持たざる僕 (前)
「起きろ! くそガキがぁっ!!」
突然の怒鳴り声。
髪を思い切り引っ張られた痛みで少年は目を覚ました。
「誰のおかげでここにいられると思ってやがる! オラァッ!!」
「いたいっ……いたいよぉ……」
理不尽に与え続けられる暴力に、少年はなす術もなく、ただ耐えるしかなかった。
しばらくすれば痛みを与える原因は満足したようにいなくなる。
そして、また少年は痛みを忘れるため眠りにつき、怒声と暴力によって新たな痛みをその身に刻まれてゆくのだった。
少年はひどく悲しんでいた。
なぜ自分だけがこんな目に遭うのかと……
体も痛かったが、それ以上に心が痛かった。
自分が悲しむことで、こんなにも心が痛むのなら悲しみなんていらないと……そう思った。
そして────
その日を境に少年の目から涙が消えた────
新たな出会いもあれば、別れもあるのが世の習わし。
人は出会う喜びと別れの悲しみの渦巻く中で生きている。
もしかしたら君と僕が出会ったのも、なにかの縁なのかもしれない。
僕と君との出会いが少し特殊であったように、出会いとは人と人同士であるとは限らない────
街路樹の葉も赤く染まり、肌寒さを感じる季節。
木枯らしも吹き始め、夏の暑さが恋しく思える。
夜には虫たちの合唱も聞こえ、夏とはまた違った様相が街を包んでいた。
そんなある日のこと。
「じゃあ、これで最後だね」
そう言って僕は、黒を上向きにした石を盤上に置き、白石をひっくり返していった。
「ぐぐぐ……」
その様子を対面に座る恭太郎が歯痒そうに見ている。
全ての石をひっくり返し、終局。
盤面はほぼ黒で埋め尽くされているが、一応数の申告だけはしておく。
「えっと、黒が60、白が4で僕の勝ちだね」
「また負けた……ちくしょー!」
恭太郎ががっくりとうなだれる。
「あんた、角のハンデ4つももらっといて、その結果はどうなのよ……」
いつものように隣で見ていた茜が苦笑していた。
「しょうがねーだろ。涼が強すぎんだよ」
「まぁ、涼がボードゲーム強いのは認めるけど……いくらなんでもねぇ」
「なんだと西崎。そんなに言うなら俺と一局やるか?」
「おもしろいじゃない。涼程じゃないけど私もオセロは得意よ。なんならハンデあげましょか?」
「ぐぬぬ、女らしさのかけらもないくせに偉そうに」
「なによ、それは今関係ないでしょ」
バチバチッと二人のあいだでは激しい火花が飛び散っていた。
「まあまあ、二人とも落ち着いてよ」
また二人の無用な争いが起こってしまうと思い、仲裁に入るが、
「涼は黙っててくれ」
「これは、私と恭太郎の問題よ」
と、僕一人だけではこの二人を止めることができなかった。
いつもなら僕だけでなく、もう一人の仲裁役もいるのだが、その仲裁役である津山さんは今日も教室には見当たらない。
ここ数日、津山さんは昼休みになるとどこかへ行ってしまうのだ。
そして昼休み終わり間近になると、
「あれ、今日はオセロで遊んでるんですか?」
ひょっこりと戻ってくる。
「あら美咲、いつの間に戻ってきたのよ?」
「今しがたですよ」
「っつうか津山って、最近昼休みになるといなくなるよな。どこに行ってんだ?」
「それは、乙女の秘密です」
ふふ、と手を口に当てて津山さんは上品に笑う。
いいタイミングで津山さんが戻ってきてくれたおかげで、この場にいつものおっとりとした空気が戻ってきた。
「そんなことより茜ちゃん。次の時間は体育ですから休み時間が終わる前に着替えに行きましょう」
「そんなに引っ張らなくても今行くわよ……なんだか嬉しそうね、いいことでもあったの?」
「そんなことありませんよ。さ、早く行きましょう」
そう否定したものの、津山さんの顔には隠しきれない満遍の笑顔が浮かんでいた。
二人はそのまま教室の外へと消えていく。
「怪しい……」
恭太郎がメガネをキラリと光らせながらつぶやいた。
「え、何が?」
「津山だよ。なんか最近様子がおかしいだろ? 絶対俺たちに何か隠してるぜ」
「でも、本人が嬉しそうならそれでいいんじゃないの?」
ここ数日の津山さんの様子は確かに普段とはちょっと違うが、本人はいたって明るいままなので、僕は特に気にしていなかった。
「なんか、すごく気になるだろ?」
「全然」
僕は首を横に振る。
「そうか、気になるか」
恭太郎の耳はずいぶんと自分に都合よくできているようだ。
「じゃあ、放課後にな。ぐっふっふっふっふっふ……」
いつもよりも数段いやらしい笑みを浮かべている恭太郎を見て、これはまた変なことを考えているなと僕は確信した。
「お願いだから、ストーカーとか犯罪にだけは手を染めないでね」
心の底からそう思う。
そして放課後。
津山さんは昼休みだけでなく、放課後も一人で帰ることが多くなっていた。
今日も用事があると言って早々に教室を出ていってしまう。
「……というわけで、津山の後をつけてみようと思うんだが」
やはり恭太郎はあまりよくないことを考えていたようだ。
「なんで私が……」
集められたのは僕だけでなく、茜も同様に巻き込まれたようだった。
「だって、気になるだろ? もしかしたら津山が援助交……」
「変なこと言ったら殴るわよ」
「ごほんっ、もしかしたら変な事件に巻き込まれてるかもしれないし」
僕から見て、その可能性は限りなくゼロに近いと思えたが、これは恭太郎の方便なのだろう。
「気にならないと言えば気にはなるけど……後をつけるってのは、ちょっとね……」
茜も恭太郎の提案には、あまり乗り気でない様子だ。
「ちょっと確認したらすぐ帰るって。そう固く考えるなよ。なあ、涼?」
「わかったから、僕に振らないでよ……」
「ま、まぁ、ちょっとだけなら……本当に変な事件に巻き込まれてないか確認するだけよ」
と、僕と茜はしぶしぶ了承する。
そして早速、教室を出ていった津山さんの後を見つからないようにこっそりとついていくことにした────
「こっち、美咲の家とは反対側の方向よ」
津山さんは学校の裏手にある川沿いの土手道を歩いていた。
誰と出会うわけでもなく、何が起こるわけでもなく、歩き続けること数分。
津山さんは向きを変え、土手を下って川原の方へと降りていく。
そこは雑草が生い茂っているだけのただの川原。
津山さん以外の姿は見えなかった。
「誰かと待ち合わせか?」
「こんなところで?」
「少し様子を見てみましょ」
僕たちが様子を見守っていると、津山さんは草陰の近くに座り、鞄から何かを取り出す。
「何か手に持ってるよ」
「ここからじゃ草が邪魔でよく見えないわね」
「もうちょい近寄ってみようぜ」
僕たちがさらに近寄ってみると津山さんが一人で何かを話す声が聞こえた。
僕たちは耳を澄まして、その内容を窺う。
「はい猫ちゃん、ご飯ですよ」
草葉の陰から見えた津山さんは、箱の中にいる一匹の猫にキャットフードを与えていた。
「猫だよ」
「猫だな」
「猫よね」
夢中になってその光景を眺めていると、津山さんは視線に気づいたのか、僕らのいる方を振り向いた。
「何やってるんですか?」
「「あ……」」
最後にポカをやらかし、あっけなく見つかってしまう。
「「ごめんなさい」」
本人に尾行をしていることがバレてしまったので、僕たちは事情を説明し、謝った。
「いえ、別に怒ってはいないですけど……そんなに私、おかしかったでしょうか?」
僕たちは首をそれえて縦に振る。
「べ、別に隠してたわけじゃないんですよ……でも、その……」
津山さんは、何やら言いずらそうにもじもじしていた。
何かこの件に関して、やましいことでもあるのかと考えてみると、一つだけ思い浮かぶことがあった。
「もしかして津山さん、昼休みもここに来てるの?」
それを聞いた津山さんは目を丸くしながら、一瞬体をビクッと震わせる。
昼休みに突然いなくなることや、それを僕たちはともかく茜にも隠していること、それに今の状況を見れば予想できることだったが、僕の一言で視線が泳ぎまくっている様子を見るに図星だったようだ。
「それって本当なの?」
「……はい」
苦笑いしながらも、本人はそれをあっさりと認めた。
「学校にバレたら罰則ものよ」
やれやれとばかりに茜が苦言を呈す。
「わかっています。でもこれには事情がありまして……」
と、猫に視線を向けながら、津山さんはことのあらましを話してくれた。
津山さんがこの猫と出会ったのは今から三日ほど前とのこと。
この川原で捨てられているのを偶然見つけたらしい。
当時の猫は衰弱していたらしく、それを見過ごせなかった津山さんが一人で世話をしていたようだ。
ことあるごとに猫の体調が気になってしまい、昼休みも学校を抜け出して、ここに世話をしに来ていたと言う。
「それで、猫の様子はどうなの?」
「はい、すっかり元気になりましたよ!」
嬉しそうに猫を抱え上げながら、僕たちに見せてくれた。
津山さんの腕の中で、猫は気持ちよさそうにゴロゴロとしている。
猫は茶色と白色の毛並で、少しお腹がポッコリしており、それもまた愛らしいものだった。
僕がそっと手を伸ばしてみると「にゃー!」と言わんばかりに、手を軽く引っかかれてしまう。
「こら、ダメですよ猫ちゃん」
津山さんが猫を叱るものの、猫の僕に対する警戒は一向に解けなかった。
この猫と仲良くするには相当時間がかかりそうだ。
「ははっ、嫌われてるな涼」
「こういうのは恭太郎の役目だと思うんだけどな」
猫に触るのをあきらめ、一歩身を引く。
「で、元気になったその猫を美咲はどうするの?」
茜の一言で和みのムードが消え、一気に現実に引き戻される。
元気になったこの猫をこれからどうするのか、重要なのはそこだ。
「本当は私が飼えればいいんですけど、お父さんがアレルギー持ちで、家では動物を飼えないんです」
言い終えて、津山さんはシュンとしてしまう。
家庭の事情ならばどうすることもできないか……
「猫なんだから、ほっとけば勝手にどっか行っちまうんじゃねーの?」
恭太郎のもっともな意見だが、
「菅君は知ってますか? 野良猫が一週間生きていられる確率は5割にも満たないんです。だから誰かがお世話をしてあげないと、きっとこの猫ちゃんも……」
自分が守ると言わんばかりに、腕の中の猫をギュッと抱きしめる。
きっと津山さんは、その猫のことをとても大事に思っているのだろう。
だから猫のことを猫ちゃんと呼び、猫を飼うことのできない自分で名前をつけることをしなかったり、元気になった猫をこのまま野に放すこともできないのだ。
「まぁ、そう言われちゃどうにかしてやりたいけど、俺の家は母ちゃんが絶対ダメっていうしな……」
「僕は学生寮だからペット禁止だし……」
「私もお母さんが許してくれないわ……」
現実は厳しいものだった。
みんな、自分ではどうすることもできずに黙りこくってしまい、猫の鳴き声だけが空しく響いた。
「……しょうがないわね」
何かを決めたように茜が口を開く。
「私たちで、その猫を飼ってくれる人を探しましょう」
猫の頭を撫でながら、茜は一つの解決法を提案した。
それに触発されるように、
「僕もできることがあれば手伝うよ」
「なに? じゃあ俺も協力してやるぜ」
僕たちも猫の飼い主探しに名乗り出た。
「本当ですか? ありがとうございます!!」
津山さんの顔にも、いつもの笑顔が戻る。
「だから、もう昼休みに学校を抜け出すのはやめなさい」
「はい! よかったですね猫ちゃん」
津山さんはいつも僕たちに向けてくれる微笑みとはまた違った、包み込むような優しい笑顔を猫に向けていた。
「そういうわけだから、よろしく頼むぜ」
恭太郎が挨拶代わりに手を伸ばすと「にゃーっ!!」と暴れ出した猫に顔を引っかかれてしまう。
「なんでだーーーっ!!」
オチだけはきちっとつけてくれる恭太郎であった。
それにしても僕たちがこの猫と接していくのはだいぶ苦労しそうだ……
それからの僕たちは飼い主を探すかたわらで、朝と放課後に交代で猫の世話をするようになった。
まぁ、僕と恭太郎だけでは猫に触るのも難しいため、茜と恭太郎、僕と津山さんという組み合わせで世話をする形だが……
しかし何日も猫の世話をしているうちに僕も猫に愛着が出てきていた。
けれどもこのご時世、猫を飼ってくれるという人はなかなか見つからず、飼い主探しは逆に難航していた。
そしてある日のこと。
今日は日曜日で学校も休み。
僕はやることもなく家でダラダラと怠惰な休日を過ごしていた。
空は黒い雲に覆われ、昼間とは思えぬほどに外は薄暗くなっている。
遠くの空では、時折、雲の切れ間から雷の輝きが見えた。
この季節にもかかわらず、じめじめとした嫌な空気。
天気予報が示す天気は雨。
それも大雨・暴風警報のおまけつきだ。
しばらくすると予報どおり、ポツポツと雨が降ってきた。
雨音は次第に強さを増していき、窓から見える景色もすべて雨に遮られてしまう。
脳裏に浮かんだのは猫の姿。
今日が雨だとわかっていたので、あらかじめ川原の近くに架かっている橋の下に猫を箱ごと移動させておいたが、この雨と風では正直心もとない。
ヘタをすれば川の水が氾濫して猫に危険が及んでしまうのではと、僕は次第に心配になってきていた。
ちょうど今日は、順番的に僕たちが猫の世話をする日だ。
もしかしたら津山さんも川原に行っているかもしれないと思い、僕は今から猫の様子を見に行くことにした。
外は相変わらずの激しい雷雨。
顔に打ち付ける雨と風は痛いほどで、雷の鳴る音も次第に近づいてきていた。
この状況では傘は当然無意味。
僕はタンスの奥から引っ張り出した雨合羽を着て川原を目指す。
こんな天気の日に外を出歩く人間は僕以外にはいないようで、外を歩いていても人っ子一人見当たらない。
土手の上から眺めた川は、激しい勢いのままに濁流が流れていたが、今すぐに水が氾濫する心配はなさそうだった。
だからといって、このまま雨が降り続ければどうなるかはわからないし、もし猫が誤ってこの濁流の中に呑み込まれてしまったら、助かる確率は限りなく低いだろう。
僕はぬかるむ足元に気を配りながら土手を下り、橋の下に避難させておいた猫のもとへと向かった。
「津山さん」
橋の下にはすでに津山さんが一人で立っていた。
「あ、神谷君」
僕の声に気づき、こちらに振り返る。
「やっぱり津山さんも来てたんだ」
「はい、どうしても猫ちゃんが心配で来ちゃいました。でも……」
津山さんの視線の先。
その視線の先にある箱の中には、猫の姿が見当たらなかった。
「私も今さっき来たばかりなんですけど、猫ちゃんがどこにも見当たらなくて……」
こんな天気にもかかわらず猫は自由気ままにどこかへ出かけてしまったようだ。
「大変だ、早く探さなくちゃ」
「は、はい」
人間の僕たちでも、この雨と風の中で外を出歩くのは危険なのに、猫が一匹で出歩くなんてもってのほかだ。
そして僕たちが猫を探しに行こうとしたとき、
「涼、美咲!」
雨の中から聞こえてきた茜の声。
激しい雨をかき分けながら、茜と恭太郎の二人がやって来た。
「二人も来てくれたんだ」
「おう、なんだか猫が心配になってな。西崎とはそこで会ったんだ」
二人も猫のことが心配になって様子を見に来てくれたらしい。
猫を捜索する人数が増えるのは好都合だった。
「それで、猫ちゃんは無事だったの?」
「それが、私たちがここに来る前にどこかへ行ってしまったみたいで……」
「今から探しに行くところだったんだよ」
二人にも事情を説明する。
「なら、俺たちも探すの手伝うぜ」
「いいんですか?」
「もちろんよ。こういうときのために来たんだもの」
「ありがとうございます!!」
そういうわけで四人で手分けして猫を探すことになった。
川の付近は危険だということで、男である僕と恭太郎が担当し、川から離れた川原の方は津山さんと茜の担当だ。
しかし、ただでさえこの悪天候の中、激しい雨の影響もあって視界も悪い。
猫探しは困難を極めた。
そして猫を探すこと数十分。
「……い……う……」
激しい雨と風と雷の音が鳴り響く中、僕の耳にかすかな声が聞こえた。
目を凝らしながら辺りを見回すと、恭太郎がこちらに向かって何か叫びながら手を振って合図をしていた。
「おーい、涼! こっちだこっち!!」
恭太郎は何かを発見したようで、僕のことを呼んでいたのだ。
僕は急いで恭太郎のもとへと走った。
「どうしたの?」
「あそこ、見てみろ」
恭太郎が指示した先には川に突き出した枝が一本。
そしてその枝の先の上には……
なんと探していた猫の姿があった。
猫は横から吹く強風に飛ばされまいと、爪を立てて必死に枝にしがみついている。
「大変だ、早く助けないと!」
二人よりは四人と、すぐに茜と津山さんも呼び、救助策を考える。
岸から猫のいる枝の先まではざっと2mほどで、ここから僕たちが手を伸ばしたとしても届かない。
かといって川の中に足を入れようものなら、この激しい濁流に足をとられて僕たちの方が流されてしまうだろう。
「猫ちゃん危ない!!」
猫の体力も限界なのか、時折一瞬だが、足の一本が枝から離れてしまうのも見受けられた。
もう一刻の猶予もない。
早急に猫の救助に入らなければ、猫にとってとても危険な状況だ。
どうすればいい……どうすれば……
頭をフル回転させて考える。
猫をあの場所から助ける方法はすぐにいくつか思いついたが、どれも時間がかかり過ぎてしまう。
今、求められているのは最善ではなく最速の方法。
その条件下で、ただ一つだけ閃いた救助策。
だかこれは、実行する人間にも危険が及んでしまう。
しかし、もう手段を選んでいられる場合ではない。
「みんなも協力して」
僕はすぐに実行に移った。
まずは自分が着ている雨合羽を脱ぎ、腰の周りにきつく巻きつける。
その様子をキョトンと見ていた茜たちも僕の考えをすぐに察したのか、着ている雨合羽を脱ぎ始めた。
「ほら、恭太郎。あんたも脱ぐのよ」
「お、おう」
まだ状況を把握しきれていない恭太郎も茜に催促され雨合羽を脱いでいく。
そして、みんなのそれを僕の腰に巻かれている雨合羽に解けないように継ぎ足していき、腰から伸びる一本のロープのようにした。
「ああ、そういうことか」
恭太郎も僕の考えを察してくれたようだ。
僕は恭太郎たちに腰から伸びた雨合羽をしっかりと引っ張っていてもらい、猫の救出を試みる。
枝に慎重に足を乗せ、枝がしなって折れてしまわないように徐々に体重をかけていく。
横から吹きつける風にバランスをとられてしまわないように慎重に……
そして少しずつ、ゆっくりと前方に体を傾け、腕を思い切り伸ばす。
もう少し、もう少しだ……
少しずつ近づいていき、もう猫に手が届きそうだったとき……
「痛ッ──!」
手先に鋭い痛みが走った。
猫が「シャーッ!!」という声を上げながら、近づく僕の手を拒み、引っ掻いていたのだ。
こんな状況でも、否、こんな状況だからこそ僕はこの猫に敵と認識されてしまっているらしい。
「大丈夫。大丈夫だからこっちにおいで」
それでも僕は、声をかけ続けた。
「ほら、怖くないよ」
何度手を引っ掻かれようとも、あきらめずにその手を伸ばし続ける。
だけどそれがいけなかったのかもしれない、もしかしたら僕がどこかで焦っていたのかもしれない……
ただでさえ強風の中でバランスを保つのがやっとだった猫が、僕の手を引っ掻くために自らの命を繋いでいる命綱を離す。
僕は、そんな無謀なことをさせてしまっていたのだ。
そして今までに比べ一層強い突風が吹き荒れたとき……
猫の命を繋いでいた足が、すべて離された────
「猫ちゃんっ!!」
背後から聞こえた叫び声に後押しされるように僕は身を乗り出し、限界まで手を伸ばす。
「ぐ、届けえぇっ────!」
そう叫び、伸ばした手……
空っぽだった僕の手の中に感じた、一つの温もり。
僕は間一髪で、猫を受け止めることに成功していた。
ふぅ……と一つ安堵の息を吐き、そのまま猫を落とさないようにゆっくりと岸に戻っていく。
「よかった……本当に助かってよかったです。ありがとうございます、神谷君」
戻って早々に津山さんが僕に感謝の意を述べながら深く頭を下げてきた。
「そんな、当然のことをしたまでだよ」
そんなやり取りをしていると、やけに手がくすぐったい感覚になった。
見ると、先ほどまで僕の手を引っ掻き回していた猫が、ひっかき傷をペロペロと舐めてくれていた。
「ほら、猫ちゃんもありがとうって言ってるわよ」
「うん」
猫を無事救出でき、猫との距離が縮まったことに僕は深い喜びを感じていた。
「まったく心配かけてくれやがって」
無防備に近づいてくる恭太郎。
「シャーッ!!」
「な、なんで、俺だけーーっ!!」
そんな恭太郎を見て、僕たちは笑いの渦に包まれる。
こうして僕たちと猫の出会いの物語は無事に幕を閉じた────
はずだった……