聖域にて
十二月最初のセッション。
レンタルスペースの照明を落とし、小さなアロマキャンドルを灯した。白檀の香りが静かに漂う。椅子は一脚だけ。航のための椅子。
「今日は特別な日にしたいの」
凛は航の正面に立ち、見下ろすかたちで両手を取った。
「航くん」
航の目が閉じた。一秒もかからない。
凛はその瞬間を、息を止めて見つめた。何度見ても飽きない。
「——深く。もっと深く。今日は、今まで行ったことのない深さまで」
「神殿の奥。光の中のわたしのところまで来て。——来た?」
「……来た」
「今日のわたしはね、あなたの前に立っているの。わたしの顔が見える?」
「……見える」
「どんな顔をしてる?」
「……笑ってる。でも——いつもと違う笑い方」
「どう違う?」
「……怖い。けど——きれい」
凛は唇を噛んだ。航の深層意識は、凛の本質を正確に捉えている。怖くて、きれい。
「怖い? 怖くていい。——怖いのに、逃げたくない。そうでしょう?」
「……逃げたくない」
「なぜ?」
「……ここにいたい。あなたの……そばに」
凛は航の顎に指先を添え、上を向かせた。
「ねえ航くん。今から、この場所での本当のルールを教えるよ」
声が変わった。甘さの中に、鋼のような芯。
「一つ。ここではわたしの言葉が絶対。わたしが右と言えば右。上と言えば上」
「……はい」
「——いま、はい、って言ったね。いい子。ここでの返事は『はい』だよ」
「……はい」
「二つ。わたしが名前を呼ぶと、あなたは今よりもっと深く沈む。底がないくらい深く。そして——それが気持ちいい」
凛は航の耳元で囁いた。
「——航くん」
航の全身が、かすかに震えた。唇から吐息が漏れた。
凛の心拍が跳ね上がった。
「三つ。わたしに許可なく、動かない。声を出さない。ただし——わたしが命じたときは、すぐに従う」
航は微動だにしなかった。
凛はゆっくりと航の周りを歩いた。背後に回り、肩に手を置き、首筋に息を吹きかけ、正面に戻って顔を覗き込む。航は石像のように動かなかった。
「——すごく、いい子」
凛の声が熱を帯びた。
凛は航の前に跪き、閉じられた目を見上げた。
十八年間、凛はずっと見上げられる側だった。頼られ、期待され、崇められる側。けれど今——凛は自ら跪いて、この無防備な人間を見上げている。見上げているのに、支配しているのは凛のほうだ。
「航くん。わたしのこと、好き?」
「……好きです」
「わたしなしで、生きていける?」
長い沈黙。
「…………わからない」
凛は微笑んだ。
「大丈夫。わたしが、いなくならないから」
凛は立ち上がり、航の頭にそっと手を置いた。髪を撫でる。指先で梳く。
航の表情が——催眠の最深部にいるにもかかわらず——ゆるやかにほどけた。安堵と信頼が混ざった顔。無条件の安心。
凛はそれを見下ろしながら、自分の目が潤んでいることに気づいた。
——なんで泣きそうなんだろう、わたし。
わからなかった。思い通りになっているのに。
けれど——この人の頭を撫でている手が、震えている。航の穏やかな表情を見ていると、胸の奥が締めつけられる。
これは——支配欲とは違う感情だ。
もっと古くて、もっと単純な——。
「……ばか」
凛は囁いた。航には聞こえていないだろう。聞こえていても、覚えていないだろう。
だから言えた。
「——好きだよ」
声にならないほど小さく。
凛は手を離し、目を拭い、呼吸を整えた。
「……五つ数えたら目が覚めるよ。一——二——三——四——五」
航が目を覚ました。
「……今日、すごく……なんていうか。すごく安心した。——桐島さんがいてくれてよかった、って思った」
凛は目を伏せた。
「……わたしも、あんたがいてくれてよかったよ」
航は驚いた顔をした。凛はすぐにいつもの顔に戻った。
「——なんて。たまには素直なことも言うんだよ。希少だから大事にして」
「する。大事にする」
「……素直すぎ」
凛は航の手を取り、立たせた。
「帰ろう。——今日は、寄り道しないで帰る」
嘘だった。疲れたのではなく、これ以上航の顔を見ていたら、仮面が持たないと思ったのだ。
支配者の仮面が。その下にある、ただの恋する少女の顔が、出てきそうだったから。




