表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/29

第8話 甲冑の女と傷持ち

 すっかり夜になった敷地内を、イリスは悠々と歩く。


「さて、どうしようかしら……」


 屋敷をぐるりと取り囲む形で広い庭が広がっているが、何故かそこに花はほとんどなかった。殺風景な空間を外に向かって歩いていくと、何故か柵があり、向こう側にも広い空間が広がっているのが分かる。

 その先までは流石に見えなかった。だが、闇の中から、何か、呼び声のようなものが聞こえる。


 おおおおおん……おおおおおおおん……


 背筋を氷の手で撫でられているような、芯から人を凍らせる音。イリスはふと立ち止まって気づく。


「……これ、人の声だわ」


 しかも、一人ではない。様々な人間の呟きを何重にも重ねたような音だ。様々な不協和音が重なって、奇妙な一体感のある音になっている。

 この柵の向こうがきっと、罪人の墓場なのだ。


 イリスはちらりと柵を見下ろす。腰ほどの高さまである柵はおそらく鋼鉄でできており、何故か、銀色の淡い光を放っていた。


「何かしら、これ」


 光は緩やかに明滅している。首を傾げていると再び、おおおおおおん……という音が聞こえた。明らかに柵の向こうから響いている。どうやらここに罪人がいることは間違いないらしい。

 つまり、この柵は……

 考えながら、ふと手を伸ばしたときだった。


「『傷持ち』でもないなら、その柵に触るのは自殺行為だよ、お姫様」


 不意に真後ろから響いた声に、イリスは反射的に振り返る。

 そこには、顔以外の全身を銀の甲冑で覆った、大柄な女が立っていた。

 イリスよりも頭一つ分ほど背が高い女だ。肩口で切りそろえられた鳶色の髪と、ガラスのような薄青の瞳、顔を縦断するかのように走る、大きな傷痕――そして、その全身から放たれる、淡い薄青の燐光。

 死者だ、と、何も言わずとも察した。


「そこの柵には領主特製の『縛り』がかけられてる。触らないほうが身のためだ」


 イリスはぱちりと瞬いた。縛り――これが?

 薄ぼんやりと光る柵は全く危険に見えない。そういえばフィニも、触れたら爆散するとかなんとか言っていたような気がする。

 いや、だったら真っ赤に光り輝くとかしてほしい。普通に触ってしまうところだったでないか。


「『傷持ち』でもない死人が触れたら、あっという間に手が焼けただれる。やめときな」

「傷……何?」


 イリスは首を傾げた。先ほども聞いた気がするが、知らない単語だ。

 女は不遜な笑みを浮かべる。


「『傷』のこと聞いていないのか、お姫様。死者の中でも、特に意志の強い奴が持つ力だ。強い未練や恨みを持って死んだまつろわぬ民か……あるいは、冥府刑に処されるほどの人間の、さらにごく一部のみが持つ」

「それがあれば、縛りはなんとかなるの?」

「さあ? 人によるかな」


 彼女はひょいと肩を竦めた。


「傷持ちの持つ傷は、そいつの生前の行いや意志が反映される。強さも人によって違うし……縛りを破れるほどの力かどうかは、発現してみないことにはなんとも」


 死者にそんな力が……? にわかには信じがたい話だった。死者と生者の違いなど、それこそ体があるかないかくらいだと思っていたのに。

 だが、彼女をじっと見つめてみても、その瞳の奥に嘘の揺らぎは見えない。傾国王女としての自分は、大抵の人間の嘘は見抜ける。


「そう、じゃあやめておくわ」


 とりあえず信じることにした。イリスはもちろん、傷が発現した覚えなどない。


「教えてくれてありがとう。あなたは罪人なの? それともまつろわぬ民?」

「さあ、どっちだろうね?」

「そう聞くということは罪人なのかしら」

「……へえ? なんでそう思う?」

「人が何かを誤魔化すのは大概、後ろめたいことがあるときでしょう」


 女は薄く笑うだけで何も言わない。イリスも、目の前の女が罪人かどうかにはさほど興味がなかった。


「まあいいのよ別に、そんなことは。お前がなんであろうと構わないわ」

「ふうん……怖くないのか、お姫様」

「怖い?」


 今日はやけに同じようなことを聞かれるなとイリスは思った。目の前に立つ女は、甲冑を揺らして耳障りな音を立てながら、ゆったりと近づいてくる。


「あたしが罪人だったら、傷持ちだったら……とか、考えたことないのか?」


 イリスはまっすぐに彼女を見つめる。


「罪人は危ない……ということ? フィニから聞いたわ」

「まあ、平たく言うとそうだが……あんたはお姫様だろう。罪人から恨まれる理由がある」

「……私が『傾国王女』だから?」

「ははっ、まさか。『王族』だからだよ。冥府刑を下すのはカルニフェク辺境伯だが、許可を出すのはお前たち王族だ。お前たちさえいなければ、冥府刑を下される人間は存在しなかった」


 イリスはぱちりと瞬く。そして、女が言わんとしていることを察した。


 冥府刑はカルニフェク辺境伯の独断で行われるものではない。国に提出される申請を元に、王が許可を出して初めて執行される。現在は、王太子であり現王代理でもある、イリスの兄の仕事だ。

 だからこそ、冥府刑に処された罪人は王族を恨む――言われてみればなるほど、単純な構図だ。


「そうね……その通りだわ」


 なら彼女も、自分のことを恨んでいるのだろうか?

 背筋に冷たいものが走って、同時にするりと、首を撫でられる。あまりに自然に距離を詰められていて、反応もできなかった。


「……お前、私を殺したいの? 私を恨んでいる?」

「はは、何言ってんだ。死者はもう死なないだろ」


 空虚な笑みだった。手負いの獣のような危うさが、彼女の声にはひそんでいる。

 イリスは咄嗟に身を固くした。こういう人間は、大抵が手段を選ばない。


「お姫様は、知らないだろうけどね……この世には、死ぬよりもっとひどいことがごろごろ転がってるんだよ。死んだほうがマシだって痛みもね」


 意味をうまく飲み込めないながらも、慎重に、イリスは小首を傾げた。


「死ぬよりもっとひどいこと、というのはよく分からないけれど……死んだほうがマシな痛み、というのは、分かる気がするわね。死にかけるのは案外、辛いものだから」

「へえ? お姫様ともなると、命を狙われるくらいは経験してるのか?」

「ええ、まあ、朝昼晩合わせて、日に五度ほど殺されかける生活が……そうね、半年くらい……あったわね。傷も残っているわよ。大抵が毒だったから、あんまり外傷はないんだけれど」


 言うなり、少女はぐいと襟元を強引にくつろげた。肩口に、くっきりと残った傷跡がある。縦にすぱりと切り裂かれたような鋭利な痕だ。


 女はぎょっと目を見張り、イリスの首からぱっと手を離した。


「……なんだい、それは」

「だから、殺されかけたときの傷よ。正直、当時のことはほとんど覚えてないんだけれど、多分、形状からして、頸動脈を切ろうとして失敗したんでしょうね」


 自らの暗殺未遂について淡々と語りながら、イリスは首元のドレスを元に戻した。


「腹にも、足にも、背にも傷があるわ。お前、私を死ぬより酷い目に遭わせたいなら、せめてこの体にある傷の数より多く痛みを与えないとダメよ。できるの?」


 イリスは内心冷や汗をかきながら、彼女をじっと見つめた。心臓が音高く鳴り続けるのを努めて無視する。


 目の前にいるのは獣だ。

 獣から目を逸らしてはいけない。


 そうしてどれくらい時間が経ったか――果たして、彼女は口を開いた。


「……興が冷めた」


 ぽつりと零した言葉を最後に、手がするりと離れていく。

 イリスは気づかれないように、細く長く息を吐く。夏でもないのに、背にびっしりと冷や汗をかいていた。


「気をつけな、お姫様。ここにはあたしみたいな理性のある死人ばかりじゃないからね」


 薄く笑う女の目だけが冷えきっている。どの口が言うのかと思いながら、イリスはどうにか口を開いた。


「分かっているわ。この柵の向こうには、正気を失った死者がいるのでしょう」

「それもそうだが、ここは屋敷の反対側……国境に近いだろう」

「……それが?」


 首元のドレスを直すふりをして傷がないかを確かめながら、イリスは小首を傾げる。女性は薄く笑いながら答えた。


「戦場に駆り出された『傷持ち』が、帰りにここを通るのさ。傷を発現したばかりの奴らの中には、戦場で手が付けられないくらい気が昂る奴もいる」


 ぱちり、と瞬く。戦場という言葉を、イリスは勉学の場以外で初めて聞いたような気がした。


「知らないのか、お姫様? ここは死者の墓場だが、それ以前にカルニフェク辺境伯だ。辺境伯の仕事を忘れたわけじゃないだろう」

「……国境防衛戦のことかしら」

「そうだ。分かってるんじゃないか」


 からからと笑って、女は続けた。


「国境防衛戦には傷持ちも駆り出される。何せ戦える死人だからな。有効活用しない手はない。防衛戦が激化すると、一時的に気狂いになった傷持ちも出る」


 ずいっと顔を寄せ、彼女は冷たい息を吐いた。


「気をつけな、お姫様。あんたは女だ。女をいたぶる方法なら百は思いつく傷持ちが、ここにはごろごろいる」

「お前、心配してくれているの?」


 イリスは素直に驚いた。先程までこちらを殺しそうな雰囲気だったくせに、どういう心境の変化だろう?


 だが、訝しげなイリスに彼女は「さあな」とだけ答えて踵を返す。呼び止める暇もなく、その身が闇の向こうに溶けていく。


 呼び止める気にはなれなかった。あれは獣だ。迂闊に近寄ると、こちらが致命傷を負う。


 完全に彼女の姿が見えなくなってようやく、イリスは大きく息を吐いた。


「なんだか疲れたわ……」


 疲労を感じないはずの体が重い。散策をするだけのつもりだったのに、何故か獣に襲われかける羽目になった。

 あれは確実に罪人の一人だろう。未練を抱いて死んだまつろわぬ民というには、あの目はあまりに暗すぎる。


「全く、ザグレウスはどういう罪人管理をしているのかしらね」


 冥府刑に処された自分を野放しにしていることといい、きちんと仕事をしているのか怪しいものだ。


 肩をすくめて踵を返し、自分の部屋へと戻っていく。道中、四方八方からかすかに響き続ける死者の呼び声を聞きながら、これが子守唄になる日が来るのだろうかと、ふと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ