第8話 甲冑の女と傷持ち
すっかり夜になった敷地内を、イリスは悠々と歩く。
「さて、どうしようかしら……」
屋敷をぐるりと取り囲む形で広い庭が広がっているが、何故かそこに花はほとんどなかった。殺風景な空間を外に向かって歩いていくと、何故か柵があり、向こう側にも広い空間が広がっているのが分かる。
その先までは流石に見えなかった。だが、闇の中から、何か、呼び声のようなものが聞こえる。
おおおおおん……おおおおおおおん……
背筋を氷の手で撫でられているような、芯から人を凍らせる音。イリスはふと立ち止まって気づく。
「……これ、人の声だわ」
しかも、一人ではない。様々な人間の呟きを何重にも重ねたような音だ。様々な不協和音が重なって、奇妙な一体感のある音になっている。
この柵の向こうがきっと、罪人の墓場なのだ。
イリスはちらりと柵を見下ろす。腰ほどの高さまである柵はおそらく鋼鉄でできており、何故か、銀色の淡い光を放っていた。
「何かしら、これ」
光は緩やかに明滅している。首を傾げていると再び、おおおおおおん……という音が聞こえた。明らかに柵の向こうから響いている。どうやらここに罪人がいることは間違いないらしい。
つまり、この柵は……
考えながら、ふと手を伸ばしたときだった。
「『傷持ち』でもないなら、その柵に触るのは自殺行為だよ、お姫様」
不意に真後ろから響いた声に、イリスは反射的に振り返る。
そこには、顔以外の全身を銀の甲冑で覆った、大柄な女が立っていた。
イリスよりも頭一つ分ほど背が高い女だ。肩口で切りそろえられた鳶色の髪と、ガラスのような薄青の瞳、顔を縦断するかのように走る、大きな傷痕――そして、その全身から放たれる、淡い薄青の燐光。
死者だ、と、何も言わずとも察した。
「そこの柵には領主特製の『縛り』がかけられてる。触らないほうが身のためだ」
イリスはぱちりと瞬いた。縛り――これが?
薄ぼんやりと光る柵は全く危険に見えない。そういえばフィニも、触れたら爆散するとかなんとか言っていたような気がする。
いや、だったら真っ赤に光り輝くとかしてほしい。普通に触ってしまうところだったでないか。
「『傷持ち』でもない死人が触れたら、あっという間に手が焼けただれる。やめときな」
「傷……何?」
イリスは首を傾げた。先ほども聞いた気がするが、知らない単語だ。
女は不遜な笑みを浮かべる。
「『傷』のこと聞いていないのか、お姫様。死者の中でも、特に意志の強い奴が持つ力だ。強い未練や恨みを持って死んだまつろわぬ民か……あるいは、冥府刑に処されるほどの人間の、さらにごく一部のみが持つ」
「それがあれば、縛りはなんとかなるの?」
「さあ? 人によるかな」
彼女はひょいと肩を竦めた。
「傷持ちの持つ傷は、そいつの生前の行いや意志が反映される。強さも人によって違うし……縛りを破れるほどの力かどうかは、発現してみないことにはなんとも」
死者にそんな力が……? にわかには信じがたい話だった。死者と生者の違いなど、それこそ体があるかないかくらいだと思っていたのに。
だが、彼女をじっと見つめてみても、その瞳の奥に嘘の揺らぎは見えない。傾国王女としての自分は、大抵の人間の嘘は見抜ける。
「そう、じゃあやめておくわ」
とりあえず信じることにした。イリスはもちろん、傷が発現した覚えなどない。
「教えてくれてありがとう。あなたは罪人なの? それともまつろわぬ民?」
「さあ、どっちだろうね?」
「そう聞くということは罪人なのかしら」
「……へえ? なんでそう思う?」
「人が何かを誤魔化すのは大概、後ろめたいことがあるときでしょう」
女は薄く笑うだけで何も言わない。イリスも、目の前の女が罪人かどうかにはさほど興味がなかった。
「まあいいのよ別に、そんなことは。お前がなんであろうと構わないわ」
「ふうん……怖くないのか、お姫様」
「怖い?」
今日はやけに同じようなことを聞かれるなとイリスは思った。目の前に立つ女は、甲冑を揺らして耳障りな音を立てながら、ゆったりと近づいてくる。
「あたしが罪人だったら、傷持ちだったら……とか、考えたことないのか?」
イリスはまっすぐに彼女を見つめる。
「罪人は危ない……ということ? フィニから聞いたわ」
「まあ、平たく言うとそうだが……あんたはお姫様だろう。罪人から恨まれる理由がある」
「……私が『傾国王女』だから?」
「ははっ、まさか。『王族』だからだよ。冥府刑を下すのはカルニフェク辺境伯だが、許可を出すのはお前たち王族だ。お前たちさえいなければ、冥府刑を下される人間は存在しなかった」
イリスはぱちりと瞬く。そして、女が言わんとしていることを察した。
冥府刑はカルニフェク辺境伯の独断で行われるものではない。国に提出される申請を元に、王が許可を出して初めて執行される。現在は、王太子であり現王代理でもある、イリスの兄の仕事だ。
だからこそ、冥府刑に処された罪人は王族を恨む――言われてみればなるほど、単純な構図だ。
「そうね……その通りだわ」
なら彼女も、自分のことを恨んでいるのだろうか?
背筋に冷たいものが走って、同時にするりと、首を撫でられる。あまりに自然に距離を詰められていて、反応もできなかった。
「……お前、私を殺したいの? 私を恨んでいる?」
「はは、何言ってんだ。死者はもう死なないだろ」
空虚な笑みだった。手負いの獣のような危うさが、彼女の声にはひそんでいる。
イリスは咄嗟に身を固くした。こういう人間は、大抵が手段を選ばない。
「お姫様は、知らないだろうけどね……この世には、死ぬよりもっとひどいことがごろごろ転がってるんだよ。死んだほうがマシだって痛みもね」
意味をうまく飲み込めないながらも、慎重に、イリスは小首を傾げた。
「死ぬよりもっとひどいこと、というのはよく分からないけれど……死んだほうがマシな痛み、というのは、分かる気がするわね。死にかけるのは案外、辛いものだから」
「へえ? お姫様ともなると、命を狙われるくらいは経験してるのか?」
「ええ、まあ、朝昼晩合わせて、日に五度ほど殺されかける生活が……そうね、半年くらい……あったわね。傷も残っているわよ。大抵が毒だったから、あんまり外傷はないんだけれど」
言うなり、少女はぐいと襟元を強引にくつろげた。肩口に、くっきりと残った傷跡がある。縦にすぱりと切り裂かれたような鋭利な痕だ。
女はぎょっと目を見張り、イリスの首からぱっと手を離した。
「……なんだい、それは」
「だから、殺されかけたときの傷よ。正直、当時のことはほとんど覚えてないんだけれど、多分、形状からして、頸動脈を切ろうとして失敗したんでしょうね」
自らの暗殺未遂について淡々と語りながら、イリスは首元のドレスを元に戻した。
「腹にも、足にも、背にも傷があるわ。お前、私を死ぬより酷い目に遭わせたいなら、せめてこの体にある傷の数より多く痛みを与えないとダメよ。できるの?」
イリスは内心冷や汗をかきながら、彼女をじっと見つめた。心臓が音高く鳴り続けるのを努めて無視する。
目の前にいるのは獣だ。
獣から目を逸らしてはいけない。
そうしてどれくらい時間が経ったか――果たして、彼女は口を開いた。
「……興が冷めた」
ぽつりと零した言葉を最後に、手がするりと離れていく。
イリスは気づかれないように、細く長く息を吐く。夏でもないのに、背にびっしりと冷や汗をかいていた。
「気をつけな、お姫様。ここにはあたしみたいな理性のある死人ばかりじゃないからね」
薄く笑う女の目だけが冷えきっている。どの口が言うのかと思いながら、イリスはどうにか口を開いた。
「分かっているわ。この柵の向こうには、正気を失った死者がいるのでしょう」
「それもそうだが、ここは屋敷の反対側……国境に近いだろう」
「……それが?」
首元のドレスを直すふりをして傷がないかを確かめながら、イリスは小首を傾げる。女性は薄く笑いながら答えた。
「戦場に駆り出された『傷持ち』が、帰りにここを通るのさ。傷を発現したばかりの奴らの中には、戦場で手が付けられないくらい気が昂る奴もいる」
ぱちり、と瞬く。戦場という言葉を、イリスは勉学の場以外で初めて聞いたような気がした。
「知らないのか、お姫様? ここは死者の墓場だが、それ以前にカルニフェク辺境伯だ。辺境伯の仕事を忘れたわけじゃないだろう」
「……国境防衛戦のことかしら」
「そうだ。分かってるんじゃないか」
からからと笑って、女は続けた。
「国境防衛戦には傷持ちも駆り出される。何せ戦える死人だからな。有効活用しない手はない。防衛戦が激化すると、一時的に気狂いになった傷持ちも出る」
ずいっと顔を寄せ、彼女は冷たい息を吐いた。
「気をつけな、お姫様。あんたは女だ。女をいたぶる方法なら百は思いつく傷持ちが、ここにはごろごろいる」
「お前、心配してくれているの?」
イリスは素直に驚いた。先程までこちらを殺しそうな雰囲気だったくせに、どういう心境の変化だろう?
だが、訝しげなイリスに彼女は「さあな」とだけ答えて踵を返す。呼び止める暇もなく、その身が闇の向こうに溶けていく。
呼び止める気にはなれなかった。あれは獣だ。迂闊に近寄ると、こちらが致命傷を負う。
完全に彼女の姿が見えなくなってようやく、イリスは大きく息を吐いた。
「なんだか疲れたわ……」
疲労を感じないはずの体が重い。散策をするだけのつもりだったのに、何故か獣に襲われかける羽目になった。
あれは確実に罪人の一人だろう。未練を抱いて死んだまつろわぬ民というには、あの目はあまりに暗すぎる。
「全く、ザグレウスはどういう罪人管理をしているのかしらね」
冥府刑に処された自分を野放しにしていることといい、きちんと仕事をしているのか怪しいものだ。
肩をすくめて踵を返し、自分の部屋へと戻っていく。道中、四方八方からかすかに響き続ける死者の呼び声を聞きながら、これが子守唄になる日が来るのだろうかと、ふと思った。