俺の居場所 (後中)
唐突なリョウの行動と言葉に美咲の表情は驚きに変わっていた。
少なからずこの状況に動揺しているのだろう。
しかし次の瞬間、美咲の顔には笑みが浮かぶ。
それはまるで、子供のいたずらを見守るようなものだった。
さすがのリョウもこの行動は想定外のようで、美咲の考えを読むことができない。
少し力を入れるだけで、左手にある命を容易く握りつぶすことができる。
大切な子猫を危険にさらされているのだ。
表層では平静を装っていても、内心では焦りや戸惑いが生まれているはず……
しかし、美咲の表情は微塵もそんなものを感じさせなかった。
そして美咲はゆっくりとリョウの正面で立ち上がる。
何をするつもりなのかとリョウは美咲の動きに警戒心を強めた。
だらんと下がっていた、美咲の両腕が動く。
それは徐々にリョウに近づいていき、上げられた左手の前に差し出される。
同時にジタバタと足を回していた子猫がリョウの方を向いた。
それはリョウに対しての離してくれという意思表示だったのかもしれない。
しかし子猫の様子はリョウから逃げ出したいというようなものではなさそうだった。
いまだに二人に遊んでもらっているようにじゃれつくような感じだ。
あまりの予想外の対応に興が削がれたのか、リョウはあっさりと子猫をその手から開放した。
「よしよし、怖くなかったですか?」
美咲は自らのもとに子猫を引き寄せ、優しい口調で話しかける。
それに答えるように「ミャー」と子猫は一つ鳴き声を上げた────
その後「少し、歩きませんか?」という美咲の誘いを受け、二人は満天の星空の下、土手道を散歩する。
楽しそうに星空を見上げながら、先を歩く美咲。
その足元で気ままに歩く猫。
そして、その後ろで一人気難しい顔をしているリョウ。
二人の足音と一匹の鳴き声だけが聞こえる雑音のない空間。
先に沈黙を破ったのは、美咲の方だった。
「背中越しに神谷君の熱い視線を感じます。そんなに気になりますか? 私のこと」
体ごとふり返り、美咲はリョウに問う。
二人は足を止め、二メートルほど離れた距離で向かい合った。
先ほどから美咲にペースを乱されていることが気に入らないのか、リョウの目は美咲を睨むように鋭く細められていた。
だが、そんな行動がなんの意味も持たないと理解しているリョウは、一度目を伏せた後、口を開く。
「俺がそいつに危害を加えないと、お前は本気で思っていたのか?」
美咲にもわかりやすいようにリョウは美咲の足元にいるそいつに視線を向けた。
「そうですね……」
なんと答えればいいのやら。
美咲は顎の下に人差し指をあて、考えるようなそぶりを見せる。
「さっき神谷君はこの子のことをこう言っていましたよね。温室育ちに何がわかるって」
「それがどうした?」
「ときには温室育ちの方が、危険察知の判断に優れることだってあるんですよ」
それはまるで自分が猫になって実際に体験したかのような言い方だった。
美咲は足元にいる子猫を優しく抱き上げる。
「ミー君もあまり嫌がっていなかったみたいですし」
「その危機察知とやらに俺が引っかからなかったから、何もしないと判断しただと?」
「まあ、一言で言えばそうですね」
「はっ、バカバカしい」
美咲の理由をリョウは鼻で笑う。
「たいした能力じゃねぇか。言っておくが、俺はあのとき、そいつに対してなんのためらいも感じなかった」
「でも神谷君は何もしなかったじゃないですか」
「結果論だな。俺の意思一つでそいつを始末できたことに変わりはない」
「なら、なんで神谷君はそれをしなかったんですか?」
リョウには、その問いに答えることができなかった。
明確な理由がなかったからだ。
もし美咲が自分の思惑どおり取り乱し、慌てふためいていれば、今頃はこんな風に悠長に話なんてしていられなかったかもしれない。
予想外の反応にやる気が削がれたから?
それも理由の一つにはなったかもしれない。
しかしそれだけではない。
直前に見た、美咲の笑顔が脳裏に浮かぶ。
その顔を見たときに自分の中の気持ちがわずかながらに緩んだような気がした。
だが、リョウはそれを認めない。
自分という『我』がそんなものの影響を受けることなどありえないと思っているからだ。
「ただの……気まぐれだ」
苦し紛れに出た答え。
「ふふっ、そうですか」
美咲はそれを馬鹿にすることもなく、暖かさを感じさせる笑みのまま聞き入れた。
しかしすぐに態度を改める。
「やっぱり、私の説は有力だったみたいですね!」
勝ち誇ったように美咲は宣言した。
「ふざけるな、俺はっ……」
「あるところに一人の女の子がいました」
「……?」
何かを語るように美咲は唐突に話を始めた。
今までの落ち着いてはいたが、まだ子供らしさの残っていた口調ではない。
それはまるで子供に絵本を読み聞かせる母のように澄んだものだった。
「その女の子は優しい両親のもとに生まれ、何不自由することなく、それはもう大切に大切に育てられました────」
箱入り娘。
『津山 美咲』という人間には、まさしくその言葉がピッタリだった。
裕福な家庭、優しい両親。
そんな家に一人娘として生まれた彼女は、両親の愛情を余すことなく受け、いつもどんなときでも両親に守られながら笑い続けていた。
それはまさしく、温室で育てられた花のように……
しかし、いつまでもずっと両親と一緒というわけにはいられない。
成長して義務教育が始まれば、学校に通うようになる。
それは子供が子供ながらに一歩大人に近づいたのだと実感できる瞬間だ。
ここから、彼女の世界は広がっていく。
両親に心配はなかった。
頭も良い、礼儀も正しい、そしてなんといっても愛らしい。
容姿端麗、品行方正とはまさに我が娘のことだと、胸を張って娘を外の世界へと送り出す。
だが、当の本人には不安しかなかった。
知らない世界に羽ばたくことに、ワクワクやドキドキという期待に満ちたものはない。
そんな彼女が明るい未来を想像することなど、できるわけもなかった。
彼女は常に守られていた。
すぐ近くには、いつも優しい父と母の姿。
だが、それが結果的に彼女の成長を妨げる結果となる。
守られることに慣れてしまった彼女の心は、成長していく身体とは逆に徐々にか細くなっていた。
いつもは二人、ないし三人でいた彼女。
しかし今は一人。
誰知らぬ大勢の中で一人ぼっち。
すぐ近くに守ってくれる両親のいない彼女は、いつも何かに脅えていた。
いつ来るかわからない危険に、いつ襲われるかわからない脅威に……
見えない何かに、ビクビクと震えていた。
すべては裏目に出る。
温室の世界、常に絶対安全の領域の中でしか生きてこなかった彼女は、まわりの子供より勉強はできても外の世界を知らなさすぎた。
そのせいで、事あるごとに不安と恐怖を覚えた。
知らない人と話すのが怖い。
これでは、人の輪に混ざることも友達をつくることもできない。
怪我をするのが怖い。
これでは、外で遊ぶこともできず、友達と中を深めることもできない。
自分が精神的、肉体的に傷つくことを極端に恐れ、他人を信じることができないという一種の人間不信。
そんな気持ちが空回りし、一時は自分の身を守るために習い事の延長として武道を学ぶなんてこともした。
いつも必要以上に何かに脅えていた彼女は、周りの目には異端の人間として映り、いつしか彼女は誰からも話しかけられず、気味の悪い女として、いじめの対象となる。
それは彼女にとって、つらい日々だった。
ずっと家にいた方がマシだといつも思っていた。
しかし、彼女は一度も学校に行きたくないとは言わなかった。
理由は一つ、両親の悲しむ顔を見たくなかったから……
自分が学校に通うとなったとき、両親はとても嬉しそうだった。
娘の成長を自分のことのように喜んだ。
お前は自慢の娘だと、そう言っていつも見送ってくれた。
悲しむ顔を両親に見せまいと、いつも二人の前では笑い続けていた。
彼女は両親の笑顔と引き換えに、自分の気持ちを『押し殺す』ということを身に着けた。
同じことを繰り返しているうちにさすがの彼女も次第に学んでいく。
これは危険なことではない、これは安全なものだと。
常に危険と恐怖を感じているからこそ、自分の中でそれがどの程度自分に危害を及ぼすものなのかを判断する力が自然と磨かれていた。
そうして日常的に感じていた恐怖を克服することで、彼女は徐々に周りとの距離感を埋めていくことに成功する。
だが、一度生まれてしまった溝はそう簡単には埋まらない。
彼女が輪の中になじめぬ日々はいつまでも続いた。
なぜだろうか?
子供ながらに考える力を持っていた彼女は、理由を模索する。
いくら考えても自分の中に答えはない。
だが、すでに彼女は学んでいた。
ならば外に目を向ければいいと……
見本になりそうなクラスメイトの目星はあった。
運動神経抜群で頼りがいのある、いつも輪の中心にいた男子。
勉強もできて愛想もいい、男子からの人気もあった女子。
しかし、彼女の目についたのは、たまたま席替えで隣になった女子だった。
その子は決して目立つ存在ではなかった。
こうして近くの席にならなければ、その子の事を知る機会などなかったかもしれない。
その子は勉強が苦手だった、運動も苦手だった。
だが、そんな彼女にも友達は多くいた。
それを見ていつも疑問に思う。
彼女の能力は明らかに自分よりも劣っている。
そんな彼女になぜ多くの友達がいるのかと……
彼女と自分の違い。
それは感情表現の豊富さだった。
時に笑い、時に涙し、時に怒り、彼女の顔にはいつも多種多様の表情が浮かんでいた。
自分の顔を鏡で見る。
暗い。
以前に比べればマシになったにせよ、どこか不安の滲む表情。
こんなに不幸を背負ったような女に誰が好んで近づいてこようものか……
もっと小さかったころは、自分もよく笑顔を褒められていたと思い出す。
しかし、笑おうにもうまく笑うことができなかった。
どうやって自然に笑えばいいのか、彼女はそれを忘れてしまっていた。
彼女が両親の前で笑顔を作り続けられたのには、両親の悲しむ顔を見たくないという明確な理由があったからだ。
楽しくなければ笑えない、嬉しくなければ笑えない、悲しければ笑えない。
今の彼女を取り巻く世界では、彼女が笑う条件を満たすことができなかった。
そんな彼女が苦し紛れにとった手段。
それは……
条件を満たすことができないのならば、無理やりにでも条件を満たしてしまえばいい、ということだった。
楽しくない……楽しい。
嬉しくない……嬉しい。
悲しい……悲しくない。
自分がマイナスに感じる感情をすべてプラスに変換させる。
もはや自己暗示に近い行為。
しかし、それが功を成したのか彼女の顔には日に日に笑顔が戻っていった。
彼女を取り巻く雰囲気が変われば、まわりの対応もそれに応じて変わっていく。
いつの間にか彼女はいじめに遭うこともなくなり、クラスの一員として受け入れられるにまで至った。
だが、そんな彼女の顔には、いつも偽りの笑みが浮かんでいた。
算数の計算とは違い、こと人間に関しては、プラスをマイナスにすることとマイナスをプラスにすることは、決してイコールで結ばれることはない。
払った代償は彼女の想像以上に大きかった。
彼女が笑顔を作るための作業。
これは変換するマイナスがそのままプラスになるわけではない。
マイナスから生まれるプラスなど、ほぼゼロに等しかった。
プラスによって受ける恩恵など、毛ほどもない。
ただ、マイナスをマイナスでないものとして『押し殺す』作業だけが、延々と続いていく。
他人と接すれば接するほどにその作業量は増えていく一方だった。
どんなものでも、負荷がかかり過ぎればいずれは壊れてしまう。
そこで彼女は、人との距離を測るために自分の中にものさしを作った。
そうすることによって常に作業の量を一定の範囲に収めようという無意識の行動だった。
同じような日々が何年も続く。
人ととの距離を一定に保ちながら、不快な感情をすべて押し殺し、剥がれ落ちることのない笑顔という名の仮面を張りつける。
機械のように淡々と行われる作業。
そのおかげで、人間関係に支障をきたすようなことはなくなった。
しかし彼女の心にはいつもぽっかりと穴が空いていた。
そんなある日のこと。
義務教育を終えてからの進路。
彼女も周りに流されるようにして進学を選んだ。
通学に無理のない範囲では、それなりに偏差値の高い学校。
まだ一人暮らしなど考えられない彼女は、その学校に進学した。
また新たな世界に踏み出す。
誰知らぬ世界の中に一人で放り込まれる。
もう以前のようにおびえることはない、しかし期待もない。
自分を偽り、過ごす日常は安泰ではあるがひどく退屈なものだから。
大丈夫、何も不安になることはないのだと自分に言い聞かせる。
明日からも今までどおりにやればいいのだ。
今までどおりに自分を『押し殺し』続けてさえいれば……
こんなことを私は死ぬまで続けていかなければならないのだろうか?
ふと、彼女は疑問に思った。
私はいつになったら本当の自分でいられるのだろうか?
一つ疑問が浮かぶたびに、また新たな疑問が湧き出てくる。
でも本当の自分って何?
私は何が好きなの?
何が楽しくて、何がつまらないの?
こうして自然と読んでいる本は、本当におもしろいと思って読んでいるのだろうか?
これも自分を偽るための作業なのではないか?
……私は本当に生きている意味があるのだろうか?
次から次へと出てくる疑問。
疑問が出るたびに心の中では不安が募っていく。
あれほど時間を弄して押しとどめてきたモノがこんなにもあっけなく漏れ出してくる。
自分の表情がぐしゃりと崩れていくのを感じ、いつもの作業が開始された。
大丈夫。
今までだってそうやってやってきた。
その日常は本当につらかったか?
自問自答する。
つらくはない……
なら大丈夫。
悲しかったか?
悲しくはない……
なら大丈夫。
ほら、何も不安になることなんてない。
大……丈…………
『────大丈夫なわけ……ないっ!!』
限界を自分に訴えかける。
しかし、彼女の意思とは裏腹に心は感情を『押し殺し』続ける。
息をするのと同じように、もうあたりまえになってしまった作業。
それでも彼女の感情は湯水のごとく溢れ出る。
入学式を直前に控えた前夜、彼女はベッドの中で声を殺して泣き続けたのだった────




