僕が持つもの、君が持つもの (前)
「いたいよぉ……」
そこでは一人の年端もいかぬ少年が苦しみに悶え、泣いていた。
体に走る鈍い痛みに耐えるように布団の端をギュッと掴む。
隣の部屋から聞こえてくるのは、泥酔した男の呂律のまわらない声。
そして、時折響き渡るガラスの割れる音。
少年は、ただただ理不尽に自分に降りかかる厄災から逃れたかった。
しかし、まだ幼い少年にはどうすることもできず、できることといえばひたすらに耐え忍ぶことだけだった。
これが悪い夢ならどれほどいいか……
もしかしたらこれは夢なのかもしれない。
と、現実から目を背けるように今日も眠りにつく。
時間が経てば体の痛みも幾分かはなくなる。
次に目覚めたときは、もっと楽しいことがあると信じて……
少年は今日も深い眠りについた────
新学期が始まってから、早一か月。
うだるような暑さも影を潜め、日に日に過ごしやすい気候になってきた。
本格的な秋の到来だ。
秋といえば、食欲の秋、芸術の秋、読書の秋など様々な呼ばれ方をする。
読書は好きだ。
大好きな小説を読みながら、ゆったりと流れる時間に身を任せるのはとても心地がよい。
もちろん、美味しいものを食べるのも好き。
芸術は……よくわからない。
でも、僕の周りは違った。
僕の周りでは、今違う秋が来ている。
それは……
「おい涼、ボール行ったぞっ!」
「え……がっ!?」
いつの間にか目前に迫っていたボールに反応することができず、僕はボールを顔面で受け止めた。
さらに尻もちもつくオマケつきだ。
「いたた……」
「大丈夫か?」
「う、うん……なんとか」
駆け寄ってきた恭太郎の手を借り、立ち上がる。
「何ボーっとしてたんだよ」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「まぁいいや。ほら練習に戻ろうぜ」
「うん」
そう、僕の周りではスポーツの秋一色になっていたのだった。
僕の学校では、この季節に体育祭ならぬ球技大会が催される。
男女別に分かれ、男子はバスケットボールかサッカー、女子はバレーボールかソフトボールをそれぞれ選択し、クラス対抗という形式で行われるのだ。
僕は恭太郎に誘われ、バスケットボールを選択していた。
まぁ、運動が苦手な僕にとっては、どちらを選んでも大差はないのだが……
昼休み。
僕たちはいつものようにボードゲームに勤しんでいた。
ちなみに今日はマグネット型の囲碁だ。
「うーん、運動した後のご飯っていつにもまして美味しいわよね」
「ですね」
僕たちの横では、茜たちがお喋りをしながら昼食を食べている。
「涼はどうだったの今日の練習。ちょっとは上手くなった?」
話ついでに茜が僕にも話題を振ってきた。
わざわざ聞かなくても僕の運動神経を知っている茜なら僕の答えはわかるだろう。
「全然ダメ」
僕は当たり前のように首を横に振る。
ちなみに今日の練習では、シュート成功率は0%、ドリブルをすればすぐにボールを奪われ、ディフェンスはザルで完全にみんなの足を引っ張りまくりだった。
「へへー、勉強じゃあ涼に勝てねーけど、運動だけなら涼には負ける気がしないな」
向かいに座る恭太郎は、勝ち誇ったようにニヤニヤ笑っている。
「人には得手不得手があるものなんだよ、恭太郎」
話しているあいだにもパチッ、パチッと碁石の置かれる音がリズム良く響く。
「あんたこそ、そんなこと言ってるようじゃいつまで経っても上達しないわよ」
茜はそう言うものの、この短い練習期間では僕が上達する見込みがほとんどないことは僕自身が一番理解していた。
部活とは違い、学校の行事という名目上、レギュラーや補欠といった概念はなく、全員が平等に試合の参加を義務づけられている。
僕はできるだけチームの足を引っ張らないように、ひっそりと参加するだけだ。
「菅君、菅君」
「なんだよ津山?」
「これ、もう菅君の勝ち目ゼロですよ」
津山さんが碁盤を指しながら言った。
「何言ってんだ。まだ始まって五分……しか……げっ……!?」
「ね、だから人には得手不得手があるって言ったでしょ」
結果は僕の中押し勝ち。
今度は僕が恭太郎に勝ち誇る番だった。
「も、もう一回だ!」
「いいよ」
「やれやれ、涼も恭太郎も先が思いやられるわね」
「いいじゃないですか茜ちゃん。それも人生ですよ」
この勝負の後、恭太郎は一人必死で囲碁の特訓をすることになった────
球技大会本番まで、残り約一週間。
今日も試合に向け、それぞれが練習に励んでいた。
体育会系の人間が多いのか、勝ち負けにこだわる生徒も多い。
だが、僕はあまりそういうことにこだわりはなかった。
もちろん、負けるより勝つ方が嬉しいのだろうけど、自分のことで精いっぱいの僕には、そんなことを気にする余裕もないのだ。
今日の練習でも僕は失敗ばかりでチームメイトの足を引っ張ってしまう。
自分では一生懸命やっているつもりでも、上手くいかないものは上手くいかない。
そんな僕を煩わしく思う人間もいるのだろう。
それは、練習が終わり教室に戻ったときに起きた。
「おい、神谷」
僕に話しかけてきたのは、僕と同じチームメイトの一人だった。
「なに?」
「お前さぁ、本当に練習やる気あんの?」
僕の下手さを見かねたのか、返事をするなりそう言われた。
彼の表情からは、僕に対する不満の色が隠しきれないほど滲み出ている。
「一応は、頑張ってるつもりだけど……」
嘘は言っていないが、あの調子で頑張ってると答えられても説得力は皆無だろうと自分でも思った。
「頑張ってるつもりって、それであれかよ……」
目の前の彼も僕と同じことを思ったのか、完全に呆れている様子だ。
「お前、もっと自分が足引っ張ってるって自覚持てよ」
反論の余地はなく、そう言う彼に僕は謝ることしかできなかった。
「お前のせいでこっちは……」
「ちょっとっ!」
彼の言葉を遮るように、誰かが僕達のあいだに割って入る。
「どういうつもりか知らないけど、それは言い過ぎよ。涼だって、涼なりに一生懸命やってるんだから」
僕達の会話に割り込んできたのは練習から戻ってきた茜だった。
「一生懸命やってるったって、お前は神谷のプレーを見てないからそんなこと言えるんだぜ」
彼を含め、それを聞いた周りの男子たちも苦笑している。
「こんなことなら神谷が当日休んでくれた方が勝てるんじゃねーの」
そう言い捨て、彼は教室を出ていく。
これが先ほどに起きた出来事。
そして放課後の今、僕は茜に呼び出されて近くの公園に来ていた。
「一応聞いておくけど、なんで僕はこんなところに呼び出されてるのかな?」
「決まってるでしょ。球技大会に向けて特訓するのよ」
「特訓って……なんでさ?」
「あんた、あれだけ言われて悔しくないの? 見返してやりたいとは思はないの? 私は思うわっ!!」
文句を言われたのは僕のはずだが、なぜだか茜は当人の僕よりもやる気に満ち溢れていた。
「でも、僕が足を引っ張ってるのは事実だし……」
「だからやるんでしょ」
「今さら特訓したって変わらないよ」
「そんな弱気でどうするの? ちょっとは男らしいところ見せなさいよ……」
「でも……」
茜がここまで心配してくれるのは嬉しいが、ただの球技大会にそこまでやる意味を僕は見いだすことができなかった。
「嫌なの……」
「え?」
「嫌なのよ……涼のこと何も知らない人たちが、涼を一方的に馬鹿にするのを見てるのが…………」
先ほどまでの傲慢な態度は身を潜め、普段は絶対に見せないような茜の悲しむ表情がわずかに垣間見えた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が締め付けられるような痛みに襲われる。
そして、そんな茜の顔は見たくないと思っている自分がいることに、ふと気づいてしまった。
「…………わかったよ。やるよ、特訓」
茜にそう告げて、鞄を隅に置く。
「本当ッ!?」
するとパァッと茜の顔はいつもの元気を取り戻した。
「うん」
「り、涼がそこまでいうなら、仕方ないわね」
特訓をやると言い出したのは自分のくせに調子がいいんだから、と思ったが、また何か言われそうだったのであえて口には出さない。
「じゃあさっそく始めましょ。私『たち』の特訓は厳しいわよ」
茜の言葉に違和感を覚えたが、その答えはすぐに出た。
「じゃーん。実は私たちもいるのです!」
言いながら公園の草陰に隠れていた津山さんと恭太郎の二人が飛び出すように姿を現した。
「二人も僕の特訓に付き合ってくれるの?」
「はい。茜ちゃんの頼みとあっては断れません。微力ながらもお力添えします」
「ちぇー、今日はギャルゲーの発売日なのにな。まぁ、涼のためじゃ仕方ねーか」
放課後の公園にいつものメンバーが集まる。
「ありがとう。よろしくお願いするよ」
みんなに一言礼を述べ、僕も特訓をする覚悟を決めた。
こうして僕のバスケ特訓の日々が始まった。
まずは基礎である、パス、ドリブル、シュート練習からだ。
この公園にはバスケのゴールであるリングが一つだけ設置してあるため、シュートの練習も問題なく行える。
みんなからもアドバイスやコツ、正しいフォームなど、自分一人ではわからなかったことをいろいろと教えてもらうことができた。
例えばシュートのとき、ボールは手の平でなく、指を広げて持ち、利き手と逆の手はボールに添えるだけらしい。
今まで意識していなかったことを意識をするようになったおかげか、シュートの成功率も微々たるものだが上がってきていた。
僕の想像以上に、みんなで練習することには意味があったようだ。
基礎練習が終われば、次は実戦練習。
1対1または2対2で簡易なバスケを行う。
恭太郎と茜が平均以上に運動ができるのは知っていたが、意外なことに津山さんも、二人には劣るもののちゃんとバスケの動きをしていた。
勝手なイメージで僕側の人間だと思っていたが、運動神経だけなら僕よりも上みたいだ。
「ほら涼、つっ立ってるだけじゃ簡単に抜かれちゃうわよ。腰を落として」
「シュートのときは左手は添えるだけだぞ、涼」
「神谷君、リラーックスですよ!」
みんなの指導を受けながら無我夢中になって練習をしていると、いつの間にか太陽は完全に沈み、辺りは真っ暗になっていた。
「今日はこのくらいにしときましょうか」
「ごめんね、二人も遅くまで付き合わせちゃって」
「いいってことよ」
「はい、好きでやってるんだから気にしないでください」
恭太郎も津山さんんも嫌な顔一つせずに、ずっと僕の練習に付き合ってくれた。
それには当然、感謝しなくてはならない。
あと……
「それに茜も。なんだかんだ言ったけど僕も楽しかったよ。ありがとうね」
僕のことを気にかけてくれていた茜にもお礼を言う。
「な、何よいきなり……特訓なんだから……もっと、その……苦しみなさい!」
「茜ちゃん。照れてますね」
「うるさいわよ!」
そして、僕達の特訓一日目は終わりを告げた。
次の日からも僕のバスケの特訓は続く。
学校での練習と放課後の特訓。
そのおかげで少しずつ、少しずつではあるが、自分でも上達していると感じられるようになってきた。
まだまだ恭太郎や茜には到底敵わないが、このまま続けていけば、チームの足を引っ張るだけの存在からは卒業できる気がした。
しかしある日のこと……
学校での練習中、練習に慣れてきた余裕からか、はたまた気の緩みのせいか、それは起こった。
飛んできたボールをキャッチしようとしたとき……
「痛ッ……!」
誤って、ボールを指を突いてしまったのだ。
「指、大丈夫だったか?」
練習後、保健室から戻った僕に恭太郎がそう話しかけてきた。
「軽い突き指だって。安静にしてれば三~四日で治るってさ」
言いながら包帯で固定された右手の中指を見せる。
「球技大会には、ギリギリ間に合いそうだからよかったよ」
今までの練習の成果が丸々無駄はならずに済むのは幸いだった。
「でも、その指じゃあ特訓は当分休みだな」
「そうだね。あとで茜たちにも謝らなきゃ……」
無理して練習をして、本番に出られなければ元も子もない。
だがこの様子では、大会当日まで特訓はおろか練習も無理そうだった。
「というわけで、しばらくは特訓できそうにないんだよ。ごめんね……」
茜たちにもことのあらましを説明し、頭を下げる。
「そんなことでいちいち頭下げなくていいわよ。元々誘ったのは私なんだし、今は怪我を治すことだけ考えなさい」
「はい、健康が第一ですからね」
「うん、ありがとう」
二人の優しさに感謝しつつ、僕は心置きなく治療に専念させてもらうことにした。
そして昼休み、僕はとある事実に気づく。
「今日に限ってお弁当買ってきちゃったよ……」
いつも購買のパンばかりだったので、たまにはご飯を食べようと気まぐれにコンビニ弁当を買ったのが仇となった。
弁当についてくるものといえば割り箸。
当然スプーンやフォークといった握る類のものはない。
だが、利き手である右手の人差し指と中指がセットで真っ直ぐに固定されてしまっている状態では、箸の使用がこの上なく不便なのだ。
素手で食べるわけにもいかず、僕はあきらめて左手に箸を持って食べることにした。
慣れない感覚に悪戦苦闘しながらも、なんとかご飯を口に運んでいく。
「どうした涼、ずいぶん食べづらそうだな?」
そんな僕の様子を恭太郎は怪訝な顔で見ていた。
「これだよ」
問題の右手を見せる。
「あー、なるほど」
それを見て恭太郎も納得してくれたようだ。
「利き手を怪我しちゃうと、日常生活が不便ですよね。私も経験あります」
と、津山さんも会話に加わってきた。
先ほどから沈黙を続けている茜は僕の手をじっと見続けながら。一人不思議そうに首を傾げている。
「どうかしたの?」
僕が尋ねると、茜は我に返ったように僕に言葉を投げ返す。
「涼って左利きじゃなかったっけ、右利きに矯正したの?」
この三人の中では一番付き合いの長い茜だが、なぜか僕のことをずっと左利きだと思っていたようだ。
「え? 僕はずっと右利きだよ。何かの勘違いじゃない?」
当の本人である僕がそう答えても、茜はまだ首を傾げていた。
「でも、私が涼と初めて会ったとき、ずっと左手を使ってたような……」
「よくそんなこと覚えてるね。それって小学校に入るよりも前の話でしょ?」
正直、僕は小さいときのことをまるで覚えていなかった。
「私だってそんなにはっきりと覚えてるわけじゃないけど、えーと……なんでだったかしら……」
当時のことを思い出すように茜は頭を抱え、考え出した。
きっと一度気になったら、とことん追求してしまうタイプなのだろう。
僕の読んでいる小説に出てくる探偵もそんな性格だった。
ふと、意外にも茜は探偵向きなのかもしれないと思ってしまった。
「思い出したっ!!」
無事に記憶をサルベージすることができたのだろう、スッキリとした表情で茜は顔を上げる。
「ほら、昔の涼って、右手に包帯巻いてたじゃない?」
「そうだっけ?」
そう言われても、僕はまったく思い出せない。
「なんだ、涼はそんなときから中二病の素質があったのか?」
途中、恭太郎が茶々を入れるが、
「菅君はちょっと黙ってましょうね」
と、津山さんに口を封じられた。
「そうよ。なんでか知らないけど包帯ぐるぐる巻きで痛そうだなーって思ったのを覚えてるわ。でも、お絵かきをするときもお弁当食べるときも不便なさそうに左手使ってたから、ずっと左利きだと思ってたのよ」
左手云々よりも、よくそんな小さなことをいつまでも覚えていられるなと、僕は感心してしまう。
「小さかったときのことでも、強く印象に残ってることは割と覚えてるものですよ」
言われてみれば、印象に残る出来事はどんなに時間が経っても忘れないものだ。
しかし、右手が使えなくなるほどの怪我をした覚えはまるでなかった。
右手といえば、もうほとんどわからないが手の甲にうっすらと傷跡があるのを思い出す。
これは何かの偶然なのか、それにいつできたものなのか?
今の僕には、知る由もなかった。
「そういえば、なんでこんな話になったんだっけか?」
と、恭太郎が再び口を開く。
「神谷君がお弁当を食べづらそうにしていたからですよ」
津山さんが答えた。
茜の話に気を取られて、弁当を半分も食べていないことを思い出し、僕は再び止まっていた左手を動かす。
「やっぱり食べづらそうですね。……ふふ、そんなに食べづらいなら、食べさせてもらったらどうです?」
その様子を見ていた津山さんが卑しい笑みを浮かべながら、そんな提案をした。
「い、いいよ、自分で食べるから」
さすがにこの年で誰かにご飯を食べさせてもらうなんて、恥ずかしすぎる。
「でも、もうすぐお昼休みも終わっちゃいますよ?」
しかし津山さんはそんなことも構わずにさらに追い打ちをかけてくる。
「まったく世話が焼けるわね」
自分の分のお弁当を食べ終えた茜が、僕から弁当と箸を取り上げ、ご飯を一つまみ差し出してきた。
「はい、口開けなさい」
「でも、いくらなんでも恥ずかしいよ」
「仕方ないでしょ。子供じゃないんだから、これくらい我慢しなさいな」
「でも……」
「イ・ヤ・な・の?」
少しドスの利いた声で言われ、僕はおとなしく口を開く。
「なぜだろう……羨ましい光景のはずなのに羨ましいと思えない……」
そんな僕たちの様子を見て、一人言をつぶやく恭太郎。
そして、僕が茜に世話を焼かてれる光景をニヤニヤと眺める津山さん。
今日の僕は、なんだかこそばゆい気持ちでいっぱいになっていた────