3話
「じゃあ、麻酔しますね」
歯科医師の先生がそう言った瞬間、タケルの背筋がぴんと伸びた。
注射器がトレーの上で静かに光っている。
その細さが逆に怖い。
(あれが俺の口に入るのか…)
先生は慣れた手つきで準備を進める。
ミナミさんは隣で吸引器を持っている。
タケルは、椅子の上で身動きできずにいた。
「ちょっとチクッとしますよ」
その言葉が、怖い。
“ちょっと”って、どれくらい?
“チクッ”って、どのレベル?
“しますよ”って、もう逃げられないってこと?
タケルは、目を閉じた。
でも、閉じると逆に意識してしまう。
唇が乾いている気がする。
(今、俺の口、注射に向いてない状態かもしれない…)
針が近づく。
タケルは、心の中で叫んだ。
(俺は今、人生で一番、無防備だ)
(これ、痛みの通過儀礼だ。男子校の洗礼だ。いや、違う。これは…)
針が刺さる。
チクッ。
(うわ、痛い。いや、痛くない。いや、痛い。いや、これ、どっち?)
唇がしびれてくる。
感覚がなくなっていく。
タケルは、思った。
(これ、もしかして…神経がバグってる?)
(俺、今なら口でペットボトル潰せるかも)
でも、そんなことを言える空気ではない。
先生は真剣な顔で器具を準備している。
ミナミさんは、静かに吸引器を持っている。
タケルは、唇を動かしてみる。
ぶよぶよしている。
(俺の顔、今、たぶん変な形してる)
「じゃあ、始めますね」
先生の声が、遠くに聞こえる。
タケルは、目を開けた。
天井のライトが、まぶしい。
その光の中で、タケルは思った。
(俺、今、ちょっとだけ大人になったかもしれない)
でも、唇がぶよぶよしていて、うまく閉じられなかった。
その瞬間、ミナミさんと目が合った。
タケルは、目をそらした。
照れとしびれと妄想が、口の中でぐるぐると回っていた。




