表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

忘却

三日後のセッション。


航をいつものレンタルスペースに迎え入れたとき、凛はすでに覚悟を決めていた。屋上のことを消す。いつもと同じように。


「航くん」


手を握り、名前を呼ぶ。航の目が閉じた。


凛はいつもの手順で航を深いところまで導いた。水の底。神殿。白い柱。光。


航の呼吸が十分に深くなったのを確認してから、凛は口を開いた。


「航くん。三日前の午後のこと。屋上で、わたしと話をしたこと。覚えてる?」


「……覚えてる」


「それはね、もう遠い記憶になっていくよ。夕焼けの色が少しずつ薄れるみたいに。放課後、屋上に行ったような気はする。でも何を話したかはもう思い出せない。わたしが何を言ったかも、わたしがどんな顔をしていたかも、水の底に沈んでいく」


「……沈んでいく」


「残るのは——わたしのそばにいると安心する、という感覚だけ。温かかった、という記憶だけ。具体的な言葉は消えて、感覚だけが残る。いい?」


「……いい」


凛は目を閉じた。


いつもと同じことをしている。何度もやってきたことだ。航の記憶を水の底に沈め、凛だけが覚えている。いつもの手順。いつもの作業。


——なのに、今日は手が震える。


屋上で、航は凛の愚痴を三十分聞いてくれた。凛が教授を罵っても、先輩を見下しても、「良い子のレッテル」に吐き気がすると言っても、隣にいてくれた。「逃げる理由がない」と言ってくれた。


その記憶を、今から消す。航の側からだけ。


凛の側には残る。あの肩のもたれ方。シャンプーの匂い。「変なやつ」と言ったときの、短い笑い。全部残る。


航は何も覚えていない。次に会ったとき、彼はまた何も知らない顔でサークルに来て、凛に少し緊張した笑顔を向ける。屋上の会話はなかったことになる。


——便利だ。


——さみしい。


二つの感情が、凛の中でぶつかった。


凛は航の手を握る力を強くした。


「……航くん。もう一つだけ」


「……なに」


「わたしの声を聞いているとき——前よりもっと、心地よくなる。わたしの声は、あなたにとっていちばん安心できる音。聞いているだけで力が抜けて、温かくなって、ずっと聞いていたくなる。——それは、回を重ねるたびに、深くなっていく」


これは屋上の記憶を消すための暗示ではなかった。もっと根本的な——凛への依存をさらに深める暗示だった。


なぜ、余計なことをした。


凛は自分に問いかけた。答えはわかっていた。


記憶を消すたびに、航と凛の間には何も積み上がらない。日常の触れ合いは消え、残るのは凛が埋め込んだ感覚だけ。だから——その感覚を、もっと深く、もっと強くするしかない。


記憶がなくても、わたしの声を求めるように。記憶がなくても、わたしのそばにいたくなるように。


それは——航を繋ぎ止めるためだ。


それは——凛が、航を手放したくないからだ。


「……五つ数えたら目が覚めるよ。一——二——三——四——五」


航が目を覚ました。すっきりした顔で、少しぼんやり微笑んでいる。


「今日もすごく気持ちよかった。なんか、回を重ねるたびに深くなる気がする」


「うん。慣れてきたんだね」


凛は穏やかに言った。


航が帰ったあと、凛は一人で部屋に残った。椅子に座り、天井を見上げた。


あの暗示は、やりすぎだっただろうか。


いや——やりすぎだと知っている。それでもやった。やめられなかった。


凛は自分の手を見つめた。まだ航の手の温もりが残っている。


——わたしは、どこまで行くんだろう。


問いかけた。けれど、止まるつもりはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ