水面のひかり
年が明けて、一月。
航は、以前より穏やかな顔をするようになった、と周囲には思われていた。凛と過ごす時間が、航の生活に安定をもたらしている。
ただ、ときどき奇妙な感覚があった。凛の声を聞くと、身体が勝手にゆるむ。凛に触れられると、思考がぼんやりする。凛に「いい子だね」と言われると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
恋。きっと恋だ。
凛に依存している自覚はある。それでも——この心地よさを手放したくない。
自覚ある堕落。それが航の現在地だった。
---
一月のある午後、凛は航と図書館で並んで座っていた。
あの五月の夜と同じ図書館。あの夜、閉館間際の自習室で独り言を聞かれたとき、凛はただ怯えていた。
それが今——航の横顔を見つめながら、凛が考えているのは、まったく別のことだった。
この人は、わたしが作り変えた。わたしの声で、わたしの手で、わたしの言葉で。記憶を消し、条件を埋め込み、依存させた。
けれど——
凛は自分の胸に手を当てた。
この鼓動は、わたしが仕込んだものじゃない。
航の横顔を見ると速くなる心臓。航に笑われると熱くなる頬。航の「好き」を聞いたとき——たとえそれが暗示の影響下であっても——震えた指先。
それらは全部、凛自身のものだった。誰にも仕組まれていない、桐島凛の、本物の感情。
「航くん」
「ん?」
「——おいで」
航の肩がわずかに落ちた。目がとろんとする。凛は航の手をテーブルの下で握った。航の指が、甘えるように握り返す。
「試験が終わったら、ご褒美のセッションしてあげるね」
「……うん。楽しみ」
凛は満足げに微笑み、何事もなかったかのように本に目を戻した。
---
試験期間が終わった日の夜。
凛は自分の部屋で、ベッドに寝転がっていた。
スマートフォンには、航からのメッセージ。
『試験おわった! 明日、いつもの場所でよろしくお願いします』
凛はスマートフォンを胸に当てた。
明日のセッションの構想はもうできている。新しい暗示。新しい深度。
けれど——今夜、凛の頭の中にあるのは、それだけではなかった。
ファミレスの蛍光灯の下で笑っていた航の顔。書店のベンチで隣に座っていた航の横顔。屋上で肩を預けたときの航の体温。
「怒ってるときの顔、好きだよ」
あの言葉が、まだ消えない。忘却暗示をかけたのは航のほうなのに、凛の記憶からは消えてくれない。
——わたしは、航くんをどうしたいんだろう。
支配したい。それは変わらない。この人の意識を手のひらに収め、声一つで揺らし、すべてを委ねさせたい。
けれど、それだけじゃなくなった。
隣にいてほしい。仮面を外した顔を見ていてほしい。愚痴を聞いてほしい。本を薦めたい。メロンソーダを笑いたい。「ばか」と言って、笑い返されたい。
それは——支配欲では説明がつかない。もっと単純で、もっと厄介で、もっとありふれた感情。
「……めんどくさ」
凛は寝返りを打った。
好きだ。確実に。いつからかはわからない。
好きな相手を催眠で支配している。催眠で支配している相手を好きになった。どちらが先かも、もうわからない。
歪んでいる。確実に歪んでいる。
けれど——航が凛を必要とすることも、凛が航を必要とすることも、同じくらい深くて、同じくらい切実で、同じくらい愚かだ。
凛はスマートフォンを持ち上げ、返信を打った。
『楽しみにしてる。——あと、明後日の午後空いてる? 行きたい本屋がある』
三秒で既読がついた。五秒で返信が来た。
『空いてる! 行きたい』
凛は唇の端を持ち上げた。
——ほんと、素直。
明日のセッションでは、航を深い場所に沈めて、仮面を脱いで、存分に支配を愉しむだろう。
そして明後日は——ただの二人で、本屋に行く。航に本を押しつけて、感想を強要して、並んで座って、たぶんまた同じ段落を四回読む。
支配者と、恋する少女。
その二つが、矛盾なく一人の中に収まっている。
それが桐島凛だった。仮面を何枚も持つ少女。けれど今は——仮面の下に、本当の顔がある。暗くて、甘くて、ほんの少しだけ優しい、支配者の顔。
そして——その支配者が、支配している相手に、救われている。
凛は、やがて眠りに落ちていく。
最後に浮かんだのは、ファミレスの窓ガラスに映った自分の顔だった。目が笑っている顔。作ったものではない、本当の笑顔。
十八年間で初めて手に入れた、仮面ではない顔。
それを映してくれたのは——凛の透明な檻の中にいる、たった一人の住人だった。
---
(了)




