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俺の居場所 (前)

『……だれ?』

 それが少年が最初に発した言葉だった。

 数回のノックの後に開かれた真っ白な扉。

 その先に立っていたのは少年のよく知る、これまた真っ白な服を着た、いつものナースの姿ではなかった。


『こんにちは、涼君』

『こんにちは、いきなりで驚かせちゃったかな』

 病室に入ってきた二人の男女の大人は、ベッドに座る少年のもとに歩いてくるなり、にこやかな笑顔を作りながらそう言った。

 そして近くの丸椅子に腰をかけ、少年と目線の高さを合わせる。


 見知らぬ人物の来訪に『涼』と呼ばれた少年は戸惑いの様相を見せた。

 まるで記憶にない二人の大人。

 それもそのはずだ。

 ここに入院するまで、少年は一歩も家から出た覚えもなければ、その家で一人の男と過ごしていた記憶しかないのだから……

 だが、戸惑う少年とは逆に二人の大人たちは少年のことを知っている様子だった。


『おじさんたち、だれ?』

『はっはっは、覚えていないのも無理ないね。涼がおじさんと会ったのは生まれたばかりのときだったから。おじさんはね、涼の…………』

 自分の身柄を明かそうとした男は、一瞬言葉をよどませる。

 それはなぜか?

 それは、男が涼との関係を明かすうえで、ある人物のことを口に出さなければならなかったからだ。

 その人物は、涼がこの病院に入院する原因となった人間。

 このままでは話が進まないと、意を決したように男は再び口を動かした。


『おじさんはね、涼の…………涼のお父さんの弟なんだ。それでこっちがおじさんのお嫁さん……つまり僕たちは、涼の親戚の叔父さんと叔母さんだよ』

 叔父を名乗る男はゆっくりと、そして丁寧に自分たちの立場を説明する。

 しかし、涼は叔父の話をよく理解できているのかいないのか、終始目をキョトンとさせていた。

 まだ年端もいかぬ子供では、親戚の意味を理解するのも難しいかと二人が思っていたとき……


『おとうさんって、だれ?』


 突如、涼の発した疑問に二人の大人は顔を見合わせ、曇らせた。

『……お父さんはお父さんだよ。涼のパパのことだ』

『じゃあ、リョウって何?』

『あなたの名前のことよ』

 次々と出てくる涼の疑問をどこか不審がりながらも今度は叔母の方が答える。

『そうなんだ。はじめてよばれた』

 涼の何気ない発言を受け、二人は心中で驚愕した。

 二人は、涼が今までどのような境遇にいたのかを話に聞いて知ってはいたが、今日ここを訪れて初めて、自分たちの想像がいかに浅はかだったのかを思い知らされた。


 ベッドに座る一人の小さな少年の身体。

 その右手には、こんな幼子の腕には不釣り合いなギブスが痛々しそうに巻かれていた。

 また顔や腕など、肌の露出している部分にも傷や痣がいくつも見られる。

 その痕跡から服の下にも同じような傷跡が無数にあるであろうことも想像に容易い。

 そしてその姿が、いかに目の前の少年が非日常的であり、異常なほど苦痛の日々を送ってきたのかをこれでもかと表していた。


『いきなりこんなことを言われたら驚くかもしれないけど、叔父さんたちと一緒に暮らさないかい?』

 突然の叔父の誘いに涼は困惑し、小さく首を捻った。

 なぜ自分がそんな誘いを受けているのか、今の涼は理解していないのだ。

 そこで叔父は涼に涼の現状を教えた。


 涼の両親が今は遠いところにおり、涼を迎えに来ることができないこと。

 今の涼には帰る家がなく、このまま退院しても施設に入れられてしまうこと。

 できるだけ簡潔で理解しやすいように、叔父は涼に説明をする。

 話のすべてが真実ではないが、嘘でもない。

 すべてを包み隠さず話すことなど、叔父にはできるはずもなかった。

 おそらくは涼にとって、地獄のような日々であったことを再び思い出させることなど…………

 幼すぎるその器。

 すべてを語るのは、涼がもっと成長してからだと叔父たちは心に決めていた。


『それで、涼はどっちがいい? 叔父さんたちと暮らすのと涼と同い年くらいの子たちと暮らすの?』

 以上の話を踏まえたうえで叔父は再び涼に問う。

 ただ聞くことに徹していた涼は、なんと答えればよいのかわからないようにずっと俯いていた。


『別に今すぐに決める必要はないのよ。これから涼君がどうしたいのか……ゆっくりと考えてくれていいから』

 涼の左手にそっと手を添えながら、叔母は語りかける。

 自分の体が他人に触れられたことに涼は一瞬体を強張らせるも、それを拒むことはしなかった。

 そして何かを考えるように窓の向こうに広がる青空に目を向けた。


『そうだね、別に焦る必要はない。ごめんよ、涼を困らせるつもりはなかったんだ。今日はそろそろ帰るけど、明日も来るから、そのときはもっと楽しいお話をしようか』

『じゃあ、またね。涼君』

 外を眺め続ける涼の後頭部に声をかけ、二人は立ち上がる。

 それとほぼ同時に涼は二人の顔を見上げるようにふり返った。

『どうしたの?』

 叔母の問いかけに涼は……


『いっしょに行く』


 と、そう返答をした────




「────神谷君。起きてください、神谷君!」

「…………う……ん、なんだ……?」

 名前を呼ばれる声でリョウは目を覚ました。

 まだ重い瞼を上げ、首を90°右に回転させると目の前には二人の女子の姿がある。

 視線を上に移動させ、顔を確認すると、それは美咲と茜のいつものコンビだった。

「いつまで寝ぼけてるのよ。もう二限目の授業も終わっちゃったわよ」

 それを聞いたリョウが黒板の上に取りつけられた時計を見やると、確かに数分前に授業は終わっていた。

 そこから、自分が約三十分ほど居眠りをしていたのだと逆算する。


 今日は早朝から雨が降り出していた。

 まだ雨がやんでいないことは、いまだに聞こえる窓を打つ雨粒の音からもわかる。

「なんの用だ?」

 眠気の混じった声でリョウは二人に尋ねた。

 寝起きだからなのか、いささかリョウの機嫌が悪そうなことをその雰囲気から二人は感じていた。


「あんた今日の日直でしょ? 次の化学の授業は実験なんだから、早いとこ先生のところに行って準備しないと間に合わないわよ」

「ああ? 日直だと?」

「そうよ。ちゃんと書いてあるでしょ」

 茜の指さした先、黒板のすみには今日の日直であるリョウと美咲の名前が書かれていた。

「今日のあんたは日直なの。授業の準備も日直の仕事」

 このクラスの日直は当番制であり、男女別で出席番号順に回している。

 それが巡りに巡って、リョウと美咲に回ってきたというわけだ。


「プリントだけなら私一人でも平気なんですけど」

「実験は器具も運ばなきゃならないから美咲一人じゃ間に合わないわ。美咲にばかり働かせてないで、あんたも手伝いなさい」

「そんなの知ったことか。なんで俺がそんな面倒なことしなけりゃならねぇ」

 不満げな声を出し、リョウは日直の仕事を拒む。

「それが学校のルールなの。みんなやってることよ。子供みたいなこと言ってるんじゃないの」

 よく言えば素直ということなのだろうが、不平不満をすぐに顔や口に出し、我がままだらけな様子だけを見ればそう言われることも致し方がない。

 しかし、その発言はリョウにとってタブーなのだということを茜はうっかり失念していた。


「誰がガキだ」

 二人の悪い予感は当たり、リョウは子供という単語に噛みついてくる。

 茜も引くに引けなくなってしまい、仕方なく応戦することにした。

「そういうところがお子ちゃまだってのよ」

「なんだと!」

 声を荒げ、立ち上がるリョウの姿に教室中の視線が集まる。


「珍しいな、神谷と西崎が喧嘩してるぞ」

「そういえば神谷君って最近ちょっと性格変わったよね」


 その様子を見てリョウの頭も冷えたのか、バツが悪そうに頭をかいた。

「……チッ、何を運べやいいんだよ?」

 まだ不満を残しつつも、リョウは日直の仕事をこなすことを選んだ。


 リョウにとって、この教室内の人間を黙らせることは簡単だ。

 何か一言威嚇してやれば、皆は静まりかえる。

 だが、厄介なことに目の前に立つ『西崎 茜』には効果がない。

 リョウが手を出すことができないのを知っているかのように気安くリョウに迫ってくる。

 いや、たとえリョウになんの縛りがなくとも、茜はお構いなしに来るだろう。

 それほど茜の度胸は据わっていた。

 ある意味リョウにとっての一番の天敵になるのかもしれない。

 しかし慣れない集団生活、なかなか思いどおりにいかない日常生活に順応しきれずとも、リョウも自分のやり方を変えるつもりはないようだった。


 教室から移動する間際、リョウは小さく振り向き、窓の外を確認する。

 そしてまだ降りやまぬ雨を見て、小さく舌打ちをした。

「何か言いましたか?」

「なんでもねぇよ」


 それからリョウと美咲は職員室で教師から次の授業の指示を受けた。

 二人が頼まれたのは、プリントと実験器具を実験室まで運ぶこと。

 何十枚も積まれたプリントの山に両腕を広げなければ持てないほど大きい段ボールに入れられた器具。

 予想どおり、美咲一人でこれらを運ぶのは大変な作業になっていただろう。

 しかし、今は二人。

 リョウも望まれている役割を理解しているのだろうか、表情はともかく、文句を口に出すことはせずに黙って段ボールの方を持った。


 重い荷物を抱えながら実験室を目指し、二人並んで廊下を歩く。

「あ、美咲ちゃーん! やっほー」

 向かいから歩いてきた女子生徒に声をかけられ、美咲は足を止める。

 リョウも一歩離れたところで、つられたように足を止めた。


「こんにちは」

 柔らかな微笑みを浮かべながら美咲も挨拶を返す。

「重そうなモノ持ってるねー。手伝おうか?」

「ありがとうございます。でもこれくらい私一人で平気ですよ。そういえば次のそちらの授業は体育じゃないんですか?」

「やばっ、着替えるの忘れてたよ! あたし急ぐから、またね」

「はい、転ばないように気をつけてくださいね」

「お気遣い感謝!」

 礼を言い残して、女子生徒は嵐のように去っていった。


 教室では茜と行動を共にしていることが多い美咲だが、こうして廊下を歩いていると他クラスの生徒とすれ違うたびに話しかけられ、二~三ほど言葉を交わす。

 普段の美咲は、基本的におしとやかであり人当たりはかなり良いほうだ。

 それを裏付けるかのように、美咲は話しかけてきた全員に平等にいつもの微笑みを向ける。

 好意的に接してくる人間が多いのも男子からの人気があるのも、うなずけるというものだった。


「くく……」

 突然、一歩引いた所で静観に徹していたリョウが、こらえきれぬように笑いをもらした。

「どうかしましたか?」

 まるで何かを滑稽に思っているような笑い方のリョウに美咲は尋ねた。

「いやなに、すれ違うたびに話しかけられて、人気者は大変だなぁと思ってよ」

「人気者なんて、大げさですよ」

 思わぬリョウの言葉。

 褒め言葉ととっていいのか、それとも冗談ととっていいのかもわからぬ言葉に美咲は苦笑いを交えて返す。


「疲れんだろ?」

「いいえ。皆さんと話すのはとっても楽し……」




「そうやって薄っぺらい笑顔を張りつけ続けるのは」




 それを聞いた美咲は驚いたように目を丸くさせた。

 声が固まり、顔から笑みが消え失せる。

 しかし、それもつかの間の出来事。

 美咲の顔にはすぐにいつもの微笑みが浮かんだ。

「ごめんなさい、私には神谷君がどういう意味で言ったのかわかりません。それより急ぎましょう、授業が始まっちゃいますよ」

 そう言って、美咲はリョウの前を歩き出した。

「……くく、こいつはおもしろいものを見つけたな」

 美咲のわずかな動揺を見逃さなかったリョウは、意地の悪い笑みを浮かべながら最後にそうつぶやいた────




「美咲、お昼一緒に食べましょ」

 午前の授業科目が終わって昼休み。

 茜は弁当箱を片手に美咲を昼食に誘っていた。

「美咲?」

「…………」

 しかし、美咲は何やら正面を向いたまま考えごとをしている様子で、茜の存在に気づかない。


「美咲さん!」

「ひゃっ!!」

 不意を突かれたように耳元で叫ばれた美咲はビックリするあまり、驚きの声を上げた。

「もう、急に脅かさないでください」

「何度も声かけたでしょ。それより、何か悩み事?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけれど……」

 今一つハッキリとしない美咲の返答。

 あまり人の事情に踏み込むのも野暮なことだと思ったが、茜は美咲の様子の変化について思い当たる節を考え始めた。


 まずは今朝。

 登校してきた時点で、おかしな点はなかった。

 となれば、ここ数時間の出来事になるのだろうか?

 そう考えると即座に茜の脳裏に浮かんできたのは一人の人物像。

「まさか、あのバカに変なこと言われたんじゃないでしょうね?」

 言ってから茜は、そのバカとやらに目線を向けた。

 その人物は、もちろん恭太郎……ではなく、リョウだった。


 茜にバカと揶揄されたリョウは、そんなことにも気づく由もなく、自分の席からすぐ横にある窓の外を恨めしそうな表情で眺めていた。

 休み時間になるとフラフラと一人教室を出ていくことが多いリョウだが、今日は珍しくずっと教室にいる。

 リョウがいつもどこへ行くのか知っている茜は、その理由も察していた。

 それは、雨が降っているからだ。

 リョウがいつも足を向ける場所は、ほとんど決まって誰もいない屋上であった。

 しかし、さすがのリョウも雨の降る屋上に行くほどもの好きではないらしい。


「ち、違います。本当に大したことじゃありませんから、気にしないでください」

「それならいいけど……もしあいつに変なこと言われたら私に言いなさいよ。とっちめてやるから」

「は、はあ……」

「じゃあ話を戻すけど、お昼一緒に食べましょうよ」

「はい、よろこんで」

 美咲はいつものように微笑みを浮かべて答え、それを見た茜も安心感を取り戻した────




 リョウが表で過ごすことになって二日。

 初日は、リョウも目立つ行動をしてしまったがために周囲からの視線や声を集めていたが、こうして大人しくしていれば静かなものであった。

 それでもリョウがクラスの人間と打ち解けるのには、どれほどの時間と労力を必要とするのか想像もつかないが……

 しかし不思議と積極的にリョウに絡んでくる者もいる。


「涼!」

「…………」

 うるさい奴が来た。

 そう思いながら、リョウは無言で顔を向ける。

「お前に勝負を申し込むぜ。今日こそ俺はお前に勝つ!!」

 それは、おそらく涼にとって一番の親友に当たるであろう恭太郎だった。


 このときリョウは思う。

 なぜこいつは懲りずに俺に絡んでくるのだろうか、と。

 昨日は妙にビビッていたくせに今日は昨日のことなど忘れたように馴れ馴れしい。

 まるで、涼が表に出ていたときと変わらぬ態度だ。


 このクラスにいる誰しもが『神谷 涼』の変化に多少なりとも気づいていた。

 それを警戒しているのか、はたまた恐れているのか、必要以上にリョウに絡んでくる人間は、それこそ人格が入れ変わっているという真実を知っている『西崎 茜』くらいのものだった。

 目の前の男は、その変化に気づいていないほどに阿呆なのか、それともわかっているうえでそうしているのか……ふと、リョウは疑問を抱く。

 しかし、それも所詮は他人のこと。

 今まで見てきた恭太郎のイメージから何も考えていないだけなのだろうと、リョウは結論づけた。

 そんなことよりもリョウが興味をもったのは恭太郎が申し込んできた勝負の方だ。

 勝負と聞くと不思議と体が疼く。

 それもまた、リョウの人となりを表しているのかもしれない。


「ああ、いいぜ」

「よっしゃ、今日こそギャフンと言わせてやるぜ」

 そしてリョウは椅子から立ち上がり、恭太郎は近くの椅子に腰を落とす。

「おい、なに座ってやがる?」

「涼こそ、なんで立ち上がってんだよ?」

 どうやら二人の見解に相違があるようだ。


「喧嘩ふっかけてきたのはテメェの方だろうが、俺を馬鹿にしてんのか?」

「何言ってんだよ。俺たちの勝負っていったらこれに決まってんだろ」

 恭太郎は半分に折りたたまれた盤と小箱に入った駒を机の上に置いた。

 それを見て、リョウも自分の勘違いを含め、すべてを理解する。


 涼と恭太郎。

 この二人の勝負と言えば、ボードゲームが常であった。

 そして、恭太郎は涼に一度も勝ったことがない。

 今の恭太郎の意気込みもそこから来ていたのだ。


 毒気を抜かれたようにリョウは再び腰を下ろす。

「じゃあ、始めようぜ」

「待て、誰がこんなおもちゃで遊ぶって言ったよ」

「今さら俺に負けるのが怖くなったのか?」

「……誰が、誰に負けるのが怖いだと?」

 恭太郎の煽りを受けたリョウが、睨みを利かせる。

「フッフッフ、ビビらせようったってそうはいかないぜ。ってか、よく考えたらなんで俺が親友の涼相手にビビる必要があるんだって話だ」

「…………」


 恭太郎のリョウに対する態度の変化は、何も考えていなかったのではなく、考えることをやめたと言った方が正しかったようだ。

 性格が変化しようが、恭太郎にとって神谷涼という人間が、自分の親友であることに変わりはない。

 だからこそ、いちいち物怖じすることをやめたのだ。

 リョウにとっては好ましくないことのようだが、茜に続き恭太郎までもが、リョウと対等に接することのできる立場になっていた。


「で、どうするんだよ。俺の勝負を受けてくれるのか?」

「……まあ、いいだろ。丁度暇を持て余してたからな」

 リョウも恭太郎の勝負を承諾する。

 今回、恭太郎が用意したものは将棋だった。

 幸いにも、将棋やチェスなどの類のゲームについては。駒の配置や動きなど、涼がやっているのを何度も見たことがあったので自然と覚えてしまっていた。


「あ、将棋を指されるんですか?」

「相変わらず飽きないわねー」

 リョウたちの様子に気づき、美咲と茜、二人のギャラリーが現れる。

「お前らもよく見とけよ、俺が涼に勝つ瞬間をな!」

「菅君いつもそれ言ってますよね」

「でも、もしかしたら今日は本当に勝てるかもしれないわよ」

 茜は意地の悪い笑みを浮かべ、リョウの方を見た。

「ふん、ごちゃごちゃとうるせぇンだよ。とっとと始めろ」

 二人とも駒を並び終え、準備は万全だ。

「じゃあ、いつもどおり先行は俺からな」

「好きにしろ」

 そしてリョウにとっては珍しい、平和的な勝負が始まった。


 将棋というゲームは、一言で言えば相手の王将を取れば勝ちとなる。

 しかし単純そうに見えて奥は深い。

 交互に駒を動かし、相手の陣地に攻め込んでいく。

 二人とも自分の流れができているかのように迷うことなく次々と駒を指していった。


「なんか久しぶりね、こうやって昼休みを過ごすのって」

「そうですね、最近は色々と忙しかったですから」

 ほんの数か月前までは毎日のように見ていた光景だったが、いざなくなってみるとどこか物足りなさを感じさせる。

 日常の何気ない繰り返しも、当人たちにとっては思い入れ深いものになっていくようだ。


 茜たちが懐かしさを感じているあいだにもリョウと恭太郎の対局は進んでいく。

 いつもなら恭太郎が「待った」をかけ始める頃合いだが、今日に限ってそれはない。

 それは二人の戦況が、ほぼ互角だったからだ。


 涼に比べれば恭太郎の腕前は数段劣る。

 しかし、それは恭太郎が弱すぎるのではなく、涼が強すぎるからだ。

 恭太郎もすでに初心者のレベルは脱していた。

 その恭太郎と互角に渡り合っているということは、対峙しているリョウも決して弱くはない。

 弱くはないのだが……

 その打ち筋は、本人の性格がそのまま表れたようなものだった。

 王さえ生きていれば……負けなければいいという、守ることを放棄した捨て身の特攻戦法。

 対する恭太郎も恭太郎で、勝つという意気込みが裏返り、攻めを焦り過ぎている。

 結果、この一局はどちらも引くことを知らない泥仕合と化していた。


 対局も終盤を迎えたところで、初めてリョウの手が止まった。

 一歩手を間違えれば、一気に詰まれる重要な局面に悩むことを余儀なくされたのだ。

 守りをおろそかにしていたツケが、ここで一気に押し寄せてきた。

 全員が食い入るように盤面を見る。

 自分ならばここからどうやって巻き返すか、それぞれが次の手を考えていた。

 ちなみにずっと静観に徹していた涼には、考える余地もない一手が見えていたが、要所要所のセオリーを理解していないリョウには難問のようだった。

 涼も答えを教えるような野暮な真似はしない。


「…………」

 リョウが長考を始めてから約二分。

 場は静寂に包まれていたが、ここで意外な人物が意外な方法で沈黙を破った。




「私だったら、ここで7の三に銀を……」




「げっ! やめろ津山、それ以上言うな!!」

「あ……ごめんなさい。つい、口が滑っちゃいました」

 なんと美咲が、最善手を口走ってしまったのだ。


「あらら、これは恭太郎の負け確定ね」

 この手に気づいてさえしまえば、リョウが形勢逆転したも同然。

 しかし、当のリョウはというとなんとも言い難い微妙な顔をしていた。

 素直に喜べるはずもない。

 他人の力を借りた勝利など、リョウにとっては無意味に等しいのだ。


 美咲の言うとおりに銀を指せば、リョウの勝利がほぼ確定する。

 しかしリョウは動かない。

 躍起になって解いていたクイズの答えを先に教えられるほど、しらけることはない。


 そして終わりのときが来た。

 勝敗が決することなく、校内に鳴り響くチャイムの音により、対局に終止符が打たれる。

「あら、もうこんな時間だったの」

「ちぇー、今日はここまでか。涼、今日の勝負はノーカンな」

「すみません神谷君。私が変に口を滑らせてしまったばっかりに」

 リョウに向かって謝る美咲。

 しかしリョウは美咲を一瞥することもなく立ち上がり、教室の出入り口へと向かう。


「ちょっとどこ行くの? この後すぐに授業あるわよ。っていうかあんた日直……」

「いいですよ茜ちゃん。次は私一人でも事足りますから」

「美咲がそう言うならいいけど……それより、さっき口走ったのってワザとでしょ?」

「……やっぱり茜ちゃんには、バレちゃいましたか」

「正直どうでもいいけど、なんであんなことしたの?」

「うーん……さあ、自分でもよくわかりません」

「何よそれ」

 茜は呆れたように言い、美咲も困ったように笑っているだけだった────




 しばらくなくしていた時間を取り戻したせいか、涼を含め、あの場にいた者たちはしばしのあいだ、時間の流れを忘れていた。

 それは、一人の例外もなく……

(どう? 初めてやる将棋は楽しかった?)

「あんなもん二度とやんねぇよ」

(その割には、夢中になってたように見えたけど?)

「黙れ。そんなことで、いちいち話しかけんな」

(ふふっ)

「何笑ってんだよ?」

(ごめんごめん、なんでもないよ)

「チッ……」


 途中、リョウは足を止め、廊下に並ぶ窓の外に目を見やる。

 相変わらず弱まる気配のない雨。

 どうやら今日は、このまま雨がやむことはなさそうだった────

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