俺とお前の違い (前)
『時間』
それは、誰にも干渉することができないモノ。
何モノにも刻一刻と流れる時を進めることも、巻き戻すことも、ましてや止めることなどできはしない。
平等に流れる悠久の時の中で、すべてのモノは生きている。
そして今日も時間はその速度を変えることなく流れ続けていた。
ここは静かな様相に包まれている、とある街。
学生は学友と共に和気藹々と登校し、サラリーマンも淡々とした足取りで出社する。
主婦はわが子を園に送り届け、老人は寒さに負けじと街を闊歩する。
平日の朝のいつもどおりの風景。
カッカッカッ……と一定のリズムを刻みながら黒板を走るチョークの音。
このとある学校のとある教室でも、教師がいつもどおり教鞭を執り、黒板に問題を書き連ねながら授業を進めていた。
どこにでもあるような見慣れきってしまった風景の一つだが……
この教室内では、ほとんどの人間が、今日がいつもどおりであると思っている者はいなかった。
「ほらほら、喋ってないで授業に集中しろ」
なんていういつもどおりのやり取りが、今日に限って一切行われない。
誰一人として無駄なお喋りをする人間がいないからだ。
否、厳密に言えば話さないのではなく、話せなかった。
室内にいる者にしかわからない、圧迫されるような緊迫感に包まれた生徒たちは、緊張のあまり言葉を発することができなくなっていた。
生徒だけではなく、教師にもその緊張は伝わっているようで、どこか動きがぎこちない。
「じ、じゃあ次の問題だ。神谷、これを解いてみろ」
教師が窓際の席に座っている、一人の男子生徒を指名する。
指名された『神谷 涼』は、教師と黒板に書かれた問題をそれぞれ一瞥し、いつものように教師の期待する解答を述べ……
「ああ? そんなもん俺が知るかよ」
……ず、代わりにそうぶっきらぼうな返答をした。
「へっ?」
思いもよらぬ返答に教師が素っ頓狂な声をあげる。
『神谷 涼』といえば、学年でも常に上位の成績を誇り、教師のあいだでも優秀な生徒の一人として数えられていた。
黒板に書かれた問題は多少応用が必要とはいえ基礎問題であることには変わりない。
そんな涼の返答に対し、誰も笑うこともツッコミを入れることもしない。
今日の異様な圧迫感が、涼を中心にして醸し出されていることを皆が本能的に気づいていたからだ。
触らぬ神に祟りなしとはよく言ったもので、皆、涼に関わることをためらっていた。
だがこの場合は、どちらかと言えば、今日の涼に恐れを抱いていたという方が正しいだろう。
「先生、今日の涼はちょっと疲れてるみたいなので代わりに私が答えます」
そんな中、一人の生徒が立ち上がり冷静にそう発言をした。
「あ、ああ。じゃあ西崎、代わりに答えて」
「はい」
教師の了解を得た茜が、涼の代わりに解答を述べる。
それを聞いた教師も何事もなかったように問題の解説に移っていった。
その様子をつまらなさそうに見ていた涼は、記号と数字の並ぶ黒板には目もくれず、窓から見える曇天の空を眺めながら昨夜のことを思い出していた────
『…………いいだろう。ルールを聞こうか』
リョウの肯定の意思を確認し、涼は自らの考えたルールを説明していく。
『簡単な話だよ。しばらくのあいだ、君が表に出て僕の代わりに過ごすんだ。その期間内に君が少しでも変われば僕の勝ち。君がこのまま変わらなければ君の勝ちだ』
『俺が変われば? それはどういう意味だ』
なんとも抽象的な表現に怪訝な顔でリョウが聞き返す。
『君はさっきこう言った。「俺はもう変わることはない」って。だから君が本当に変われないかどうかを賭けよう』
『そんなことをどうやって判定する?』
『それは君の主観で構わない。君が今の考えを変えてくれる気になるのかならないのか……それが勝敗の決め手だ』
聞けば聞くほど自分の耳を疑いたくなるような内容。
『ずいぶんとお粗末だな。そんなルールじゃ、100%俺が勝つに決まってんだろ』
誰がどう考えてもリョウが有利だった。
ついついその本人がケチをつけたくなるほどに……
『そんなことはやってみなければわからないよ。でも、僕からは条件が二つある』
二つということを強調するように涼は指を二本立てて見せた。
『一つ、「君が表に出ているあいだ、無用に人を傷つけない」。二つ、「学校にはちゃんと登校して、授業を受ける」だ』
普通の学生ならば誰でも守っているようなことだが、今ここにいるのは自他ともに普通ではないと自覚している者。
そんなもう一人の自分が、どのような行動に出るか涼でさえも予想しきれないため、あらかじめルールを定めて行動を制限する必要があった。
『相変わらず優等生な条件だ。まあいいだろう、その条件を飲んでやる。ただ、一つ目の条件だが、あちらさんから来た場合は、当然それ相応の対処はさせてもらうぜ』
『……最低限、君からけしかけるような真似をしなければいいよ』
『意外だな、話がわかるじゃねぇか』
『でも、君の好きにはやらせない。もしもの場合は、状況を見て僕が判断する』
『ふん、褒めたとたんにこれか。言っておくが、抵抗しないなんて選択肢が俺の中にないことだけは覚えておけ』
『わかってるよ。僕も不必要に君を傷つけるような真似はしたくない』
だが、涼もリョウの意見を理解して取り入れるあたり、この数か月の出来事で、ある程度の心情の変化があったのかもしれない。
『期間は?』
『もうすぐ学校は冬休みに入る。だから、学校最終日の約一週間後を期限にしよう』
『決まりだな。と言いたいところだが、俺からも一つ条件を加えさせてもらうぜ』
『どんな?』
『「俺がルールを守っている以上、お前はあくまでも傍観に徹する」だ。いちいち表に出てきて俺の邪魔をされてもたまらねぇからな』
互いに互いの行動を制限させる条件の提示。
同じ『神谷 涼』という存在だけに考えの似ているところもあるのだろうか。
『わかった。その条件を認めるよ』
涼もリョウがルールを守っている以上は手出しをするつもりはなかった。
自分が極力手を出さないために涼も条件を出し、リョウを縛ったのだ。
『俺が勝ったときのことを忘れるなよ』
『それは、お互い様だ』
『わかってるさ……まあ、そんなことはありえねぇがな』
『……今夜の零時ちょうどからスタートだよ』
『ああ』
静かに佇み、その時を待つ。
ゆっくりと別々の時を刻んでいた二つの針が真上を向きながら重なり合った。
『「ゲームスタートだ────」』
それが昨夜に二人のあいだに取り決められた『賭け』の内容。
その内容を聞いたときには、リョウも初めは冗談か何かだろうと思っていた。
第一あんな穴だらけのルールでは賭けとして成り立つわけがない。
最も重要な判定方法にしても、リョウが一言「変わっていない」と言えばそれでお終いだ。
適当に一週間を過ごしていれば、何もかもが自分の思いどおりになる。
だが、涼もそれを十分理解したうえで、この賭けを提案しているのは間違いない。
しかし、ただの悪あがきで提案したとも思えぬ、あのとき感じた涼の自信。
それが慢心などではなく、確かな覚悟からきているものだとリョウ自身も理解していた。
「……チッ、いったい何をたくらんでやがる」
絶対的有利な状況にも関わらず、安心しきることのできない自分に軽い苛立ちを覚える。
それが無意識のうちに教室内の人間を威圧してしまっているという自覚は本人にはまるでないだろう────
授業が終わり、つかの間の休み時間。
「なあ、なんか今日の涼っておかしくねーか?」
不機嫌そうにリョウが一人で教室を出ていったのを見計らい、恭太郎が席に座っている美咲に話しかけた。
「確かにいつもと雰囲気が違いますよね。授業中の態度もあまり良くなかったですし……反抗期なんでしょうか?」
「もしかして、また変になっちまったんじゃねーだろうな……でも、先生に向かって堂々とあんなことが言える涼をちょっと格好いいと思った俺がいる」
「でもあれって、よく考えたら情けないことカッコつけながら言ってただけですよね。言ってることは菅君並ですよ」
「う……」
相変わらずの歯に衣着せぬ物言いで、美咲は恭太郎もろとも一刀両断にする。
恭太郎たちが教室でリョウについて話しているとき、当の本人は一人校内を徘徊していた。
まるで奇怪なものでも見るようなクラスメイトたちの視線にリョウは煩わしさを感じていたのだ。
ある程度は予想できたこととはいえ、実際に体験してみると気の良いものではなかった。
『無用に人を傷つけない』
この取り決めがなければ、一人くらい軽い怪我人が出していたかもしれないし、あのまま教室にいては、そんなルールも忘れて反射的に手が出てしまう可能性も捨てきれなかった。
かといって、自分がもう一人の涼のように振る舞うなどありえない。
ならば一人で落ち着ける場所を探すしかないと廊下を進み、階段を上っていく。
階段を上りきった先にある、申し訳程度に張られていた黄色と黒の縄を跨ぎ、扉を開いた。
扉を開けると同時に校内に冷たい風が勢いよく吹き込む。
太陽は雲に覆われ、冬の寒さをモロに感じる屋上だが、それでも教室にいるよりかはマシとフェンスの方へと歩いていく。
空を覆い隠すどんよりと重い雲を見上げながらリョウはもう一度、この『賭け』の意味を考えた。
だが、いくら考えても答えは不透明なまま。
一つ確信を持っていたのは、このままいけば一週間後には自分の目的が無事に達成されること。
リョウの勝利の確信は揺るぎのないものとなっていた。
(──ねえ、次の時間は体育だよ)
「あ?」
不意に聞こえたもう一人の声に耳を傾ける。
(いつまでもここにいたら遅れちゃうよ)
「体育だぁ……メンドくせぇ。フケるか」
(それはルール違反だよ)
「授業をサボるなんて学生にゃ当たり前のことだろうが」
(誰が授業料を払ってくれてると思ってるのさ)
「ったく、ほんとにお堅い奴だな。お前みたいなくそまじめに限って勝手に鬱になったりすんだよ。もっと心にゆとりを持てよ」
(君は図太すぎるよ。さっきの授業もちょっと冷や冷やさせられたし……)
「しかし、よくあんなつまんねぇ話を何時間も聞けるもんだぜ」
(何かを学ぶっていうのは確かに大変かもしれないけど、わかると楽しいよ)
「お前と一緒にすんな。こんなんがあと一週間も続くと思うと、今から先が思いやられるな」
(文句ばっかり言ってないで、もっと学校生活を楽しめばいいのに)
「……ふん」
ふてくされたように鼻を鳴らし、リョウは会話を途切った。
「開放されてもいないのに勝手に屋上に出るのは校則違反よ」
会話が途切れたと同時にリョウの背後から誰かが声を投げた。
(この声は……)
「はぁ、また口うるさい奴が増えやがった」
独り言をぼやきながら、リョウはめんどくさそうにふり返る。
そしてフェンスにもたれながら背後に立っていた茜を視界に捕らえた。
「……あんた、もう一人の涼の方ね」
突然の茜の発言に一瞬驚いたそぶりを見せたリョウだったが、すぐに茜と面識を持っていたことを思い出す。
「そういや、お前は俺のことを知ってるんだったな。待ち伏せの次は尾行とは、いい趣味してるじゃねぇか」
「人聞きの悪いこと言わないでもらえるかしら? 委員長として規則違反を注意しに来ただけよ」
「へーへー、そいつはご苦労なこって」
「これは、どういうこと? 私はちゃんと約束を守ったわ」
それは過去にリョウと茜のあいだに取り交わされたもの。
端的に言えば『菅恭太郎と津山美咲の安全と引き換えに茜が一時的に涼に関わらないようにする』というものだ。
これは文化祭後、涼が『怒り』の感情に取りつかれてしまったとき、精神の不安定な涼に一番影響を与えるであろう茜を接触させないようにするためにリョウが取りつけた約束だった。
「だからちゃんと戻ってきただろ?」
「でも今はあんたがいる。まさか、また涼に何かしたんじゃないでしょうね?」
「勘違いするな。これはアイツに言われてやってんだよ。俺だって今すぐにでも体を返してやりたいぐらいだ」
「………………」
リョウの言葉を受け、まるで話の真偽を確認するかのように茜は何も言わずに真っ直ぐにリョウを見据えていた。
そしてリョウも澄まし顔のまま茜から目を逸らさずにいる。
「……そう、ならいいわ。あんたたちにも色々あるんだろうし……悪かったわね、勝手に変な詮索をして」
数秒後、茜はそれ以上、内容を追求することなくリョウの話を受け入れ、逆にあっさりと身を引いた茜に対しリョウは拍子抜けしていた。
良くも悪くもリョウの予想を裏切る行動。
だが、わざわざリョウからそれを言及することはしなかった。
「はぁ……」
緊張でも解くように茜は小さく吐息を漏らす。
「あ、一つ忠告しといたげるけど、あまり学校で変なことすると後でもう一人の方が苦労するわよ」
二人のリョウの存在を知らずとも、今までの涼と今日のリョウとでは態度が違いすぎるのは、誰の目にも一目瞭然だった。
「ふん、大きなお世話だ」
だからといって、リョウには態度を改める気はさらさらなかったが……
「それじゃ、次は体育だから遅れないようにしなさいよね」
最後にそう注意を促し、茜は屋上を後にした。
(茜に話したんだ、僕たちのこと……)
一人、蚊帳の外だった涼が遅れて口を開く。
「あの女は俺とお前が別人だと気づいたからな」
今まで人格が二つあるということを生まれてから二人は誰一人にも他言することはなかった。
ひた隠しにしていたわけではないが、あえて自分から誰にも言わなかったのは、言ったところで信じてもらえないだろうという理由が大半だ。
他の理由としては、普段は涼の方が表に出ていることがほとんどであり、もう一人のリョウは滅多に人前に出ないからという理由もある。
(そういえば、さっき言ってた約束ってなんのこと?)
リョウと茜のやり取りを知らない涼は途中気になったことを尋ねた。
「思い出すのもくだらねぇことだよ」
吐き捨てるようにリョウは答える。
話したくないのか、話すのをめんどくさがっているのか、どちらにせよこういう態度のときのリョウから話を聞き出すのは簡単ではないということを涼は知っていた。
茜とのやり取りからも、その約束とやらは終わってしまっている様子であり、特に何かが変わったわけでもなかったので、涼はその過去よりも今の時間を優先することにした。
(じゃあ、そろそろ行こうか。このままだと本当に遅れちゃうよ)
「はいはい、行きゃいいんだろ」
小言を聞かされることにウンザリしながら、しぶしぶ次の授業の準備しに教室へと戻る。
目的のためとはいえ、この勝負を承諾したことを少しだけ後悔している自分がいることに気づいたリョウだった────




