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君が教えてくれたもの (後下)

「テメェなんかが生まれてきてから、こっちはろくなことがねぇ!!」

 そんな言葉を放ちながら、見知らぬ男がまだ幼い少年をその拳で殴りつけた。

 それに抗う術はなく、少年の小さな体はゴロゴロと転がり、ゴンッという音を立てて壁にぶつかった。

「お前が生まれてきたからだ……お前さえ生まれてこなければっ!!」

 男は呪文のように言葉を繰り返し、横たわっている少年を何度も蹴り飛ばす。


 なんだ……これは……?

 小さなアパートの一室で行われているそんな光景を、僕はまるでドラマでも見ている視聴者のように傍観していた。

 ひどく荒れている様子の男は感情のままに暴力を振るい、呪縛のように少年の体に痛みを刻んでいく。

 少年はまるで抵抗する様子を見せず、なすがまま、されるがままになっていた。

 まあ、この状況をあんな幼児がどうにかできるとも到底思えなかったが……


 少年は歯を食いしばり、襲い来る痛みを必死にこらえていた。

 けれども、それは男から与えられる痛みを我慢しているのではない……

 あの少年は自分の中からあふれ出る痛みをこらえていたのだ。

 輝きを失った瞳に宿っていたのは、絶望などではなく、激しい怒りと深い憎しみ……

 少年を一目見ただけで、僕はその少年のことを自然と理解していた。

 いや、理解していたというのは少し語弊がある。

 僕はその少年のことを知っていたという方が正しい。

 なぜならば、そこにいるのは……


 幼いころの僕自身だったのだから……


 痛みは我慢することもこらえることもできる。

 でもいつかは限界が訪れる。

 今の僕と同じようにあそこにいる僕も、もう我慢の限界に達していた。

 そうだ……だからあのとき、僕は──────




「僕は、また負けるのか……? 自分の痛みに……嫌だ、そんなのはもう嫌だ……」

(──いいや、違うな。克服するんだ。お前は、その痛みを……そいつらと引き換えにな。『痛みを止める』それが、お前の望みだろう?)

「……そのとおりだ。僕は、この痛みを止めるために……」

(そうだ、それでいい。これでお前は……)

「でも、違う……」

(なんだ、何をするつもりだ!?)

「僕の痛みと……大切な友達。どっちを取るかなんて……決まっている……」

(なんだと……まさか……!)


「僕は、失いたくないんだ。大切な友達を……」

(このままだと自分がどうなるか、お前はわかっているのか!?)

「痛みを消すために……大切な友達を犠牲にするなんて……」

 そんなこと────


「────そんなこと、僕にできるわけないじゃないかっ!!」


 無情にも振り下ろされた拳は、恭太郎に当たる直前で止められていた。

 涼の手に握られていた石がポトリと静かな音を立てて地面に落ちる。

「俺……まだ無事なのか……?」

 その光景に緊張の糸が一気に緩んだのか、恭太郎はパタリと後ろに倒れ込んだ。


「神谷君?」

 ただただその場に立ち尽くす涼に美咲が近づいていく。

 美咲には今の涼からは何も感じることができなかった。

 先ほどまでの無気味さも、戦う意思も、そして生気さえも……

 魂の抜けてしまった抜け殻のように、涼はただ遠くを見つめ、立ち尽くしていた。


「……わからないんだ」

 ポツリと小さくつぶやいた涼の言葉に二人が耳を傾ける。

「止まらないんだ、僕の中の痛みが……治まらないんだ、僕の中の怒りが……」

 まるで、今までのことを懺悔するかのように涼は一人でに話し始めた。


「文化祭の日。あの日、僕は初めて誰かを殺してしまいたいと思うほどに人を憎んだ……みんなで作り上げてきたものを壊されていくのが、みんなが傷つけられていくのが許せなかったんだ」

 その結果、涼は自らの怒りに囚われ、文化祭を中止させる要因の一つとなってしまった。

「あのとき、僕は自分でも自分を止めることができなかった……もう後先のことなんて考える余裕もなかったよ……茜の顔を見るまでは、ね」

 茜の決死の行動のおかげで、涼は理性を取り戻すことができた。 


「でも、あの日以来、何をしても、誰と話しても……治まらないんだよ。別に誰か恨んでいるわけでもないのに、ムシャクシャして何もかもがどうでもよくなって、うっとうしく思えて……とにかくすべてが憎くてしょうがなかった」

 だが、そのせいで行き場を失った涼の怒りは、自分を取り巻くすべてのものに向けられるようになってしまったのだ


「だから一人になろうとしたんですね。その自分の気持ちから逃れるために……」

 何かを憎むことによって、涼の中の痛みは大きくなり、何かと接することによって、涼の行き場のない怒りと憎しみが向けられる。

 その負の連鎖を断ち切るために涼はすべてを断ち切ろうとしていた。

 誰かを傷つけてでも、何かを失ってでも、痛みから逃れるために涼はもがき苦しんでいた。


 しかし涼は最後の最後に気づいたのだ。

 そんなことをしても無意味だということに。

 それでは一時的に痛みから逃れることができても、またいつか同じことを繰り返してしまうと……

 恭太郎と美咲の必死の呼びかけは決して無駄ではなかった。

 涼にそんな自分自身を受け入れる勇気と、そして自分を見つめ直すきっかけを与えていた。


「ねえ、僕はどんなふうに話してた? どんなふうに笑ってた? どんなふうに人と接していた? もう自分じゃ自分のことが何もわからないんだ……」

 今まで無くしてしまっていた感情に囚われ、完全に自分を見失ってしまった涼の暴走。

 それが今回の事のすべての始まりだった。


 それを聞いた美咲は柔和な微笑みを浮かべながら、涼の手を自らの両手で優しく包む。

「だったら、私たちと一緒に探しましょう。本当の神谷君を……」

「もちろん俺もつき合うぜ。ったく、それならそうと初めから言ってくれればいいのによ……」

 ボロボロになった体を起こし、恭太郎が続く。


「また神谷君が自分を見失いそうになったら、今度は私たちがちゃんと引き戻します」

「だから、あんまし難しく考えるなよ。気楽にやろうぜ」

「なんで僕のためにそこまでしてくれるの……?」

 涼は疑問に思う。

 今まで自分が二人にしてきた行いを見れば、自分は恨まれていてもおかしくはない立場のはず。

 しかし二人は、そんなことがなかったように、当たり前のように涼の側についていた。


「忘れちゃったんですか? 神谷君だって今まで私たちのためにたくさん力を貸してくれたじゃないですか」

「僕が……?」

「さっき自分で言ってただろ? 俺が今こうしてこの場にいるのもお前のお蔭なんだぜ」

 二人の言葉を聞き、涼は考える。

 なぜ自分が過去にそんなことをしていたのか……

 答えは簡単だ。

 『友達だから』

 今まで何度も聞いたその言葉に、涼はどこか懐かしさを覚えた。


「また前みたいにみんなで楽しく遊ぼうぜ」

「また、みんなで……」

 楽しかった日々、忘れられない出来事。

 大切な友達との様々な思い出が涼の頭の中を巡る。

「そういや、また新しいボードゲーム見つけたんだ。いつまでも涼に負けていられねーからよ。このまま勝ち逃げなんて許さねーぜ」

「菅君じゃ何度やっても神谷君には勝てないと思いますけどね」

「う、うるせーよ!!」

 目の前で行われているやり取りも、涼にはもう遠い昔のように思えた。


「僕は、まだ恭太郎たちと一緒にいていいの?」

「当たり前だろ」

「当たり前です」

 二人の声が重なる。

 涼の問いに二人は当然とばかりに答えた。


「は、はは……」

 それを聞いた涼の口元が自然と緩んでいく。

「へへ、やっと笑ったな涼……」

「ふふ、やっぱり神谷君は怖い顔してるより、そうやって笑ってた方がいいですよ」

 もう帰ってはこないと思っていた日常が、再び戻りつつある。

 そのことに安心したのだろか、

「あれ……おかしいな……うれしいはずなのに……」

 涼の顔には満面の笑みと、そして涙が浮かんでいた。

 そんな涼の様子に安堵した恭太郎と美咲の顔も自然と和らいでいく。


「はいはい。水を差すようで悪いですけど、二人の怪我の手当てをしますよ」

 美咲は置いてあった自分の鞄から救急セットを取り出した。

「その前に神谷君」

「なに……ッ!?」

 振り向いた涼に向かって、美咲は渾身のビンタを浴びせる。

 一瞬遅れてパンッという乾いた音が川原に鳴り響いた。

 いきなりの不意打ちに涼は無防備なまま美咲の一撃をモロに受ける。


「一発は一発ですからね。これでお相子です」

 柔和な笑みではなく、どこか邪悪さを携えた笑みを浮かべながら美咲は涼に言った。

「ああ、やっぱり昨日のこと根に持ってたのな。おっかねー」

 恭太郎は昨日、涼が美咲の顔を偶然とはいえ、こずいてしまっていたことを思い出す。


「……もしかして津山さん怒ってる?」

 突然の出来事に取り戻しかけていた日常がまた遠のいてしまうのかと涼の中で不安な気持ちが渦巻いた。

「はい、とっても怒ってます。もう一発いっときましょうか?」

 スッと静かに美咲は再び手のひらをセットした。

「……ごめん。それで気が済むなら…………」

 美咲は冗談のつもりで言ったのだが、今の涼にはそれも通じないようだった。


「ふふ、冗談ですよ。でも、やっと私の気持ち、わかってくれましたね」

 過去に涼がこの場所で美咲に言った言葉。

 自分の気持ちを理解してくれなかったことに、美咲はどこか引っかかりを覚えていた。

 しかし、今の涼の言葉でそれももうきれいさっぱり消えた。

 涼がちゃんと今の自分の気持ちを理解してくれたことに嬉しさを覚える。


「え……それってどういう……」

「あー! なんだよお前ら。俺をいつまでも仲間外れにするなよ!!」

「はい、この話はもう終わりです。まずは傷口の消毒から始めますよ。二人とも動かないでくださいね」


「痛い、痛い!! もっと優しくしてくれよ」

「ごめんね恭太郎。僕のせいで……」

「あれは喧嘩だったんだからお互い様だろ。今回の勝負は引き分けってことにしといてやるよ」

「どう見ても菅君の負けだったと思いますけど?」

「ま、まだ逆転の秘策があったんだよ!!」

「あはは……」

「そこ笑うとこじゃねーからっ!! ──────」


 こうして僕こと神谷涼は、文化祭での事件を乗り越え、再びみんなと一緒にいられることができるようになった。

 今の自分を受け入れることができたからなのか、僕の中にあった怒りも憎しみも痛みもいつの間にかすべて消えていた。

 これは僕一人では到底、叶わなかったこと……

 恭太郎と津山さんの力があってこそ実現できたことだ。

 今は、そんな二人に対する感謝の気持ちでいっぱいだった。


 次の日、クラスのみんなは傷だらけの僕たちの姿を見て驚いていた。

 そして僕は迷惑をかけたクラスのみんな、そして僕とすれ違いからイザコザを起こしてしまった、他クラスの女子と先輩であるその彼氏に謝罪をして回った。

 僕はみんなから責められるどころか、励ましの言葉を多くもらい、改めて多くの人に支えられているのだと知った。


 そして僕はこの日、君が教えてくれたもの、そして弱い自分の心には、もう二度と負けないと誓ったのだった────




「くくく……」

 無気味な笑い声が響き渡る、果てのない暗闇の世界。

 そこに立っていたのは一人の少年。

「まさか、あの土壇場で自分を取り戻すとはな……はははっ! お前は本当に俺の予想を超えた奴だ」

 予想だにしなかった出来事にリョウは歓喜する。

「これで、ついにお前は完成した。お前こそが俺の求めた最高の一品、至高の芸術、そして本当の『神谷 涼』だ!! はーはっはははははははっ────!!」

 祝福に酔いしれているリョウの真意を知る者は、他には誰一人としていない。

 その真意をもう一人の涼が知ったとき、涼はどうするのだろうか?

 二人の涼の交錯する想い。

 その決着のときは、着実に近づいてきていた──────

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