仮面
2作目。猫をかぶった優等生(本当は毒舌)に催眠を掛けられてしまうお話です。
桐島凛が名前を呼ぶと、頭の奥がとろりと甘くなる。
いつからこうなったのか、航には思い出せない。思い出せないのに、身体だけが覚えている。彼女の声は安全で、彼女の手は温かくて、彼女に従うことは——気持ちいい。
おかしい、とは思う。
これは、その「おかしい」が始まった日の話だ。
---
桐島凛という人間を、一言で表すのは難しい。
文学部英文学科の首席。弓道部の新人戦で県三位。ボランティアサークル「つむぎ」の副代表。入学からわずか半年で、その名前は学部を超えて知れ渡っていた。
藤崎航がはじめて桐島凛を認識したのは、四月のサークルオリエンテーションの日だった。
「——よかったら、見学だけでもどうですか」
人混みの中で、彼女は柔らかく微笑んでいた。「つむぎ」のブースに立ち、通りかかる新入生の一人ひとりに丁寧に声をかけている。艶のある黒髪をハーフアップにまとめ、白いブラウスの襟元にはちいさな銀のブローチが光っていた。化粧気は薄いのに、不思議と目を引く。整った顔立ちのせいだけではない。所作の一つひとつが洗練されていて、同い年とは思えない落ち着きがあった。
航は気がつけば足を止めていた。
「あ、興味ありますか?」
凛がこちらを見た。切れ長の目が、ふっと柔らかく細められる。
「あ——いや、なんとなく」
「なんとなく、大歓迎です」
彼女はそう言って、活動紹介のチラシを差し出した。受け取る指先が、ほんのわずかに触れた。冷たくて、滑らかだった。
サークルに入ったのは、正直に言えば、彼女がいたからだ。もちろんボランティア活動自体に興味がなかったわけではない。けれど、あの微笑みがなければ、足を止めることもなかっただろう。
航はすぐに気づいた。自分と同じ理由でここにいる男が、少なくとも三人はいることに。
桐島凛は、誰に対しても等しく優しかった。困っている人がいれば真っ先に声をかけ、後輩の相談には嫌な顔一つせず応じた。先輩たちからの信頼も厚く、二年生になる頃には代表に推される声すらあがっていた。
完璧だった。あまりにも完璧で、航はときどき不安になった。
——こんな人が、本当にいるのだろうか。
その疑問は、五月の終わりに、思いもよらない形で答えを得ることになる。
---
その日、航は忘れ物を取りに大学の図書館に戻った。
閉館間際の図書館は静まりかえっていた。四階の自習室は照明が半分落とされ、窓の外には薄暮の空が広がっている。航の忘れ物——ノートパソコンの充電器——は、昼間使っていた奥の席に残されているはずだった。
足音を殺して自習室に入ると、奥のほうに人影があった。
桐島凛だった。
彼女は窓際の席に座り、スマートフォンを見つめていた。画面の青白い光が、横顔を冷たく照らしている。いつものハーフアップは解かれ、髪が肩にかかっていた。
航は声をかけようとして——止まった。
凛の表情が、見たことのないものだったからだ。
唇がわずかに歪み、目は据わっている。嫌悪とも倦怠ともつかない、暗い感情がその整った顔に貼りついていた。スマートフォンを見る目つきには、あの柔らかさの欠片もない。
彼女はスマートフォンを机に伏せると、小さく息を吐いた。
「——ほんと、くだらない」
低い声だった。航が知っている桐島凛の声ではなかった。
「なにが『凛ちゃんのおかげで助かったよ』だ。自分でやれ。いつまで人に頼ってるんだ」
吐き捨てるように呟く。その口調には、日頃の穏やかさの影も形もなかった。
「みんな自分のことしか考えてない。わたしに何をしてくれた? 何もしてくれてないだろ。いつもいつも——」
航は息を止めた。動くことも、視線を逸らすこともできなかった。
そのとき、航の足元で充電器のコードが椅子の脚に引っかかり、かすかに音を立てた。
凛の目がこちらを向いた。
一瞬、時間が止まった。
暗い目と、航の目が交錯する。凛の瞳孔がわずかに開くのが見えた。驚愕。そして、それを覆い隠すように、別の感情が浮かぶ。
恐怖だ。
一秒。二秒。三秒。
薄暮の自習室で、二人は見つめ合ったまま動かなかった。
そして——凛の目から、恐怖が消えた。
消えたのではない。しまわれたのだ。航の目の前で、凛の表情から暗い感情がすうっと引いていく。毒を吐いていた口元が整えられ、据わっていた目が柔らかさを取り戻し、強張っていた頬がゆるむ。
凛は微笑んだ。
いつもの、完璧な微笑みだった。
「——あ、藤崎くん。忘れ物?」
穏やかな声だった。
航が知っている桐島凛の、あの声だった。
三秒前に聞いた声と同じ人間のものだとは、とても思えなかった。
航は答えられなかった。答えられないまま、凛の笑顔を見つめていた。
——今の。
——今のは、なんだったんだ。
凛は首をかしげた。心配そうに。優しく。完璧に。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
その笑顔が——あまりにも自然だったことが、航には一番怖かった。




