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屋上

十月半ば。秋晴れの午後。


航にとって、凛の存在は生活の中心になりつつあった。彼女の声を聞くと肩の力が抜け、手が触れると思考が穏やかに溶けていく。


おかしいとは思っている。普通の瞑想で、こんなに誰かに惹かれるだろうか。こんなに従いたくなるだろうか。


けれど、やめたくなかった。自分が堕ちていく自覚はある。それでも——いや、だからこそ——この甘い墜落を手放したくなかった。それは恋に堕ちているのだと、航は解釈していた。


---


五限の講義が終わり、航がスマートフォンを見ると、凛からメッセージが入っていた。


『屋上に来て。一人で』


航はとくに疑問も持たず階段を上がった。凛に呼ばれたら行く。それはもう呼吸と同じくらい自然な行動原理になっていた。


屋上の扉を開けると、フェンスの手前に凛が座っていた。コンクリートの床に直接、膝を抱えて。


「——遅い」


低い。ぶっきらぼう。不機嫌を隠す気がまるでない声。


「ごめん、講義が——」


「いいから座って」


航は言われるまま隣に腰を下ろした。


「ゼミの発表、押し付けられた」


凛は航を見ようとしなかった。膝を抱えたまま、遠くのビル群を睨んでいる。


「来月の合同発表。本来は三年の先輩がやるはずだったのに、急に『凛ちゃんなら任せて安心だから』って。断れるわけないだろ、あの空気で。ただの怠慢を、わたしへの信頼って言葉でラッピングしてるだけ。気持ち悪い」


凛の横顔は鋭かった。普段の柔らかさが一切ない。


航は——この顔を知っている気がした。いつどこで見たのかは思い出せないのに、既視感だけが胸の奥で揺れている。


「……大変だったね」


「大変だったね、じゃないんだよ」


凛が初めて航を見た。睨んだ、に近い目つきだった。


「そういう当たり障りのない返し、いちばん嫌い。みんなそう。『大変だったね』『頑張ってるね』『さすがだね』。全部うわべ。わたしの何を見てそれ言ってんの」


航は口を閉じた。怒られている。同時に、不思議な感覚があった。


——これが、桐島さんの本当の声だ。


なぜそう思うのかわからない。けれど確信があった。この不機嫌で、棘だらけの声のほうが、ずっと本物に近い。


「……じゃあ、なんて言えばいいかわからないけど。聞いてる。それだけは、本当」


凛は航を見つめた。数秒。それから、ふっと肩の力を抜いた。


「……知ってる」


怒りが引いて、その下にあった疲労が露出する。


「あんただけだよ。わたしがこういう話しても、逃げないの」


「逃げる理由がない」


「ある。普通はある。こんな面倒くさい女、みんな避ける」


「俺は普通じゃないのかも」


凛は一瞬きょとんとして——それから、短く笑った。鼻で笑うような、小さな笑い。けれどそこに含まれていたのは軽蔑ではなかった。


「——ほんと、変なやつ」


凛は膝を崩し、足を投げ出した。肩が航の肩にもたれかかる。シャンプーの匂い。


「……もうちょっとこうしてていい?」


「うん」


「あと三十分くらい愚痴言うかも」


「どうぞ」


凛は堰を切ったように話し始めた。ゼミの教授のこと。サークルの先輩のこと。高校時代から貼りついている「良い子」のレッテルの息苦しさ。


航はただ聞いていた。相槌を打ち、ときどき質問し、凛が黙れば黙って待った。凛の言葉を聞いていると、不思議と心地よかった。この声をもっと聞いていたいと思った。


航がその理由を知ることはない。


凛はそのことを知っていて——肩を預けたまま、航の横顔を盗み見た。穏やかな目で凛の毒を受け止めている顔。


——ずるいな、わたし。


十八年間、こんなふうに話を聞いてくれる人がいなかった。仮面を外した自分を、隣に置いてくれる人がいなかった。


「——ねえ」


「ん?」


凛は航の手に、そっと自分の手を重ねた。


「ありがとうとは言わない。わたし、素直にお礼言うの嫌いだから」


「知ってる」


「知ってるんだ」


「なんとなく」


「——変なやつ」


二回目のその言葉は、もうほとんど愛称のような響きだった。


ただ——この時間は長くは続けられない。航が覚えていては困る。凛が仮面を外した顔を。凛の毒舌を。この屋上のことを。


次のセッションで、沈めなければならない。水の底に。いつものように。


凛は航の肩にもたれたまま、空を見上げた。雲が東に流れていく。


——もう少しだけ。もう少しだけ、このままで。


消す前に、もう少しだけ。

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