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沈水

図書館を出ると、夜気が頬に触れた。五月の終わりの、湿気を含んだ生ぬるい風。


航は階段を降りながら、頭がうまく働かないのを感じていた。ぼんやりとした眠気に似た感覚。けれど不快ではなかった。妙に心地よかった。


「なんか、ぼーっとするな……疲れてるのかな」


「レポート続きだもんね。今日は早く寝たほうがいいよ」


「うん。——あ、桐島さん」


「ん?」


「今日、ありがとう。なんか、会えてよかった」


自分でもなぜそう言ったのかわからなかった。凛と特別な会話をした記憶はない。なのに——この安心感はなんだろう。


「——どういたしまして」


凛は微笑んだ。


正門の前で別れ、航は自分のアパートに向かって歩き出した。


凛はその背中を見送っていた。航が角を曲がり、姿が完全に見えなくなるまで。


それから——笑顔を、脱いだ。


ゆっくりと、指の皮を剥ぐみたいに、丁寧に。


残ったのは、疲弊した顔だった。


凛は自分の右手を見下ろした。さっきまで航の手首を掴んでいた手。まだ、あの脈拍の感触が指先に残っている。


航の意識を沈めたのは、凛の声だった。航の記憶を消したのは、凛の言葉だった。航が「会えてよかった」と笑ったのは、凛がそう仕向けたからだった。


——全部、わたしがやった。


怖い。


けれど——握りしめた手を開いたとき、掌にはまだ航の温もりが残っていた。


その温もりが消えるのを、凛は惜しいと思った。


「…………もう一度だけ」


呟いた声は、誰にも聞こえなかった。


---


一週間、凛は航を観察した。


サークルのミーティングで隣り合わせたとき、さりげなく話を振ってみた。図書館の記憶は完全に消えていた。航は凛に対して、以前と変わらない態度で接してきた。


安堵した。はずだった。


なのに、凛の中で、あの夜の感覚が消えない。授業中、ノートを取る手が止まる。航のあの顔——力の抜けた、無防備な顔が、不意に脳裏に浮かぶ。


もう一度、あの状態の航と話してみたい。仮面を外した自分のままで。そしてそのあと、また忘れてもらえばいい。


——本当に「もう一度だけ」で済むのか。


その問いを、凛は無視した。


---


「藤崎くん、最近ちゃんと眠れてる?」


六月の初め、サークルの活動後に声をかけた。


「え、まあ……正直あんまり。レポートが多くて」


「だよね。わたしも最近睡眠の質が気になって、瞑想を始めたんだ。すごくいいよ。よかったら一緒にやってみない? わたしも練習相手がほしくて」


「い、いや、迷惑なんかじゃ。やりたい。やってみたい」


——ごめんね、藤崎くん。


---


大学近くのレンタルスペースの一室。防音で、外から見えない。白い壁と木の床のシンプルな部屋に、向かい合うように椅子を二つ置いた。


凛は前回よりも入念に準備していた。本を読み、動画を見て、技法を学んだ。今日は即興ではない。


「じゃあ、始めるね。楽な姿勢をとって。足は床について、手は膝の上」


凛は自分の呼吸を整えた。


「目を開けたまま、わたしの声に耳を傾けて。今この部屋に聞こえるのは、わたしの声と、あなた自身の呼吸の音。それだけ」


航の呼吸を観察し、その速さに自分の言葉のリズムを重ねていく。


「呼吸が落ち着いてきたね。肩が楽になった。あなたの身体は、ちゃんとリラックスの仕方を知ってる。頭で考えなくても、身体が勝手にほどけていく」


声のトーンを落としていく。航の呼吸が、凛の言葉に追従し始める。


「まぶたが重くなってきたら、閉じてもいいよ。——そう。上手」


航の目が閉じた。図書館のときよりも穏やかに、自然に。


「これから三つ数えるね。三つ目で、一度だけ目を開けて。開けたらすぐにまた閉じる。そうすると、もっと深くリラックスできるから」


「一——二——三。目を開けて——はい、閉じて。すごくいいよ。さっきより深い」


「もう一度。一——二——三。開けて——閉じて。どんどん深くなる。わたしの声が、あなたを深いところまで連れていく」


「今、あなたの心の中に景色が見えるかもしれない。安心できる場所。もし見えたら、教えて」


長い沈黙。


「……水の底」


「水の底?」


「……深い湖の底。青い。静かで……光が遠くに見える」


「綺麗な場所だね。その湖の底が、あなただけの安らぎの場所。わたしの声が聞こえるあいだ、あなたはいつでもそこに行ける。わたしの声が、水面から降りてくる光みたいに、あなたに届く」


凛はここで、仮面を外した。


「——正解だよ、藤崎くん」


低くて、平坦で、すこしだけ刺のある声。凛の地声。


「わたしは嘘つきだよ。みんなの前では良い子のふりをしてる。……本当のわたしは、ひどいよ。性格悪いし、人のこと見下してるし。知ったら嫌いになるよ」


航の唇が動いた。


「……べつに」


「べつに?」


「……嫌いにならない。たぶん」


なにかが、凛の胸の中で決壊した。涙が一筋、頬を伝った。


「——ばか」


十八年間、「嫌いにならない」と言ってくれた人間は、一人もいなかった。


しばらく黙ったあと、凛は呼吸を整え直した。忘却の暗示をかけ、五つ数えて航を覚醒させた。


「——あー……すごい。なんか、めちゃくちゃ寝たあとみたい」


「でしょ。瞑想、合ってるみたいだね」


凛はいつもの笑顔を貼りつけた。


「また、やってもいいかな」


航が言った。凛は一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——本当に嬉しそうな顔をした。仮面ではない、剥き出しの表情が漏れた。


「もちろん。いつでも付き合うよ」


——いつでも。何度でも。


「もう一度だけ」は、もう嘘になっていた。

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