椿の精に魅入られた、村人リクの末路
※ダークファンタジー風味
ぽつり。と、雨が降ってきた。
リクは、いつの間にか灰色になっていた空を見上げる。
この村は、小さい。
住民の数は五十ほど。
ちょっと奇抜な行動をしたら、明日には村の全員が知っている。
まるで、一つの家族のような村だった。
だからこそ、リクは、陰に潜むように生きる。
少しでも噂にならないように。少しでも村人から忘れられるように。
それは、リクの生い立ちにも関係していた。
リクの母は、村の娘。父は、名も顔も知らないどこかの町の憲兵だ。
その昔、旅行中に道に迷った父を、母が助けて、村に案内したらしい。
それから――どっちが言い寄ったのかは知らないが、一夜を共にした。
父は翌朝村を旅立ち、行方が分からなくなった。
憲兵だと知っているのは、母が会話の流れで聞いていたからだ。
そうして、どんな神様の悪戯なのか、1年後、リクが生まれた。
当時は、口さががないことも言われたらしい。
母は、リクが生まれてから、しばらく、まるで幽霊のように気配を消して生きてきた。
たった一晩だけ会った父のことを、心の頼りにして。
今では、だいぶましになった。
だが、生まれてきてからしばらく、息をひそめて暮らしていたせいで、リクはその癖が抜けないでいた。
――息苦しい。抜け出したい。
たまに、ふとそう思う。
でも、この村から出るなんて考えられない。
そうなった後なんて想像もつかないし、ましてや手段なんて考えつかない。
唯一の手掛かりは、憲兵の父だが、どこに暮らしているかもわからない。
それに、会っても、認知すらしてくれないだろう。向こうはリクの存在すら知らないのだ。
リクはため息をついた。
雨が、大粒になってきたのだ。
屋根の下に入らなければ、風を引いてしまう。
座っていた丸太から、腰を上げると、「ねえ」とどこかから女性の声が聞こえた気がした。
リクは目を瞬かせる。
村の住人の声ではない。
「あんた。聞いてるの?」
うわ、とリクは大声を出した。
背後から、誰かに服を掴まれている。
リクは恐る恐る後ろを見ると、そこにいたのは、見なれない豪奢な服を着た女性。
顔には粉雪もかくやという白粉。
頬はほんのり赤く、口紅は紫がかった面妖な赤だ。
黒曜石のような艶のある髪は、櫛で纏められ、椿の花が一輪飾られている。
見慣れない服は、確か東国の衣装だ。
裾も袖も長く、さらには帯まで締めている。
見るからに暑そうだ。
なのに、汗一つかいていないのが、なんとも不気味だった。
「あたくし、ツバキっていうのよ。ぼうっと歩いていたら、ずいぶんと遠くに来てしまって」
良かったら、しばらく面倒をみてくれない?
艶やかにツバキは笑う。
――村の人間は、警戒心が強い。
余所者を厭い、心を開こうとはしない。
それは、リクと言えども同じだった。
それなのに。リクは無意識に頷いていた。
まるで、それしか許されていないかのように。
そうして、リクとツバキの生活は始まった。
ツバキは快活な女性だった。
ハキハキと物事を言い、皆を驚愕させる。
かと思ったら、美しい瞳に弧を描き、コロコロと笑う。
村人は、彼女に夢中だった。
彼女は、顔立ちも恰好も村の人間と違うのに、自然体の魅力を放っていた。
その一人だったリクは、しかし、時がたつにつれ、違和感を覚えるようになる。
何かがおかしい。
なぜ、彼女はここまで皆に受け入れられているのだろうか?
まるで、狐にでも化かされているような気分だった。
彼女は、そんなリクに目ざとく気づいた。
「リク? どうしたの」
何がおかしいのか、くすくすと笑いながら、つうっとその細い指で頬を撫でてくる。
あまりに艶めかしい手つきに、しかし、リクは自然とそれを受け入れていた。
普段だったら、ありえないのに。そのことに、遅れて気づき、リクはまた呆然とする他ない。
「いや――君はそろそろ帰らなくていいのか?」
そう言うと、ツバキは驚いたように声を上げる。
「まだ惑わされない男がいるなんて」
「? ――なんて?」
いいえ。とツバキは含み笑いをする。
「そろそろ飽きてきたところだったけれど。――あなたを落としてからにしましょう」
ツバキはひたりとリクの胸板に手のひらを当て、つつ、と滑らせる。
その口元は、いつもの艶やかな笑み。なのに、瞳はまるで獲物を甚振る獣のように楽しげだ。
ぞくり、とリクが背筋を震わせると、ツバキは高らかな笑い声を上げた。
ああ。頭がぼうっとする。
今日も、椿の花の芳香が漂ってきて、リクは頭を振った。
ツバキと会ってから、半年が立った。
あれから、村の様子は変わっていった。
まず、何をするにもツバキを優先するようになった。
男は、獲物が取れたらまずツバキのところへ持って行った。
女の織物は、少しずつ着物になっていった。
気づいたら、村の半数が着物もどきになっている。
村は以前にも増して閉鎖的になり、この数か月は、出入りの商人すら近づいていない。
朝はツバキに声をかけに行き、夜は祈りでも聞くように、ツバキの声を聞きにいった。
そのどれもに、ツバキは当たり前のように応じた。
そして、もう一つおかしなことが起きている。
リクが朝井戸に水を汲みにいくと、村人と談笑をしていたツバキが頬を赤くして駆け寄ってきた。
どうやら、ツバキはリクに惚れているらしいのだ。
なぜかはわからないけれど――いや、そんなことどうでもいい。
重要なのは、村の中心であるツバキが惚れた様子を隠さないことだ。
そのおかげで、リクは、生まれて初めて村を堂々と歩けた。
ツバキが腕を組もうと寄り添ってくる。それだけで、村人はリクに憧れの眼差しを向けた。
正直、気持ちがいい。
今まで、リクを見れば顔を顰めていた奴らが、今は腑抜けた表情をしている。
こんな愉快なことが他にあるだろうか?
理性は、ツバキが視界に入るたびに、いまだに警鐘を鳴らしていた。
けれど、それがなんだというのだろう?
リクは、今、自由なのだ。
そして、今、リクが最も恐れていることは、この地位を失うことだった。
自由になったはずのリクは、今や、ツバキに嫌われることを誰よりも恐れていた。
この地位は、ツバキによってつくられた諸刃の剣のようなものだ。
だから、リクはツバキの言うことを、表面上無下にしているように見せながら、その実なんでもやった。
親元から離れ、一軒家を立てた。
共に暮らし、共に生計を担った。
まるで、夫婦のようだった。
リクは、ツバキに恋をしていなかったが、執着はしていた。恐れてもいた。
――だから、ツバキを抱いた。
布団を並べ、灯りを消し。
衣擦れの音と、しっとりとしたツバキの声色になんの抵抗もしなかった。
それでも、本能はどこかで拒否をしていたのだろうか。
リクは、キスだけは、断固としてしなかった。
そうして、さらに半年が立った。
そう、半年しか立ってない。なのに、ツバキは子を産み落とした。
可愛い、可愛い、玉のような女の子。
その子は、数日後には、言葉を話し、色香を纏っていた。
肩まで伸びた黒髪に、長いまつ毛。自分の遺伝子は一ミリも感じられない。
そこでようやく、リクははっきりと、ツバキと、ツバキとの子がおかしいことに気が付いた。
いや、おかしいなんてものじゃない。
ツバキは、ツバキの子は――人ならざるものだ。
声を震わせながら、ツバキに問うと、ツバキはくすくすと耳障りな声を出す。
それを、美しいと思ってしまう自分に嫌悪感を抱いた。
「旦那様が、キスをしてくれてたら、男の子が生まれたのに。ねえ」
ぞっとした。
「旦那様、それでも、あんたはあたしから離れられないでしょう? あたしがいなくなったら、前のように、息を潜めて暮らさなければいけなくなるもの」
でも、とツバキは白々しく微笑む。
「正体がばれてしまったなら、これでおしまい。あたしは立ち去ります」
待ってくれ、というかすれた声が腹の奥から絞り出される。
「大丈夫。あたしたちの子が、全てうまくやってくれます。もう半年もすれば、この子は立派な大人よ」
生まれて数日で歩けるようになったツバキの子を、ツバキは愛おしそうに撫でた。
リクは、ツバキから吐き出される全ての言葉に嫌悪を覚えた。
それと同時に、魅力を感じずにはいられなかった。
ツバキの子を見て、リクも頭をなでる。
その一瞬でツバキは、目の前から消えていた。
リクは、葛藤する。
ツバキはヒトではないが、我が子もまたヒトではない。
このまま育て上げていいものだろうか。
ツバキが来てから、村は貧しくなった。
商人の訪れが途絶え、村人もまた、ツバキにかまけて十分に働こうとしなかったからだ。
このまま、ツバキと同じ特性を持ったツバキの子を育てていれば、村はいつか崩壊しかねない。
その一方で、ツバキが来てから、リクの暮らしは良くなった。
村人からの扱いもさることながら、ツバキへの貢物をリクも一部頂いていたのだ。
自分に良い扱いをしてこなかった村人のために、自分の利益を捨てるのは、正しいことだろうか。
リクには判断が付かなかった。
だが、やはり、人ならざる者への恐怖は、依然としてあった。
だから、リクはツバキの子は「良い子」に育てることに決めた。
人を害することは、してはならない。
困っている人を率先して助けなさい。
相手の意思を尊重しなさい。
健全に愛し、愛されることが人としての幸せだ。
子供は、懸命に学び、聖職者もかくやというような良い子になった。
村人もツバキの子を温かく見守った。
リクは満足した。
これで、全てがうまくいく。と。
それは、崩壊の前の静けさに他ならなかった。
始まりは、ツバキの子の評判を、我が国の王が聞きつけたことから始まった。
ツバキが去ってから、商人の出入りも少しずつされていたので、そこから情報が漏れたのだ。
「容姿も心根もうつくしい女性がいるらしい」
身分制の世の中にも関わらず、もしくは、だからこそ、王はツバキの子に会いたいと言い出した。
リクは、焦った。
ツバキの子を手放しては、自分の立場が危ういし、第一この人ならざる化け物を王の御前に差し出すなど、ありえない。
だが、リクの意見は聞き入れられなかった。
リクはそれでも反論を口にし、あまつさえ、王の前に飛び出した。
それで、憲兵に押さえられた。
王は白々しく、リクを牢に入れるように言った。
牢に入れられても、リクは特に拷問をされることはなかった。
日の入ってこない冷たい石壁は、リクの心を荒ませるには十分だったが、それでも殺されないだけましなのだろう。
数日立ったある日、日に二回の、パンと具なしの塩辛いスープというしょぼい食事に、なぜかチーズが付いてきた。
リクは首をひねったが、めったにない機会なので、ありがたく頂戴した。
それから、たまにパンとスープの他に、別の物が付いてくるときがあった。
それは、決まって、当直がやつれた憲兵の爺さんのときだった。
その爺さんは、ぼけているのか、夜の巡回中、独り言をよくこぼした。
そこで、リクは外の状況をおぼろげながら理解した。
ツバキの子は、リクが牢に入れられたあと、ほどなくして王宮に連れていかれたらしい。
それから、王に寵愛され、妾として王宮入りが決まったらしい。
王妃はさぞご立腹で、ツバキの子に嫌がらせを繰り返しているとか。
王も、王妃も、なんと愚かなことか。
リクはハッと嘲笑をこぼした。
人ならざるツバキの子を、なんとか村に閉じ込めていたのに。
虎の尾を自ら踏みに行くとは、自殺行為もいいところだ。
今は大人しくしていても、ツバキのように、ツバキの子も王宮の人々を虜にして、自分の過ごしやすいように変えていくに違いない。
好きなものは溺愛し、嫌いなものは抹殺して、国をおもちゃみたいに振り回すのだ。
そう思っていたのに、幾度日を重ねても、リクの耳にその報せが届くことはなかった。
届くのは、王妃の苛烈さと、ツバキの子の痛ましさだけ。
リクは眉をひそめた。ツバキの子はいったい何を考えているのか。
動きがないのが不気味であったし、また、腹立たしくも思った。
自分をあれだけ振り回した存在が、ただ黙ってやられているのが許せなかった。
そこで、リクはそれとなく憲兵の爺さんに、ツバキの子に手紙を渡してくれと頼んだ。
憲兵の爺さんは、意外にもそれを承諾した。
ほどなくして、ツバキの子はリクが入れられている牢屋の前にやってきた。
「お父さん……」
「大変なことになっていると聞いている。助けてやれなくてすまないな」
リクはいい父親のように案じた顔を作った。
「何か苦しいことや、我慢していることはないかい?」
話を聞いてやることしかできないが、と目線を落とす。
ツバキの子は、息を詰まらせた。
「あのね。村の外は、良い世界ではなかったの」
お父さんが教えてくれたような、良い人はいなかった。
そう苦しむようにツバキの子は言葉を吐き出す。
「もう、私。私だけ――『良い子』でいたくない」
リクは絶句した。
ツバキの子は、こんな状況になっても、自分の言いつけを守ろうとして苦しんでいたのか。
そんな人間らしい感情があるなんて、という感想が脳裏をよぎる。
それと同時に、これならまだ制御が効くと心の奥で安堵した。
「――『良い子』じゃなくなるのは苦しいだろう」
「でも」
「お前の好きなように生きれる方法が、一つだけあるよ」
制御が効く。1つ悩みを解決したら、人はもっと欲張りになる。
今制御が効くなら、今後も効くのではと仮定し、楽観視してしまう。
リクは、ツバキの子と違い、ただの人間だ。
だからだろうか、どうしようもなく愚かなのだ。
「国母になりなさい。まだ跡継ぎの生まれていない状況で、男児を生めば、お前が王の次に偉い存在になる」
そうすれば、自分は国母の父だ。
「でも、そんな簡単に授かれるものでは」
「……娘にこんなことを言いたくは、ないが。お前の母は、口づけをすれば、男児が授かれる血筋なんだよ」
ツバキの子は、小さく震えた。
その夜、変な夢を見た。
ツバキの子と会ったからかもしれない。
ツバキが、牢を尋ねてくる夢だった。
「あんた。気分はどう?」
「最高だよ。これから、国母の父になれるんだからな」
「そう」とツバキは笑う。
「あんたに感謝をしなくてはね。おかげで、私の血がこの国の中枢に入ることができる」
リクは、ハッと顔を上げる。
人でないツバキが、人の世に紛れ込む。勢力を伸ばす。
それは、リクが思っているよりまずいことなのかもしれない。
「あたしは東国から来た――この国の言葉でいうなら、『精霊』というやつさ。別に、人間にはさして興味はないけどね。道中にこの土地に住処をもつ精霊と、諍いを起こしてね」
腹いせに乗っ取ることにした。とツバキはコロコロ笑う。
「人間とは、不思議なもんでねえ。ただの動物なのに、精霊殺しの資質を備えている」
だから、自分の血を混ぜた子を、人間側に送り込むのだ。
そういうツバキの表情は、ちっとも深刻そうではない。
きっと、暇つぶしか何かなのだろう。ただ、愉快なだけのゲームにすぎない。
「この地の精霊を根絶やしにして、私の血を持つ子供を増やそう。従順な子供たちによって、私の力を増え、蓄えられて、やがて椿の花を満開に咲かすんだ。――おや、抵抗はしないのかい?」
リクは、疲れたように肩を落としていた。
「ツバキ。お前に出会ってから、今まで、お前に勝てると思ったことは、一度もないよ」
ふらりと立って、ツバキのそばに寄る。
出会ったときから変わらない、美しい顔を引き寄せて、影を重ねる。
ツバキは、驚いたように、もしくは面白そうに喉を鳴らした。
「男児が欲しいのかい?」
「ただ、お前が欲しいだけだよ」
精霊を殺せるのは、精霊だけなのだ。
春。ツバキの子は、男児を生んだ。
国で盛大に祝う際には、恩赦が出る。
その一環で、リクは牢から出ることができた。
なぜかずっとよくしてくれてた憲兵の爺さんに、礼を言う。
憲兵の爺さんは、心なしか、自分と顔立ちが似ている気がした。
……ただ、そう思いたいだけかもしれないが。
これからどうしようかと考える。
村に帰ってもいいが、なんとなくツバキの子を、近くで見ていたいと思った。
それを見守っていると取るか、見張っていると取るかは、人次第だろう。
とにかく日雇いの仕事を探して、貧乏なその日暮らしを続ける。
数か月立ったある日、リクが住んでいるアパートには、布にくるまれた男の子の赤ん坊が置かれていた。
ツバキとそっくりだった。ほんの少しだけ、自分の面影もある。
口づけだけで子供ができるだなんて、本当にツバキは人間ではないんだなと苦笑してしまう。
今更ではあるが。
リクは、その子を正義感のある子に育てることにした。
ツバキの子どもといえども、育て方次第で、価値観も行動も変わると、リクは知っている。
人間と精霊のハーフ。
精霊殺しの資質を持ち、かつ精霊の力をも持つ神殺しの子。
ただの人間では手に届きそうにないツバキだが、この子ならもしかしたらやってのけるかもしれない。
そう思わせるオーラがこの男児にはあった。
「どうか、ツバキをこの国から追い出しておくれ」
自分が蒔いた種を、回収してほしい。
子供に尻拭いをさせる親は、しかし、子供の事情など鑑みない。
ただ、想いをたくすのみだ。
数年後。男児は、通常では考えられないスピードで、成長した。
今ではリクより男児のほうが、背が高いくらいだ。
男児は、リクの想いを汲み取り、剣を取った。
騎士として、姉であるツバキの子に忠誠を誓う。
男児も、ツバキの子も、母親であるツバキに瓜二つだ。
血の繋がりがあることに疑いの余地はなかったが、二人とも、決してその素振りを見せなかった。
男児は、順調に剣の道を歩み、今では若手の中で、一番の有力者となった。
二人の望む望まないに関わらず、自然と、ツバキの子との接点は多くなっていく。
ツバキの子は、ある日、男児にポツリと独り言を零した。
「数カ月前から、パタリと連絡が途絶えた村がある」
まるで、リクとツバキの子の故郷の村のように。
ツバキの子は、震える指先を押さえるように、ぎゅっと握った。
男児は、二人の故郷の村には行ったことがない。
生粋の王都生まれだ。
だが、その村の話は父親からよく聞いていた。
母親である、ツバキを、国から追い出す。
それこそが、男児が生まれた意味であったから。
「そこに、『精霊』がいるのですね」
男児は淡々とした口調で言った。
「では、私が行ってきましょう」
ツバキの子は、喉を詰まらせ、「頼んだ」と呻いた。
リクは、男児の話を聞いて、確信した。
「ツバキがそこにいるんだね」
「おそらく。安心してください。父さんの言いつけどおり、必ず追い出して見せます」
リクは微笑んだ。
男児は、自分の望んだ通りに成長している。
「私も行こう」
「しかし」
「行かせてくれ。――これは、私とツバキが始めた物語なんだ」
自分で思っていたよりも、穏やかな声が出た。
リクは、ツバキを愛していない。
しかし、執着はしていた。恐れてもいた。
故郷の村から出た今であっても。もしくは、故郷の村にいた以上に。
だから、ツバキが国を出る瞬間を、リクも自らの目で見届けたかった。
かくして、リクと男児は、問題の村に辿り着いた。
結論から言えば、ツバキはそこに居た。
相変わらず、美しい容姿で、コロコロと笑って人間を掻き回していた。
そこは、異様な空間だった。
まるで村全体が悪い宗教にハマっているかのように、ツバキに全てを捧げていた。
救いと言うべきは、ツバキに特定の男がいないだろうこと。
それから、村の中で、ツバキの子供が生まれた様子がないところだ。
リクがいることに気がつくと、ツバキは瞳を輝かせてこちらへ近寄ってきた。
「あんた、なんでここにいるんだい?」
「お前に会うためだよ。ほら、今日は子どもも一緒なんだ」
ツバキは、リクを上から下までじろりと舐めるように見る。
それから、顔をほころばせた。
「こんなに大きくなったんだねえ。あたしたちの子が」
男児は、親しげに肩を叩かれても、ろくに反応をしない。
それでもツバキは気にせずに、コロコロと笑った。
「それで、あたしに何の用事があってきたんだい?」
わざわざ居場所を特定して、会いに来ただけなんてこと、ないだろう。
ツバキの声のトーンが、少し落ちる。
そういえば、東国では、ツバキの生花は縁起の良くないものだった。
確か首からポトリと落ちるように花が寿命を迎えるからだ。
なぜかそんなことを思い描きつつ、リクは穏やかな声で言う。
「お前には、この国を出ていってほしいんだ」
「――は」
「これ以上、私たちの土地で勝手されるわけには行かないからね」
椿は、ことりと首を傾げた。
「それは、あたしの勝手でしょう」
「言葉でお願いして、どうにかなるとは思ってないよ」
リクは男児に視線を向ける。
相変わらず表情の乏しい男児は、一つ小さく頷いた。
椿は呆れたように肩を竦める。
「確かに人間は精霊殺しの資質があると言ったがね。誰にでもできるわけじゃない。
その半人前の攻撃が、本当にあたしに通じると思うのかい?」
実際、いくらツバキとの子供だとはいえ、ツバキのような力のある精霊と、たった一人でまともに戦えるはずもない。
そう、一人ならば。
「ツバキ、お前はいい子を産んでくれたよ」
男児は、自然な動作で腰に備え付けた武器を抜く。
「これならば、お前にも通じるだろう」
それは、剣というよりも、むしろ刀と言う方が適切だろう。
棒のように細身な折れてしまいそうな刀身は、しかし、その刃の切れ味は本物だ。
陽の光が反射し、放つ色は、微かに赤い。
それは、確かに椿の花の色だった。
余裕そうな、どこかつまらなさそうなツバキの表情が、初めて崩れる。
それは、ツバキに致命傷をも与えうる銘刀だった。
それもそのはず。
この刀は、王都に残ったツバキの子が、身命をとして造った品なのだ。
鉄を打って作ったのではなく、精霊の持つ力を具現化させ、濃縮させたその刀。
半分とはいえ人間の身で、精霊の力を自身の持ちうる以上に使った代償はでかい。
ツバキの子の右腕は、刀を握った瞬間にハラハラと崩れ落ちてしまった。
それでもツバキの子は笑う。
役に立てるなら本望だ。
無事に帰ってきてくれと。
本当にいい子に育った。
それはもう、親殺しを成しうるほど、良い子に。
お陰で、ツバキを、この無邪気で邪悪な美しい精霊を、国から追い出すことができる。
それを望むのはもう、本能に近い行為だった。
リクは、男児に一つ頷く。
男児は油断なく、刃の切っ先をツバキに突きつけた。
震えはない。怯えもない。
もちろん、躊躇いもない。
当たり前だ。この男児は、今、この瞬間のために生まれてきたのだから。
男児は、淡々とした口調で、しかし、ほんの少しいつもより声を上擦らせて言う。
「この国から、出ていってください」
ツバキは、いやに冷静な様子で、ひたりと男児を見やる。
それから、刃に手の甲を沿わせた。
つうっと椿よりも赤い血が一筋、刃に流れる。
刃に流れた血が、空気を伝い、地面に波紋をつくる。
「本気で、こんなものであたしを追い出せると思うのかい? ――刃は届かなければ、意味がないというのに」
いつの間にか、男児の足元には、蔦が巻きついていた。
足を取られ、男児は転ぶようにして跪く。
その姿に、ツバキは目もくれなかった。
するりと男児の横を擦り抜け、リクの元に、ツバキは手を伸ばす。
細い手が顔に添えられても、リクはぴくりとも動かず、ツバキを見つめた。
「そんなに出ていってほしいなら、お望み通りにしてあげようか」
「条件は?」
「――リクが、ツバキについてくること」
自身を精霊に捧げるなら、この国から手を引いてやってもいい。
ツバキはいたずらげに、もしくは嘲笑うように、そう告げる。
「どうせできないだろう」とその瞳は雄弁に語っていた。
ツバキは、リクの心がこの国に――否、故郷の村に囚われていることを知っているのだ。
生まれたときから厭われ、受け入れられず。
だからこそ、心の底から、そこに居場所が出来ることを渇望していることを、知っているのだ。
それこそ、ツバキのような人ならざるものを受け入れてでも、故郷での居場所を手に入れようとするくらいに。
その執着を、情念を、捨てられないだろうとツバキは嘲笑する。
その見解は正しかった。
自分の居場所を得るために、リクは何でもした。
人ならざるものを受け入れ、子をなし、その子もまた利用した。
その一方で矛盾した行動もリクは取っていた。
ツバキの子を産み育てたのに、彼女が故郷を、国を壊すのを恐れ、阻止を試みた。
自らのことのみ考えたなら、ただ見守っていればよかった。
自分の子が天下を取るのを、待ち望めばよかった。
結果、無駄に投獄されただけだとしても、確かにリクは国を守ろうと動いたのだ。
今もリクは、ツバキを追い出そうとしている。
いくら国がツバキに弄ばれようが、リクには関係ないのに。
きっと、とリクは考える。
(ただ、執着しているのだ)
居場所が無かったゆえに、故郷に執着した。
居場所を作ろうとあがき、また居場所が壊されるのを厭った。
リクにとっての居場所は、故郷の村。国。
それは今となっては――娘と息子が守護する土地である。
ツバキは見誤った。
リクの執着の形を。それから執着と言えば、もう一つ――。
目の前で無邪気に笑う女。
精霊だと名乗る彼女は、どこまでも怪しく美しい。
リクにとって彼女は特別な存在だった。
最も彼女に魅了され、執着しない人間は存在するのだろうか。
そんな疑問すら、リクは思い浮かぶ。
なぜ自分の同行を、彼女が望んだかは分からない。
リクをからかうのが面白いのか、それともただの気まぐれか。
ツバキの瞳に一瞬だけ、リクに似た執着の色が見えた気がするが――やはり気のせいだろう。
この妖艶な精霊が、執着などという人間の感情を持っているはずがない。
ツバキはもっと純粋で、邪悪なのだ。
だが、ツバキの思惑が何にせよ。リクにとって、彼女の提案は魅力的だった。
何せ、故郷への執着と、ツバキの執着が共に満たせる。
居場所を守り、ツバキを自分のものできる状況は、願ったり叶ったりだった。
それに――ツバキから視線を外し、リクは男児を見た。
それから、王都の方角に目線を向ける。
ツバキの子が、今も居る方向に。
リクは、ツバキから生まれた子供たちに、愛情を持ったことはない。
化け物は化け物でしかない。
半分自分の遺伝子が混ざっていても、それは同じだ。
だが――感傷くらいは持っている。
赤子のときから、自らの手で育てたのだ。
例え、自分の地位を上げるためでしかなくとも、もしくはツバキを追い出す、あるいは手に入れる道具としか思っていなくても。
そこには確かに、思い入れがあった。
自身と引き換えに、子供たちの居場所を守ってもいいと思うくらいには。
どろりとした執着と、冷静な思考が同時に脳裏を駆け巡る。
それは、化け物に魅せられた人間の末路だ。
頬を滑るツバキの細い指を、リクはきゅっと握りしめた。
「しょうがないな。
――いいよ。共に行こうか」
ツバキは、目を見開いた。
次いで、ツバキの瞳に何かの感情が駆け巡る。
失望か、喜びか。それにリクは興味がなかった。
これから共に過ごすのだ。その過程で、一つ一つ知っていけばいい。
男児が、何事か叫ぼうとしているのが横目に見えた。
引き留めようとしているのだ。
そう男児の必死な形相から察しがついた。
それでも、リクは、ツバキの小さな細い手を掴み、歩き出す。
ツバキは思案気に虚空を見た。
「血は入れたし、いいかな」と男児を見て呟く。
この国にも、いずれ椿の花が咲くだろうと。
それから、リクの故郷と自らの子供たちへの一切の興味を、ツバキは失った。
リクの手を引っ張り、引き寄せる。ツバキはリクの腕に指を絡ませる。
リクは歩を緩め、ちらりとツバキの横顔を見た。
何か嬉し気にツバキが話している。
それをリクは聞き流しながら思う。
無邪気で邪悪な精霊の女。
触れるものを全て壊す、危うい存在。
それでいて、あるいはだからこそ、リクはツバキから目を離せない。
――ああ。
結局、リクは人ならざる者に魅せられた、ただの男でしかないのだから。
――なんて、美しい。
その艶やかな唇に触れたいと願う。
その麗しい声を自ら塞いでやりたいと想う。
だが、それは許されない。
一度でも触れてしまえば、災厄の芽が生まれてしまうだろうから。
一度でも触れてしまえば、何度でも触れたくなるから。
こうしてツバキと共に、リクは国を去った。
人間と精霊。互いに執着し、執着されて。
こうして束の間の平和を、人間は手に入れた。




