第9話 自らの役目
イリスがカルニフェク辺境伯の屋敷に来て、優に五日が経った、ある日のことだった。
「ザグレウス、お願いだからなんとかして。もう耐えられないわ」
執務室に入ってくるなり執務机にばんと手を叩きつけたイリスを見て、ザグレウスはきょとんと目を丸めた。
「なんだ姫いさん、屋敷での待遇に不満か? 使用人が何か無礼なことでもしたのか?」
イリスは彼の顔をじっと見つめたが、表情は変わらない。本当に何も分かっていない顔をしている。
眩暈がするようだ。この五日間、イリスがどこで何をしていたのか、この男が知らないはずもないだろうに……
呆れ果て、苦虫を噛み潰したような表情で、イリスは叫んだ。
「何もすることがないわ……何もよ! 私の、するべきことが、何もないの! 信じられない! この五日間、私がしたことと言えば、全く必要のない惰眠を貪って、取らなくてもいい豪勢な食事を取って、この屋敷にある美術品を見て回ったくらいだわ!」
「意外と色々やってるな」
ええいうるさい。
「見なさいこの手を!」
問答無用で、彼女はザグレウスの目の前に両手を突き出す。白魚のような指先は、雪の中に突っ込んだ直後かのように、小刻みに震えていた。
「姫いさん、寒いのか? 今は春だぞ」
「やることがなさすぎて耐えられないのよ! 仕事をちょうだい、仕事を!」
ぶるぶると震える手は、禁断症状の表れである。自分の中で荒ぶった暴風雨が、抑えきれずに漏れているような感覚だった。
「罪人だというのに従事する刑もなければ、領主の妻としての仕事もない……!? 城ではお兄様に次いで仕事が多かった私に、お前、何もするなというの? 正気?」
数日前にも似たような禁断症状が出て相談したのに、ザグレウスは「姫いさんはゆっくりするのが仕事だな」と笑って取り合ってくれなかったのだ。ふざけないでほしい。
炊事洗濯身の回りの世話の全てを使用人に任せているだけでなく、食事も睡眠も必要としない自分に、一体なにをしろというのか。霞でも食べろと?
「罪人だと言うのなら罰として仕事を与えるべきだし、領主の妻だというのならそれ相応の役目をちょうだい。このままでは気が狂うわ」
本気だったというのに、何故かザグレウスは憐れむような視線を向けてくる。
「姫いさん……罰を欲する罪人なんか聞いたことないぞ」
「なら私が第一号になってあげるわよ」
かっと目を見開き、イリスは詰め寄った。本気でもう耐えられないのである。このままでは奇声を上げて屋敷を走り回ったりしてしまう。
ザグレウスはふむと顎を撫でると、視線を宙にさまよわせる。
「なら姫いさん、視察でも行くか」
「視察?」
「そうだ。姫いさん、レ・ヴァリテの街のことをまだよく知らないだろ。領主の妻としてはまあ、確かにまずい」
だいぶ取ってつけたような物言いではあったが、仕事ができるなら何でも良かった。イリスは一も二もなく頷く。
「行くわ。今すぐ」
「今すぐはダメだ。俺も行くからな。そうだな……この書類を処理して、午後から視察だ」
「何故。私一人でも問題ないわ」
何かしていたくて仕方のないイリスは、遠慮なくザグレウスを睨みつける。もう数時間だって待てるか分からない。絶叫したい欲望が背中に張り付いている。
だが、ザグレウスは存外、冷静な瞳でイリスを射抜いた。
「ダメだ。姫いさんあんた、今は死人なの忘れたか? 姫いさん一人で行ったら、街の人間が驚くだろう。まつろわぬ民も罪人も、滅多に街には降りないんだからな」
唐突に飛び出てきた常識的な言葉に、イリスはぽかんと口を開ける。
「お、お前ね……死人で罪人の私を妻にしたのはお前でしょうが! 何を私が勝手に死んだみたいな物言いをしているのよ!」
心外すぎる。イリスが死んでいるのはイリスのせいではないし、そもそも罪人を妻にしておいて、何故街の人間が驚く心配などしているのか。
「とにかくダメだ」
だが、彼は頑として譲らなかった。真剣な瞳でイリスを見据える。
「絶対に、俺抜きで屋敷から出るなよ、姫いさん」
そこに、街の人間を慮る以上の何かがある気がして、イリスはふと目を細める。だが、社交界を百戦錬磨で切り抜けてきた彼女にも、彼の表情は読めない。
まるで何か、たった一つのことだけを考えているような顔をしているのに、それが何か分からないのだ。
結局、数拍してイリスは諦めた。
「……まあいいわ。午後ね? これでやっぱり仕事が終わらないから明日とか言ったら許さないわよ。しばくわ」
「分かった分かった。心配しなくても仕事は終わる」
そう言う彼の執務机にはしかし、山と積まれた書類の数々があった。これが午前中に全て終わると? 笑えない冗談である。
イリスは目を眇め、書類のうちの一つを手に取る。
「おい、姫いさん?」
「……お前、これはテンペスタからの封書よね? レ・ヴァリテの兵との戦闘訓練による交流要請……呆れた。隣国だからって調子に乗っているのかしら。冥府刑に処された者を狙っているのが見え見えね」
王族であるイリスはもちろん、他国の情勢もひと通り頭に入れている。ディルクルムに隣接する国であるテンペスタは、前々から冥府刑による罪人の存在に興味を持っているのだ。
「大方、罪人たちのことを死なない戦力とでも思っているのでしょう。まあ、そういう国は多いけれどね」
思わず嘆息する。罪人は罪人であり、刑に従事する立場だが、見方を変えれば死なない兵士であるとも言える。実際、レ・ヴァリテでは国境防衛戦に罪人が駆り出されることも少なくない。だからこそ、テンペスタのように、罪人を武力として狙う国も後を絶たないのだ。
「くだらないわ。私の名代を使っていいから断りなさい」
「は?」
「ちょっと、これも、これもテンペスタからの封書じゃないの。お前、こんなものを毎日捌いていたら、いくら時間があっても足りないわよ。こういう圧力をかけられているなら、それこそお兄様に報告しなさい。なんのための王族だと思っているの」
イリスは呆れ返り、執務机に置いてあったペンを手に取ると、さらさらと断りのための封書を作り始める。
「おい、待て、姫いさん。あんたがそんなことする必要はない」
「私がやるのが一番早いでしょう。お前に早く仕事を終わらせてもらわないと困るのよ」
「だからって……」
「大丈夫よ。私、まだ公には死んだことになっていないもの。この封書を書いてから死んだことにすればいいわ」
ザグレウスは一瞬、その血のような瞳を見開いたかと思うと、唐突にまなじりをつりあげる。
「あんたの命はボールじゃねえんだぞ。ぽんぽん生死を行き来させるな」
何を言っているのかとイリスは訝った。
「王族の命は民の暮らしのためにあるのよ。国にとって都合が悪ければ死ぬし、都合が良くなれば生き返る。それだけの話だわ」
封書を書き終わり、ペンを置いたときだった。急に視界に影が射す。
何かと顔をあげれば、窓からの日差しを背にしたザグレウスが、奇妙に抜け落ちた表情でこちらを見下ろしていた。伸びてきた手が、不意にイリスの手首を掴む。
「あんた、ずっとそうなのか?」
「え?」
「ずっと、国のためなら死ぬような思いで王族やってんのか?」
いまいち聞きたいことがよく分からず、イリスは首を傾げる。
「そうだけれど? 兄様も同じだと思うわよ」
「今はアストラス……殿下のことは聞いてねえよ。じゃあなんだ。たとえばテンペスタの野郎どもが、罪人はいいからあんたと自国の王子とで冥婚を結ばせてくれとか言ってきたら、あんたは従うのか? 魂を縛るような行為を、あんたは許すのか?」
何故唐突に冥婚の話になったのか分からず、イリスは困惑した。そもそも、国の違う者同士で冥婚などできるのだろうか? 冥婚を成しているのはレ・ヴァリテの土地に眠る力だというから、レ・ヴァリテで儀式を行えば可能なのだろうか?
「姫いさん、答えろ」
どこか懇願にも似た温度の言葉に、イリスの意識が引き戻される。咄嗟に口を開いた。
「話が見えないけれど……それがディルクルムに必要なことなら、他国の人間と冥婚でもなんでもするわよ」
平然と頷いたイリスに向かって、ザグレウスが何故か、痛みを堪えるような顔をした。
「お前、どうしたの。さっきから変だわ」
「……あんた、俺と冥婚したときは、あんなに嫌がってたくせに……」
「は……」
ぽかんと口を開ける。なんだそれは?
イリスはぱちぱちと瞬き、しばし彼の言葉を反芻して考える。どうやらこの男は、イリスが隣国に嫁ぐことと、自分との婚姻を比べているらしい。
「何が言いたいのかよく分からないけれど……お前は私になんの説明もなしに事を進めたじゃないの。国同士で決められた婚姻と、お前が一方的に成した冥婚では全く違うわよ。普通は女性の了承も取らずに婚姻を進める男は最低よ。覚えておきなさいね」
「……予告はしたし、了承も取った」
「お兄様からね。しかも私、あのときほとんど死にかけだったでしょうが」
アレを了承だと言われたら、世の中は最悪な結婚だらけになってしまうではないか。
だが、彼はそれでも恨めしげにイリスを見ている。なんだかこの男は、たまにひどく子供っぽくなるなとイリスは思った。
「まあいいわ。ほら、早く次の書類をよこしなさい。お前の仕事が終わらないと、お前と一緒に街に行けないでしょう」
尊大に告げるイリスの手をじっと見つめて、ザグレウスは不承不承といった様子で書類を渡してくる。イリスは「それでいいのよ」と呟いて、奪うように書類を受け取った。