忘却
三日後のセッション。
航をいつものレンタルスペースに迎え入れたとき、凛はすでに覚悟を決めていた。屋上のことを消す。いつもと同じように。
「航くん」
手を握り、名前を呼ぶ。航の目が閉じた。
凛はいつもの手順で航を深いところまで導いた。水の底。神殿。白い柱。光。
航の呼吸が十分に深くなったのを確認してから、凛は口を開いた。
「航くん。三日前の午後のこと。屋上で、わたしと話をしたこと。覚えてる?」
「……覚えてる」
「それはね、もう遠い記憶になっていくよ。夕焼けの色が少しずつ薄れるみたいに。放課後、屋上に行ったような気はする。でも何を話したかはもう思い出せない。わたしが何を言ったかも、わたしがどんな顔をしていたかも、水の底に沈んでいく」
「……沈んでいく」
「残るのは——わたしのそばにいると安心する、という感覚だけ。温かかった、という記憶だけ。具体的な言葉は消えて、感覚だけが残る。いい?」
「……いい」
凛は目を閉じた。
いつもと同じことをしている。何度もやってきたことだ。航の記憶を水の底に沈め、凛だけが覚えている。いつもの手順。いつもの作業。
——なのに、今日は手が震える。
屋上で、航は凛の愚痴を三十分聞いてくれた。凛が教授を罵っても、先輩を見下しても、「良い子のレッテル」に吐き気がすると言っても、隣にいてくれた。「逃げる理由がない」と言ってくれた。
その記憶を、今から消す。航の側からだけ。
凛の側には残る。あの肩のもたれ方。シャンプーの匂い。「変なやつ」と言ったときの、短い笑い。全部残る。
航は何も覚えていない。次に会ったとき、彼はまた何も知らない顔でサークルに来て、凛に少し緊張した笑顔を向ける。屋上の会話はなかったことになる。
——便利だ。
——さみしい。
二つの感情が、凛の中でぶつかった。
凛は航の手を握る力を強くした。
「……航くん。もう一つだけ」
「……なに」
「わたしの声を聞いているとき——前よりもっと、心地よくなる。わたしの声は、あなたにとっていちばん安心できる音。聞いているだけで力が抜けて、温かくなって、ずっと聞いていたくなる。——それは、回を重ねるたびに、深くなっていく」
これは屋上の記憶を消すための暗示ではなかった。もっと根本的な——凛への依存をさらに深める暗示だった。
なぜ、余計なことをした。
凛は自分に問いかけた。答えはわかっていた。
記憶を消すたびに、航と凛の間には何も積み上がらない。日常の触れ合いは消え、残るのは凛が埋め込んだ感覚だけ。だから——その感覚を、もっと深く、もっと強くするしかない。
記憶がなくても、わたしの声を求めるように。記憶がなくても、わたしのそばにいたくなるように。
それは——航を繋ぎ止めるためだ。
それは——凛が、航を手放したくないからだ。
「……五つ数えたら目が覚めるよ。一——二——三——四——五」
航が目を覚ました。すっきりした顔で、少しぼんやり微笑んでいる。
「今日もすごく気持ちよかった。なんか、回を重ねるたびに深くなる気がする」
「うん。慣れてきたんだね」
凛は穏やかに言った。
航が帰ったあと、凛は一人で部屋に残った。椅子に座り、天井を見上げた。
あの暗示は、やりすぎだっただろうか。
いや——やりすぎだと知っている。それでもやった。やめられなかった。
凛は自分の手を見つめた。まだ航の手の温もりが残っている。
——わたしは、どこまで行くんだろう。
問いかけた。けれど、止まるつもりはなかった。




