君と僕の真実 (後中)
────それは、まだ幼き日のこと。
なぜ自分だけがあんな目に遭わなければならないのかもわからずに、あの男から毎日、毎日、繰り返し与えられる暴力と憎しみ。
体に刻まれていく痛み……
それには、まだなんとか耐えることができた。
一度眠りについてしまえば、時間と共に消えていったからだ。
だが、俺の中に刻まれた痛みは違う。
それは、あの男が居続ける限り、一向に消えることはなかった。
時間と共に俺の精神は摩耗していき、壊れる直前にまで追い詰めれられていた。
しかしあるとき、俺は自分の中にお前というもう一人の存在がいることを知った。
もとからいたのか、後から生まれたのか、今となっては俺にもわからない。
だが、俺にとってお前の存在が唯一の救いとなった。
その日から俺は自分を守るため、あの男から与えられる苦痛のすべてをお前に押しつけた。
感謝してるぜ、そのおかげで俺はなんとか自我を保つことができたんだからな。
だが、それも一時的な逃避にしか過ぎなかった。
俺もお前も、所詮は何もできないただの子供。
いくら耐えることはできても、限度がある。
俺たちの身体と心の限界もすぐそこまで来ていた。
だから俺は……
あんな生活は、もう御免だ。
あのまま、何もできずにくたばるくらいなら……
そう思って、行動を起こした──────
『オラァ、もう一発いくぜっ!! ひゃーはっはっはっははぁ────!!』
『……………………』
(代われ……)
恐怖は感じなかった。
痛みも感じなかった。
ただ、奴の一撃を死にもの狂いで防ぎ、逆に近くにあったビンを奴に投げつけてやった。
『──ぐあああっ!!』
今、思い出してもいい鳴き声だったぜ。
これであの男から解放されると思ったら、自然と笑いが込み上げてきた。
ガラスに映った自分の顔を見たときはなんとも思わなかったが、あれは狂気に歪んだ人間の顔。
とっくに壊れちまっていたのさ、あの男も……俺も……な。
そして俺は……
『…………くく……さようなら────』
あの男に別れの一撃をぶち込んでやった。
俺は意識を失った奴から逃げるように家を飛び出し、真夜中の冬の寒さに凍えることも忘れ、ただ一心不乱に走り続けた。
結局、行くあてもなく、街中をさまよっていたところを警察に補導されたがな。
だが、そのおかげで俺たちの家の内情が明らかになり、今の親戚の家に引き取られることになったんだ。
「これが、ことのあらましさ」
「ここまでは、よくわかったよ。でもなんで、君は僕に体を渡す必要があったんだ……?」
「時間が必要だったんだ……あの男から離れられたことによって、俺はあの男から解放されたつもりだった」
「だった?」
「ああ。だがそれは、違った」
それは俺が引き取られ、園に通わされるようになってから、しばらく経ったある日のこと。
俺と他の奴らとのあいだで揉め事が起こった。
傍から見れば子供同士のたわいもない喧嘩だ。
きっかけなんてものは、もう忘れちまったな。
けど、三人だったか、そいつらを…………
血祭りに上げてやったことだけは、今でもよーく覚えてるぜ。
それを実行することに俺はなんのためらいも感じなかった。
いや、むしろアイツらの泣き叫ぶ顔を見て愉しんでいたかもしれねぇな。
周りの大人どもは事情がよく呑み込めなかったらしく、当時の俺がやったなんて考えもしなかったんだろう。
俺は大したお咎めも受けることはなく、三人の怪我は、ただの事故として処理された。
「……………………」
「けどな、俺はそのときに気づいちまったのさ。不快な感情をすべて他人にぶつけ、自分の思うままに暴力をふるい、精神を保つ。俺も……俺が最も憎んでいたあの男と同じだってことになぁ!」
俺の前から姿を消しても、奴が俺に刻んだ呪いは消えることはなかった。
しかし、当時の俺には、どうすればいいのかなんてわかるはずもなかった。
ただ一つわかったのは、このまま俺が俺として生きていても、いずれはあの男と同じ道を辿るであろうことだけ……
俺にはそれが許せなかった。
俺はあんな奴と同じになりたくはない。
やっと奴から離れられたってのにそんなクソみたいな人生、真っ平御免だからな。
だから考えた、どうすれば奴から逃れられるのかを……
ならば、いっそのことすべてを忘れてしまえばいい。
それが当時の俺が行き着いた結論だった。
あの男に与えられた痛みを眠ることによって忘れていたように……
今回も同じだと思った。
また眠りについて、あの男と俺の繋がりを、憎しみを……全部忘れちまえばいいってな。
そして幸か不幸か俺の中には、お前というもう一人の存在がいた。
だから俺は、お前に体を預けて、一度、長い眠りにつくことにしたんだ。
「長いあいだお前に体を渡していたことによって、俺が持っていた主導権もお前に移ったんだろうよ。そこから先のことはお前が覚えているとおりだ」
「僕の記憶をいじった理由は?」
「いくらお人よしのお前でも、過去のトラウマだなんだで変な気を起こされちゃ困るからな。それに途中で俺を起こされでもしちゃたまんねぇ。万に一つの可能性もなくなるよう、俺に不利な記憶はすべて取り除かせてもらった。それでも完全にはお前の中から消し切れてなかったみたいだけどな」
「……そのおかげ、と言っていいのかは分からないけれど、だから僕は過去を引きずることもなく過ごしてこれたってわけか」
「さぁ、そいつはどうだかな。さて俺の本題はここからだ────」
予想以上に深い眠りについていた俺は、それから十年以上も目覚めることはなかった。
次に俺が起きた、というより起こされたのは、お前が交通事故なんてものに遭ったときだ。
おかげで最悪の寝覚めだったぜ。
だが、どうだ?
再び目覚めた俺は……何も変わってなんかいなかった。
あの男への憎しみも消えず、他人を痛ぶることに何の躊躇もない。
すべてを捨ててまで欲しかったものは何一つ得られず、結局俺に残されたモノのは気に食わない奴らをぶちのめすこの力だけ……
しかし、お前は違った。
体を預けた十余年の月日をお前は問題なく過ごしていた。
勉強もできて、お利口で模範的な優等生としてな。
平凡に社会を生きるために必要な要素をお前は当たり前のように持っていたんだ。
だから俺は、お前をこのまま『神谷 涼』として表に立たせ続けることに決めた。
俺が真に望むのは『神谷 涼』という人間が、あの男とは違い、真っ当に生きること、それだけだ。
そして、お前が事故から目覚めたときから俺の計画は始まった。
一つ誤算だったのは、お前が感情の一部を欠落させていたことだ。
最初は、ただのお人よしの偽善者だと思っていたおかげで、気づくのが少し遅れちまったがな。
お前の行動指針、感情の起伏の異常さに気づいた俺は、まずお前の欠陥を直すことを優先した。
俺の目指す『神谷 涼』という存在に欠陥なんて必要ねぇからよ。
「そしてお前は、この一年をかけてやっと完成した。まぁ、運動神経のヘボさだけはどうしようもなかったが、最悪の場合は俺がいる。そこは大きな問題じゃねぇ」
「そう、だったんだ……」
「どうだ、これがお前の知りたがっていたことだ。いい加減に納得したか? わかったなら、とっととここから消えろ」
「…………まだだ、まだ帰るわけにはいかない」
「それは、どういう意味だ?」
「僕は、君の自尊心を満たすための人形になんかなるつもりはない!」
僕のセリフに君のまぶたがピクリと動く。
「僕の方こそ、そんな人生は御免だ。それに、それじゃあ君にとってはなんの解決にもならないじゃないか!?」
「やれやれ……なんで俺がこのことを今までお前に黙っていたと思う?」
「それは……」
「もちろん、計画をスムーズに進めるためでもある。目的地に着くためには単純明快な一本道の方が早いに決まっているからな。だがな、それだけじゃねぇ……」
細められた両目が、一層鋭さを際立たせる。
突き刺すような視線に僕の両目が捉えられた。
「その目だ。まるで俺に同情でもしているようなその目。ただ俺の描いた筋書きどおりに動いているお前に……俺がいなければ存在すらしていなかったお前に……そんな目で見られるのが我慢ならないからだよ。俺はな、お前のことが大嫌いなんだ」
「……僕のことをそう思うのなら、余計に君は自分のための解決策を考えるべきだ。君は僕という他人の人生をただ中から傍観しているだけで満足なの?」
「確かに体を共有しているとはいえ、俺たちは個々の意思を持った別々の存在だ。だが外から見ればどうだ? 俺たちは『神谷 涼』という一人の人間でしかない。人生なんていかに自分を満足させるかがすべてだ。金が欲しいから働き、孤独を恐れるから寄り添いあう。お前がどう思おうが、俺が満足すれば俺の人生としては大成功。そのためなら俺は、どんなことだってしてやるぜ。俺に唯一残されたこの力で、必要ものはすべて利用し、邪魔ならば排除する。誰だろうが関係ねぇ。覚えておけ、お前もその中の一人だってことをなぁ」
そのあまりにも退廃的な理想に僕は内心困惑していた。
君の気持ちもわからないわけではない。
親だって自分で成せなかった望みを子に託すときだってある。
もう一人の自分にそれを託す。
その功績は実質的には『神谷 涼』という自分自身に返ってくるものなのかもしれない。
けど……
そんな方法では、君はいつまで経っても前に進むことができない。
「君だって、自分の人生を生きたいと思ったから、あの家から逃げ出したんでしょ? なら君が望む夢や理想の将来だってあるはずだ。なのに……なんでそうやって簡単に割り切れる!?」
「……なんだと?」
「まだ、そんな捨て鉢になるには……」
「……黙れ」
「……ッ!?」
「──貴様に俺の何がわかるっ!?」
恐ろしいほどの殺気を感じ、体が硬直する。
それは、今まで僕が見たこともないような激高した表情だった。
まるで、怒れる獅子と正面から対峙してしまったような感覚。
額から滲み出る汗と背筋を突き抜けた悪寒が、僕が今の状況に恐怖していることを教えてくれた。
一瞬、自分の死すらも覚悟してしまったほどに……
だが、僕の覚悟とは裏腹に君はすぐにいつもの余裕を取り戻す。
「別に悪い話じゃねぇだろ? お前にこの体をくれてやるって言ってんだ。お前はなんの問題もなく今までどおりの生活を送ることができる。何が不満だ?」
「……確かに、叔父さんたちや学校のみんなに会えなくなると思うと寂しいよ。でもね、僕は……君の力になってあげたいんだ。どんな理由があるにせよ、僕たちを助けてくれた君の力に……」
「ふっ、はは!! そんなに俺がかわいそうな奴に見えるか? そうやって綺麗事を並べて、本当はお前の方が内心で人の事を見下してるんじゃねぇのか? なあ、偽善者様よ!?」
「違うよ。僕はそんなつもりじゃ……」
「まあ、そんなことは今さらどうでもいい。すぐに教えてやるよ、本当に上に立っているのはどっちなのか。くく……」
無気味な薄笑いを浮かべながら、君は何気ない動作で右手を上げていく。
その動作の意味を理解しかねていたとき、僕は自分の体の異変に気がついた。
「え……?」
まるで糸で操られているかのように僕の右手が独りでに君と同じように動き出したのだ。
上に上がる手を止めようにも、体の自由が思うようにきかなかった。
「なんで俺がこんなにペラペラと事情を話してやったと思うよ?」
「これは、まさか……」
「そう。お前の意思の有無なんて、もう必要なくなったからだ。当然、お前の性格からして、俺の計画に反抗することは十分に予想できた。この一年間、俺はただお前の中で大人しくしていたわけじゃあないんだぜ」
ここにいてはマズイと思い、一度表に逃げ出そうと試みるも、今の僕には、もはやこの世界から出ることさえできなかった。
「無駄、無駄。今のお前は籠に入れられた虫も同然。この俺の許可なしには、もう表に出ることはできない。苦労したぜ、お前に気づかれないように体の主導権を取り戻すのはな」
「じゃあ、今まで僕たちを助けてくれたのは……」
「俺が表に出ることで、より効率的に主導権を取り戻していただけのこと。わざわざ俺が、お前やお前のお友達のために動いているとでも思ったか? 笑わせるな。他の奴らがどうなろうが俺には知ったこっちゃないんだよ」
僕が今まで強気でいれた理由には、当然、体の主導権を握っているという理由も含まれている。
もう一人の自分を閉じ込めておけるという意味では、この主導権一つで、優劣が大きく左右されるのだ。
そして今の状況は想定できうる中でも最悪のパターンだった────




