瞬胸に強い痛みが走ったのを感じた。

「神谷君は人でなしです……」

「……ごめん」

 それを境にして僕たちの会話が途切れた。

 津山さんもその場で猫を抱いたまま泣き崩れてしまう。

 僕にはそんな彼女にかけてあげられる言葉も見つからず、ただ時間だけが過ぎていった────


 あれからどれほどの時間が経っただろうか?

 いつまでも泣き止まない津山さんを横目に、僕が猫の遺品である住居代わりの箱を片づけに近づいたとき、それはあった。


「津山さん!」

 彼女の前に立ち、その名を呼ぶが返事はない。

「津山さん!」

 もう一度呼ぶと、

「もういいんです……」

 彼女がぼそりとつぶやいた。

「私がいけないんです。こんなところに一匹で猫ちゃんを野放しにしていた私が……私が猫ちゃんを殺してしまったんです」

 自分の罪を懺悔するかのように、一人語りを始める。


「もともと私が猫ちゃんの世話をしようと思わなければこんなことにはならなかったんです。それに私は猫ちゃんに何もしてあげられなかった。そんな私に世話をされていた猫ちゃんは…………幸せだったのでしょうか?」

 次々と紡ぎ出されていく言葉。

 いつもの歯に衣着せぬ物言いが、すべて自分を貶めるために向けられていた。


「違うよ」

 そんな彼女を見ていられず、僕はたまらずにその言葉を遮った。

「え……?」

「僕には今の津山さんの気持ちがわからない。でも……これだけはわかるよ、津山さんはちゃんと守ったんだ」

 箱の中に生まれていた、その儚い生命をそっとすくい上げる。

「その猫だって、きっとそれを守るために戦ったんだよ」

 そしてそっと、彼女の前に差し出した。


「津山さんは守ったんだよ、失われてしまったかもしれない新しい生命を」

 僕の手の中には「ミャーミャー」と小さな声で鳴く、猫の赤ん坊が確かにいた。

 そう、猫は自らのお腹の中にもう一つの生命を宿していたのだ。

 おそらく、妊娠中に捨てられた猫は栄養が十分に摂れなかったために弱っていた。

 その窮地を津山さんが救い、ここまで世話をしてきたのだ。


「だからもう自分を責めないで、猫が幸せだったのかなんてそんな悲しいことを言わないでよ」

「わたし、わたし……」

「きっと猫は幸せだった。だって母親として自分の子供を世に残すことができたんだから」

「ごめん……なさい。ごめんなさい」

 そうして津山さんは再び泣き崩れた。

 新たに生まれた命と、もう逝ってしまった命をその胸に抱きながら……


「ごめんね、次はちゃんと……私が守ってあげるから……」

 そんな津山さんの表情は、先ほどとは違って、憑き物が落ちたかのように慈愛に満ちていた。

 今はただ、別れの悲しみと出会いの喜びの二つだけを噛みしめて泣き続けていたのだった。


 この行動が正解だったのかは僕にはわからないけれど、君はきっと間違いだと言うだろう。

 僕は少しだけ自分というものがわからなくなっていた。

 でも、たとえ望まぬ別れがあったとしても、それに押しつぶされてはいけない。

 新たな出会いを糧にそれを乗り越えていかねばならないのだ。

 それが人に課せられた使命なのかもしれないと、このとき僕は思っていた────






「くく……」

 それは、涼たちが猫との別れを乗り越えた日の夜のこと。

 無気味な笑みを浮かべながら、一人の少年が夜道を散歩していた。

「こうもあっさりと、表に出られるとはな」

 その姿は紛れもなく『神谷 涼』本人だ。

 ただ一つ違うのは、そこに宿る人格がいつもの涼ではなく、もう一人のリョウだということ。


 基本的に一つしかない体の主導権は普段から表に出ている涼の方が持っている。

 そのため、主導権を持っていないリョウは涼の許可なしに自由に表に出ることはできない。

 今までも何度かリョウは涼の許可なしに表に出たことはあるが、それは涼の気の抜けた隙を狙って意識の警戒網を掻い潜り、なんとか表に出ただけのこと。

 けれども今日は違った。

 今日はいつもとは違い、すんなりと表に出ることができた。

 それこそ普段は戸締りがしっかりしている扉が、今日に限っては鍵が閉まっていなかったかのようにすんなりと開いたように……


「アイツは今、迷っている」

 迷い。

 それは時に人を強く成長させるモノだが、それを断ち切れない者は迷いの渦に飲まれ、精神的にも疲弊していくモノ。

「アイツの中に生まれたほんのわずかな疑惑。それが迷いを生み、答えの出ない迷いの果てにアイツという存在の概念が徐々にだがブレ始めている」

 リョウはそんな状態にある涼に喜びを感じていた。

 もっと迷え、もっと悩めと、もう一人の自分を苦しませ続ける。

 それが自分たちのためになると信じて……


 ふと、前から三人の男たちが歩いてくるのが見えた。

 三人は黒い学ランに身を包んでいる。

 涼とは別の学校に通っている者たちだろう。

「でよー、猫の分際でこの俺を威嚇してきやがってよ」

「それでそれで?」

「ムカついたから蹴り殺してやった。今頃、川原の草の中で骨にでもなってるんじゃね」

「はは、お前マジ鬼畜」

「人間様にたてついた罰だ」

「今度俺もやってみようかな、猫狩り」

「ああ、スカッとするぜ。はははは!!」


 夜遅くにもかかわらず、大声を上げて話している。

 三人組は道いっぱいに横並びになって歩いてきており、このままだとリョウとぶつかる形になる。

 が、三人組は話に夢中になり、他人など構いやしないといった様子だ。

 リョウと三人組の距離がだんだんと近くなるが、どちらも道を譲る気配はなく、必然的に……

 ドンッっと肩がぶつかる形になった。


「おいっ!?」

 肩がぶつかった男の一人がリョウの方に振り返るが、リョウは何事もなかったかのように歩き去っていく。

「ちょっと待てやっ!」

 後ろからリョウの肩を掴み、無理やり振り向かせた。

「離せ……汚い手で俺に触るな」

「何言ってんだコラッ! ぶつかっといて謝りもしねぇのか!?」

 一方的な男の物言い。

 ぶつかったのは必然だが、どちらも自分の非を認め、謝るという行為をしない。


「聞こえなかったのか? その汚い手をどけろって言ってんだよ」

 リョウは自らの肩におかれた手を弾き、パッパッと二、三度、肩を払うようなしぐさを見せた。

「なめてんのかてめぇ!!」

「まあ待てよ。ちょうどいい、猫だけじゃ物足りなかったんだ。今度はお前で……があぁっ!?」

 言うが先かリョウは自分の胸倉を掴もうとしてきた一人の顔を殴り飛ばした。


「て、てめぇ何しやがる!!」

「俺に触るなと何度言えばわかるんだ?」

「このガキがぁっ!!」

 殴られた男は完全に怒り狂い、ポケットからナイフを取り出した。

「はっ、たまに表に出てきてもこんなんばっかだ。俺の気分を害させる」

 自分の置かれた境遇にうんざりしながら、リョウはため息をつく。

 なぜ自分の周りにはこんな奴らしか現れないのか?

 一瞬、脳裏にそんな疑問がよぎったが、リョウはすぐに考えるのをやめた。

 そんなことを考えるだけ無駄だと思ったからだ。


 ただ、あえて言うならば、その程度のことだということ。

 普通の一般人なら、自らに降りかかる火の粉はあらかじめ避けるものだが、リョウにはその考えがなかった。

 来るなら勝手に来ればいい、ただしその結果がどうなろうと自分の知ったことではない。

 ただそれだけ。

 

 例えば、さっきの状況なら普通はどちらかが道を譲るだろう。

 だが向こうの三人はともかく、リョウはこうなる可能性もあるとわかっていてあえてぶつかった。

 理由なんて別にない。

 向こうが道いっぱいに歩いてきて、こちらも歩いていて肩がぶつかった。

 リョウにすればその程度のことにすぎないのだ。


 普段ならば絡んでくる相手を返り討ちにして楽しむのも一興だが、今のリョウはそんな気分ではなかった。

 だが、男たちはそんなリョウの気持ちなど知る由もなく、今すぐにでも襲いかかってきそうな様子だ。

 やれやれと言わんばかりにリョウはゆっくりと口を開く。

「……なあ、教えたくれよ。俺はどうすればいいと思う? テメェらみたいなのに会わねぇように神様にお祈りでもすればいいのか? それとも……もう二度と俺の視界に入れないようにしちまうかぁ!?」

 そこで行われたのは、喧嘩などという対等なものではなく、強者による一方的な暴力のみだった────




「お、俺たちが悪かった……ゆ、許してくれぇぇ」

 もうウンザリするほど何度も聞いた言葉。

 もう許して、もう勘弁してくれ。

 相手よりも自分が弱い存在であることを認め、自分の身を守る保身の言葉。

「じゃあ聞くが、お前は同じことを相手に言われて許すのか? もう満足したと家に帰るのか?」

「も、もちろんだ……」

「違うだろ? お前はさっきあんなにご機嫌に話していたじゃないか、猫を蹴り殺してスカッとしたってな。くく……お前は自分の身勝手で、動物とはいえ容赦なくその命を奪ったんだ」

「あ……ああ…………」

 男は今、激しい後悔の念に囚われていた。

 身の丈からただの学生だと判断し、容易に喧嘩を吹っかけた自分を……

 そして、命という儚いものを奪った優越感に浸っていた自分に……


「そんなお前が許しを請うなんて、身に有り余る行為だと思わないか?」

「あ……あああ、頼む、許してくれ! 猫を殺したことも、今思えばかわいそうだって反省してるんだ……ほ、本当だぜ……」

「はっ、かわいそうねぇ」

 かわいそう。

 それは相手の身を案じ、慈しむ、慈悲の言葉。

 これも今まで何度も聞いた。

 そう、もう一人の自分という存在から……

 

 リョウは男の髪を掴み、自分の顔へと近づける。

「俺はない。今のお前たちも、今まで見てきた奴らもそうだ。そんな奴らを見て、かわいそうだなんて思ったことは一度もないんだよ。くく……」

 嘲笑したように笑うリョウを見て、男は何もかも投げ捨てて逃げ出してしまいたい感情に駆られるが、あまりの恐怖に足がすくみ、動けないでいた。

 口から発せられる言葉も恐怖に彩られ、すでに言葉にならないものばかりだ。

「そんなに怯えるなよ。今日の俺は気分が良い、アイツのおかげでな。だからアイツに免じて…………今すぐ楽にしてやるよ!!」


 いくら相手を殴り倒そうとも、いたぶろうとも治まらぬ衝動。

 それでも、否応なしに体は疼き、求める。

 どうすればこの衝動が治まるのか?

 それはリョウにとっての答えの出ない問いであった。

 しかし、それも今のリョウにしてみれば、その程度のこと。

 そこに迷いはなく、リョウの中にあるのは、ただ一つの目的だけ。


「早くお前の迷いを断ち切れ……」

 そう遠くない未来に必ず涼は答えを導き出す。

 確信に近い予感がリョウの中にはあった。


「その答えが出たときが、俺たちの本当の始まりだ────」

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