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雨と蛍光灯

十一月初め。午後から雨になった。


サークルの会合が早く終わり、凛が「本屋に寄りたい」と言うので、二人で駅前の大型書店に入った。


凛は航と並んで歩きながら、さりげなく航の小指に自分の小指を絡ませた。もう慣れた仕草だった。航の呼吸がわずかに深くなるのを、凛は指先で感じ取る。


「桐島さん、本好きだよね」


「好きっていうか、必需品。これがないと死ぬ」


「藤崎くんは本読まないの」


「そこそこ。ラノベとか——」


「ラノベ」


凛が振り向いた。眉が上がっている。


「……ダメ?」


「ダメとは言ってない。——ただ、あんたにはもうちょっと歯ごたえのあるもの読んでほしいかな」


凛は棚から一冊を抜き取り、航に差し出した。


「これ、読んで」


「え、いきなり?」


「わたしが読めって言ったら読むの。——冗談だよ。半分だけ」


二人は書店の奥にあるベンチに並んで座った。しばらく無言の時間が流れた。雨の音。ページをめくる音。隣にいる人の呼吸。


航がふと顔を上げると、凛のページをめくる指がしばらく動いていなかった。


「桐島さん。その本、面白い?」


「——面白くない。さっきから同じ段落を四回読んでる」


「なんで」


「集中できないから」


凛は本を閉じた。


「……あのね。こういう時間が、わたし、いちばん苦手なの。誰かと一緒にいて、なにもしてない時間。——普通の人はこれを心地いいって言うんでしょ。わたしは落ち着かない。ずっと何か演じてなきゃいけない気がして」


凛は航を見た。


「——でも、あんたの隣だと、少しマシ」


「マシ」


「すっごく高い評価だと思って受け取ってほしい」


航は笑った。凛は笑わなかったが、目元が少しだけ和らいだ。


「——おいで」


小さく囁いた。航の目がわずかに揺れた。とろん、と瞳孔が開く。


「……ん。なに」


「なんでもない。ちょっと呼びたかっただけ」


「おいで、は名前じゃないだろ……」


凛は軽く噴き出した。


「——ばか」


凛は航の手を握ったまま、自分の本をもう一度開いた。今度は、ページが進んだ。


---


十一月中旬。夜の九時を回っていた。


駅前のファミリーレストランの隅のボックス席で、凛はドリンクバーの紅茶を三杯目おかわりしていた。向かいの航は、クリームソーダの氷をストローでつついている。


「——で、結局あの教授、自分のミスなのに、わたしに再提出させたの」


「うわ」


「うわ、じゃない。千二百字のレポートを一から書き直しだよ」


凛は紅茶をひと口飲み、カップを音を立てて置いた。


「——もういい。あの人の話してると血圧上がる」


航は苦笑した。凛は目ざとくそれを見咎めた。


「何笑ってんの」


「いや、桐島さんって怒ると早口になるんだなって」


「……うるさい」


凛はそっぽを向いた。耳が赤い。


「だいたいさ」


凛は紅茶に視線を落とした。


「わたしがこうやって怒ってるところ、他の人が見たらどう思う?」


「びっくりするだろうね」


「でしょ。幻滅って言うの? そういうの」


「幻滅するかどうかは人によるんじゃない」


「する。みんなする。——中学のとき一回だけ、友達の前で本音言ったことあって」


凛は紅茶のカップを両手で包んだ。


「その子が委員会の仕事をサボったから、ちょっと強く言っただけ。怒鳴ったわけじゃない。でもその日から、空気が変わった。『凛ちゃんって怖い一面もあるんだね』って。あれ以来、二度と仮面は外さないって決めた」


航は黙っていた。


「……それが、今こうしてファミレスで愚痴こぼしてる。人生なにがあるかわかんないね」


「——あんたは、なんで平気なの。わたしのこういう面」


航は少し考えた。


「……いつからだろう。わからない。でも——」


「でも?」


「桐島さんが怒ってるときの顔、俺は好きだよ。普段の笑顔より——なんていうか、生きてる感じがして」


凛は紅茶のカップに視線を固定した。しばらく黙っていた。


「——そういうこと言うから、調子狂うんだよ」


凛はテーブルの下で、航のスニーカーのつま先を自分の靴でこつんと蹴った。


「——おかわりしてくる。あんたも何か飲む?」


「じゃあメロンソーダ」


「子供か」


凛は立ち上がった。ドリンクバーに向かう途中、自分の顔が窓ガラスに映った。


笑っていた。口元だけじゃない。目が笑っている。作った笑顔では絶対にこうならない。


——ああ、まずいな。


このままでは航がいないとダメになる。航を凛に依存させるはずが——凛もまた、航に依存し始めている。


席に戻り、航の手にテーブルの下で触れた。


「さっきの——わたしの怒ってる顔が好きって言ったの。あれ、本気?」


「……本気」


「じゃあ、覚えておいて。——いや、覚えてなくてもいい。あんたの身体が覚えてればいい」


航は首を傾げた。凛は手を離し、紅茶を啜った。


---


閉店間際にファミレスを出て、雨上がりの夜道を並んで歩いた。


「今日、楽しかった」


航が言った。凛は黙って歩いた。三歩ほど遅れて、ぽつりと返した。


「……わたしも」


航には聞こえなかったかもしれない。それでよかった。


次のセッションで、この夜のことは水の底に沈めるのだから。書店のことも、ファミレスのことも、中学の話も、「怒ってる顔が好き」も。ぜんぶ、凛だけの記憶になる。


——便利。


——さみしい。


二つの感情が、もうずっと、凛の中で同居していた。ぶつかり合うこともなくなっていた。ただ、隣り合って座っている。ファミレスのボックス席の、向かい合った二人みたいに。

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