君と僕の真実 (前)
ある日のことだった。
今日は今までとは比べ物にならないほどの痛みが少年を襲った。
痛みの正体は男の持っている酒ビン。
そして今日の男はやけに荒れていた。
いつもよりも大きな声で少年を怒鳴りつけ、いつもより長い時間、少年に痛みを与える。
何度、意識が飛びかけたことだろうか。
痛みのあまり少年の口から叫び声が出た。
少年が男の顔を見ると男は狂ったように笑っていた。
痛みに耐える少年をあざ笑うかのように……
己の行為を愉しんでいるかのように……
その顔を見て少年は理解した。
この男はもう壊れてしまっていると……
高笑いを上げながら、男はもう一度ビンをもった腕を振りかぶる。
「オラァ、もう一発いくぜっ!! ひゃーはっはっはっははぁ────!!」
その言葉と共に腕は振り下ろされ、辺りには割れたビンの破片と……
真っ赤な少年の命の雫が飛び散った────
「こうやってお前と話すのは、三度目か?」
「君にとってはそうかもしれない……でも僕にとっては今日が初めてに近いかな」
そこは明かりも何もない真っ暗闇な世界。
「一度目は、君の声を聞くことしかできなかった」
交通事故に遭い、ずっと眠り続けていたとき……
「二度目は、自分のことで手いっぱいすぎて、君と悠長に話す余裕なんてなかった」
文化祭の後、痛みで苦しんでいるときに君が語りかけてきたとき……
「でも三度目の今日は、こうやってじっくり君と話ができそうだよ」
目の前に立つもう一人の自分をしっかりと見据える。
同じ顔、同じ声、同じ姿。
頭では理解していても、実際に向き合うと、鏡に映った自分に話しかけているようで妙な違和感を感じた。
「まさか、そんなことを話すためにわざわざ俺に会いに来たわけじゃねぇだろ?」
僕たちが今立っている場所。
本来ならば、絶対に出会うことができない僕たちが唯一、一緒にいられる場所だ。
それは僕たちの内にある世界。
僕たちだけが入れる、僕と君だけの世界。
こうして、この場にいる君に会いに来ることは初めてだった。
今までは君に会いに来ようなんて思いもよらなかったけれど、今日は違う。
「僕が君に会いに来たのは知るためだ。僕自身のことを、そして……君の目的を」
そのためにここまで来たのだ。
「俺の目的? はっ、いったいなんの話だ?」
「とぼけないでよ。君が僕に何かをさせようとしているのは明らかだ。そのために回りくどい真似をしてまで、僕に『取り戻させよう』としたんでしょ?」
今までの君の不可解な言動。
そして僕自身も気づくことのなかった、僕の『欠けているモノ』を取り戻させようとしたこと。
君の行動理念が僕を中心に回っていることは、もはや誤魔化しようのない事実だ。
「君は僕をどうするつもり? 今度は僕に何をさせるつもりなんだ?」
「おお、怖い怖い。今にも噛みついてきそうな勢いだな」
言っているセリフとは裏腹に表情がまるでかみ合っていなかった。
僕をおちょくって楽しんでいるかのように、君の口元は先ほどから緩んでいる。
僕を試しているのか、それとも純粋にこの状況をおもしろがっているのだろうか?
どちらにせよ僕も自分のペースを崩すつもりはない。
「別に君に対して怒っているつもりはないよ。文化祭のことにしても、その後のことにしても、すべては僕の弱さが招いたことだ」
理由はどうあれ、僕のせいで周りの人たちに大きな迷惑をかけてしまった。
そしてその結果、僕は今ここにいることができる。
だから決めた。
もう、そんな弱い自分に負けないために自分自身と向き合うことを……
「ふん、からかいがいのねぇ奴だ。俺としては、もう少し余裕を持ってもらいたいもんだがな」
目の前の商品を値踏みでもするかのように僕を観察する。
「どうだ、生まれ変わった気分は? 初めてにしては中々の『お怒りっぷり』だったぜ。くく……」
「自分じゃよくわからないよ。でも『怒る』っていうのはあまり好きにはなれないかな」
「ったく、相変わらず甘ちゃんの発想だな」
君に何を言われようと僕は無理に変わるつもりはない。
無理に変わろうとすれば、また周りに迷惑をかけてしまう。
「そろそろ本題に入らせてもらうよ。君は、僕に何をさせようとしているの?」
逸れかかった話題を戻す。
「わざわざ腰を据えて話すような大層な目的なんてねぇさ。いや、もうほとんど達成されたと言ってもいい」
「どういうこと?」
「どうもこうもねぇ。俺の目的は、お前がなくした感情を取り戻すことだったってことだ」
「なんのために?」
重要なのはその先だ。
僕に感情を取り戻させた先に君が何を求めているのか……
僕はそれが知りたかった。
「必要だからさ。生きるために、な。『喜怒哀楽』これは人が人間社会という基盤で生きていくために必要な要素だ。誰もが当たり前に持っているモノ。だが、その当たり前をなくした人間はいつか必ず大きな問題を起こすだろう。そうならないために俺はお前にその当たり前を取り戻させたかった。それだけだ」
思っていた以上にまともな理由であったことに少し胸をなでおろす。
君の考えにはおおむね賛成だ。
事実、人は感情に従って生きていると言っても過言ではない。
人の目的、行動の先には動機があり感情がある。
感情の関係しない行為は、ほぼないと言えるだろう。
そして、感情とは他者とのコミュニケーションを図る上でも必要不可欠なモノ。
感情がなければ他人を理解することもできない。
それは僕自身も経験してきたことだ。
今ならよくわかる、大事な飼い猫を失った津山さんや、文化祭を荒らされたときに恭太郎があんなにも『怒っていた』ことが……
互いを理解し合い、人間関係を築き、助け合う。
まさしく、人間社会で生きていくうえで感情は欠かせないモノだ。
やり方はどうあれ、それを取り戻してくれた君には感謝している。
けれども僕には、それがすべてとは到底思えなかった。
感情を取り戻した今だからこそわかる。
君には、何か僕ではなく、君自身の望みを叶える野望のようなものがある。
そんな拭いきれない疑心が僕の中にはあった。
「今ので納得いったって顔じゃねぇな。まだ俺を疑ってる目だ」
「そうだね。おとなしく、はいそうですか、と帰るわけにはいかないよ」
「ここまで頑張ったご褒美だ。今なら、お前の質問にもなんだって答えてやるぜ。それを信じるか信じないかは、お前次第だがな」
あくまでも情報の真偽を僕に任せるところが、あまのじゃくな君らしかった。
今日は、やけにサービス精神が旺盛だ。
ならばそれに甘えさせてもらうとしよう。
僕が失っていたモノは感情だけではない。
もう一つ、僕は大切なモノを忘れてしまっていた。
いつの日か垣間見た自分の過去を僕はほとんど覚えていないのだ。
それはすべての始まり。
僕が感情をなくす原因となった出来事だ。
それを知ることが、僕自身を知ることにもきっと繋がるだろう。
「なら、僕たちの過去について教えてほしい」
「ん?」
「前に断片だけだけど見たことがあるんだ。幼いころの自分の記憶を……」
「ほう、お前アレを思い出したのか?」
少しだけ驚いたように君は言う。
「一つ忠告しておいてやるよ。好奇心旺盛なのは結構だが、世の中には知らない方が幸せなこともあるんだぜ」
「僕は決めたんだ。もう自分からは絶対に逃げないって」
「いい顔をするようになったじゃねぇか。ならお望みどおり教えてやるよ。お前が忘れている真実をな──────」
瞬間、意識が遠のいていく感じがした。
視界が揺らぎ、身体はその重みを失う。
そして先ほどまで暗黒に支配されていた世界に光が指した。
徐々に視界が鮮明になっていき、身体が重みを取り戻す。
次に気づいたとき、僕たちはとある場所に立っていた。
「これは……いったい……?」
そこは、前に僕が見た光景と同じ場所だった。
小さなアパートの一室。
生活感の欠片もない荒れ果てた室内に溢れているのは、おびただしい数のビンと部屋に染みついた酒の匂い。
「今、お前に見せているのは俺の記憶だ。わかるか? 俺たちの目の前にいる奴らが誰なのか」
それもまた、あのときに見た光景と同じ。
幼いころの僕と見覚えのない男の姿があった。
そしてその関係も変わっていない。
痛みを与える者と与えられる者。
自分のこと以外何も思い出せない……なぜ自分がここにいて、こんな目に遭っているのか、それすらもわからなかった。
「まあ、覚えていないのも無理はないか……いや、忘れていた方が幸せだったろうにな」
きっとろくな理由ではないことは容易に想像できた。
だからといって、もう逃げるわけにはいかない。
誘拐だろうが、通り魔だろうが、どんな理由でも僕には知る義務がある。
覚悟はできているつもりだった。
しかし、君の口から語られた真実は僕の覚悟を容易く握り潰すこととなった。
「お前の言うとおり、あそこにいるガキは昔のお前だ。そしてもう一人、お前を苦しめているあの男こそが…………
俺たちの本当の生みの親だ」
「え……?」
君の言葉に頭の中が真っ白になる。
その意味を理解するのに数秒の時間を有した。
君が発した一言に重くのしかかる意味。
少しでも心を乱せば、一気にそれに押しつぶされてしまいそうになるのをなんとかこらえる。
だが、動揺と混乱は一向に収まる気配がなかった。
もの心がついたときから、僕は親戚の家で育てられていた。
二人が僕の本当の両親でないことはもちろん知っていた。
けれども本当の両親の顔を覚えていない僕にしてみれば、もう二人が僕の本当の両親と言っても、なんら遜色はなかった。
本当の親のことについて聞いたことは一度もない。
それは聞いてはいけないことなんだと子供ながらになんとなく理解していたからだ。
きっと僕を育てられなかった理由があった。
そう思い続けて、僕はいつか話してくれる日が来るのを待つことにした。
それなのに……
「なんで……なんでさ……? 君の言うことが本当なら……僕たちのお父さんがなんであんなことを…………」
子供とは親に愛されて生まれてくるものではなかったのか?
僕を引き取ってくれた叔父さんと叔母さんでさえ、僕をここまで大切に育ててくれたのに、なぜ実の父親にあんなことをされなければならないのだろうか?
「はっ、こんな光景を見てもお前は父親だと言えるのか、あの男のことを……」
動揺を隠せない僕を横目に吐き捨てるように言う。
最後に一瞬だが君の口の端が歪んだように見えた。
「だって……」
いきなり突きつけられた真実を素直に受け入れることができなかった。
こんなものが現実だということを信じたくはなかったのだ。
「実感がわかないか? そうだろうなぁ……」
だが、そんな僕の気持ちをあざ笑うかのように、君はさらなる現実を示した。
「なんたってお前は、そのすべてを俺に『押しつけた』のだから────」
それは、もう十年以上も昔に起きた出来事。
まだ年端もいかぬ一人の子供が、実の父親に殴られ、蹴られ、罵倒され、苦しみに悶えていた。
何日も何日も何日も、似たような光景がまるでリプレイでもされているかのように繰り返されていく。
「なぜ自分がこんな目に遭うのか理由もわからず、ボロ雑巾のように痛みを刻まれていく日々」
外に出ることも、誰に助けを求めることもできず、少年はいつも一人で泣きじゃくっていた。
「その過程で、お前の精神は次第に壊れていき、感情の一部をなくすにまで至った」
「………………」
「当然そんなことが続けば、ガキの一人くらい、とっくにくたばっていてもおかしくはない。だがお前は、ある方法で自分を守る術を身に着けた」
それは幸か不幸か、涼が一般人と違うというところにあった。
「簡単な話だ。自分に苦痛が与えれるのなら、その対象を誰かに移してしまえばいい」
「まさか……」
ここまで聞かされれば嫌でも想像できてしまう残酷な結末。
「──そうだ。お前はお前に与えられる苦痛、それを記憶ごとすべて、俺に押しつけることで、自らの心を保っていた」
他の誰にも涼を責めることはできない。
自分の命に危険がおよぶのならば、それを防衛しようとするのは当然のことだ。
「けれども、それですべてが解決するわけじゃあない。俺に痛みを押しつけることもお前にとっては一時的な逃避にしかならなかった。あの男の行動は日々エスカレートしていくばかり……だが、あの男もついにその報いを受けるときが来たんだ」
今まで淡々と語っていたリョウの顔に醜悪な笑みが浮かぶ。
「その目によーく焼きつけておけ、お前のとった行動、そしてあの男の無様な最後の姿をな!!」
再び映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、今まで以上に悲痛な光景だった────
「オラァ、もう一発いくぜっ!! ひゃーはっはっはっははぁ!!」
狂ったように笑う男とこと切れかけている少年。
まさに今、振りかざした酒ビンを頭に振り下ろそうとしている男に少年の命は風前の灯だ。
そして男の言葉と共に腕は振り下ろされ、辺りには割れたビンの破片と……
真っ赤な少年の命の雫が飛び散った────
「ぐあああっ!!」
直後に響く、痛みに歪む声。
だが、それを発したのはビンを振り下ろしたはずの男だった。
ビンを右手で受け止めるのと同時に少年も左手の近くに落ちていたビンを男に向かって投げつけていたのだ。
こめかみの辺りを抑え、男は膝をつく。
手ごろな酒ビンを片手に、右手の甲からおびただしい出血をしている少年が再び立ち上がる。
それは、少年が地獄のような時間から開放される瞬間だった。
新たに飛び散る鮮血と破片、頭から血を流し横たわる男と、それを見下げる少年。
この光景を最後に、世界は再び暗闇に戻された────
「僕は……なんてことを……」
目前で起きた惨劇と、語られた真実に呆然と立ち尽くす。
「気にすることはない。あれは起こるべくして起こったもの……誰もお前を責めやしない」
茫然自失とする僕を慰めるように君は言う。
「くそっ……」
僕はなんのためにここまで来たんだ?
勝手に覚悟を決めたつもりになって、でも自分の過去を知った途端にこれだ……
沸々と自分に対する情けなさと怒りが込み上げてきた。
「そうヤケになるな。今更どうしようもないことだ。賢いおまえならわかるだろ? 今のお前にできることは、もう一度掴んだ人生を謳歌すること。それだけだ」
悠々と他人事のように語る君に疑問を覚えた。
「……君は……君にすべてを押しつけた僕を恨んだりはしてないの?」
この話の流れでいけば、君は完全な被害者に当たる。
おこがましいと思いながらも恐る恐る僕は尋ねた。
「……はっ、お前を恨んだからってどうなるってんだ? 俺は無駄なことはしない主義なんだ。もう一度言う、そんなことを気にしている暇があったら、今後の人生設計でも考えるんだな。そっちの方がよっぽど建設的だぜ」
今にもやれやれと聞こえてきそうな台詞に感嘆する。
その割り切ったような考え方ができれば、僕もくよくよ悩むことなんてないのだろう。
これは君の強さなのだろうか、それとも……
「わかったらこの場からとっとと消えろ。ここはお前がいるべき場所じゃない」
「……ありがとう」
最後にそれだけ言って、僕はおとなしく外の世界へと帰っていく。
帰り際、君の話を聞いてショックを受けるかたわら、僕の中にはもう一つの小さな疑惑が生まれていた。
君は僕に、すべてを押しつけた僕のことを恨んでいないと言った。
ならば、君から感じられたあの感情は、いったい誰に向けられていたものなんだ?
『あの男』
君がそう発言したとき、いつもどこか余裕のある君とは違う感じがした。
僕が君から感じたのは、怒りや憎しみの感情。
昔の僕なら到底感じられなかったものだ。
話の節々からにじみ出ていたそれは、君にすべてを押しつけていた僕ではなく、君があの男と呼ぶ、一人の人間だけに向けられている気がしてならなかった。
別に根拠なんて何もない。
僕の考えすぎかもしれないし、勘違いかもしれない。
けれども、今一度取り戻したこの感覚を僕はただの勘違いだとは思えなかった。
まだ、すべてを知った気になるのは早計だ。
きっと君はまだ、僕に隠していることがある。
それがなんなのかは皆目見当もつかない。
けど、君が一人で背負っているものの半分でも僕が手助けしてあげられればいいのに……
「僕じゃあ、君の力になってあげることはできないのか?」




