第3話 船出
翌朝、ミサキが主人に案内されて港へ行くと、桟橋に一艘の舟が繋がれていた。小さな舟だ。さすがに公園のボートほどではないが、それを一回り大きくしたぐらいの大きさ。まあ、近くの島へ行くのだから大きさはそれほど必要無いとして、ミサキが驚いたのは……
「ほ、帆掛け舟ぇ…っ⁉」
宿の主人が答えて言う。
「…ええ、島めぐりへ行く舟は風の力で進む帆掛け舟と決まっておるんですよ。むしろモーターボートではダメなんですな。風が、その人が行くべき島へと導いてくれるんですからね。船頭は信頼できる人ですから安心してください」
そう言えばナギサもそんな事を言っていた気がする。それにしても……
「風が行き先を決めるなんて……」
そんな旅は聞いた事も無い。「大丈夫なのか…」と思っていると、主人は舟に向かって声を掛けた。
「お~い、シオ爺! 昨日話した島めぐりの人だぁ」
見ると、舟の上で一人の老人が何やら作業している。口髭を蓄えており、頭髪も含めてほとんど白い。しかし肌は日に焼けており、ベテランの船乗りの風格というのか、いかにも長い年月を海で生きて来た人という感じがする。老人はミサキを認めると目を細めて言った。
「やあ、あんたかね…」
その声は見た目に反して穏やかだった。
「…シオダだ。町の者らにはシオ爺と呼ばれとる。まあ、よろしく頼むよ。ええと……」
「…ああ、ミサキです! こちらこそ、よろしくお願いします」
…という訳でミサキは船頭の老人ことシオ爺と共に舟へ乗り込み、一面に広がる青い大海原へと漕ぎ出したのだった……。
― ― ― ― ―
ミサキも最初は意気揚々としていた。「一体どんな島へ行って、どんな体験が出来るのだろう?」と……が、しかし、港を離れ、陸も次第に遠くなってくると、何となく不安になってきた。船頭のシオ爺に、さっきからずっと気になって仕方が無かった事を尋ねてみる。
「あのぉ…とりあえずこの舟って、今一体どこの島へ向かってるんですか?」
「…ワシにも分からん。風次第じゃね」
「えぇ…っ⁉ そ、そんなぁ…!」
「心配しなさんな。ワシはこの凪浦の海と島々の事なら知り尽くしとる。必ずどこかの島へ辿り着くから、あんたは安心して座っとりんさい」
「は、はあ……」
シオ爺の口調が妙にしっかりしていたので、ミサキの不安も少し解消された。
これは根拠の無い思い込みなどではない、何か、長年の経験に裏打ちされた揺るぎない自信のようなものだという事は、何となく解かった。
いずれにせよ、もう舟は海に出てしまったのだ。こうなったら今更ジタバタしても仕方がない。ミサキも腹を決めた。
とはいえ、そこまで不安になる事も無かった。この凪浦群島は島々が非常に込み合っており――もっともそれは地図上で見ればの事であり、実際に海に出ればやはり島同士はかなり遠くに感じられるのだが、それでも――常にどちらかの方角に島影は見えていた。つまりまったく陸の見えない沖合いに出てしまうという事は無いのだ。やがて、二人を乗せた舟の行く手にひとつの島が近づいてきた。ミサキはシオ爺に尋ねる。
「あの島ですか?」
「ふむ……」
シオ爺は島の方を見て、それから目を閉じて少し沈黙してから言った。
「あの島ではないようじゃ……風が向いておらん」
「そう…なんですか……」
舟はそのままその島を通り過ぎる……。
…また、しばらく海を進んだ。ふとシオ爺が口を開いた。
「……見えたぞ」
「見えた?」
「風の導く道がじゃよ……行き先は決まったぞ」
そう言うと彼は帆綱を手繰った。風を孕んだ帆が大きく張り、舟は急に速度を上げる。まさに、今まで行き先も定まらず、ただただ海原をさまよっていたのが、進むべき道を見出したようだ。
間もなく、二人を乗せた舟の行く先に、ひとつの島が見えて来た。