第6話 まつろわぬ民
咄嗟に音のした方を振り仰ぎ、イリスは固まった。
窓の外に、のっぺりとした顔の男がいる。
そう確信したときには既に、男は青白い手を振り上げ、がん! がん! と馬車の窓に拳を打ちつけていた。もう片方の手がべったりと窓に押し当てられ、既に温度のない息が、窓の外側に吐きかけられた。にんまりと笑う口元はひどく下卑ている。
イリスはわずかに目を見開く。どう考えても、馬車の側面に貼りついていないとできない芸当だ。つまり、並の人間には不可能である。
にわかに馬車の速度が上がる。それでも殴打の音は止まない。
「……ザグレウス」
「無視しろ、姫いさん」
彼は正面を見たまま首を横に振った。声から温度が消えている。
「放っておいたら勝手に消える。反応するな」
「……これは、まつろわぬ民よね?」
ここに来るまでの道中で得た知識をさらう。罪人はレ・ヴァリテにおいて厳重に管理されており、街に出ることはほとんどない。だが目の前の男は完全に死者だ。ならば、これはまつろわぬ民である。
イリスは窓から視線を外さぬまま、ゆっくりと目を眇める。
「ここが、まつろわぬ民の住む地区なのね」
先ほど彼が言った「境界」とはすなわち、生者と死者が住まう地区の境界線……ということだろう。
ザグレウスは「ああ」と呟いた。
「まつろわぬ民は人間と違って理性を失いやすい。罪人ほどじゃないが、人間を見かけると反射で襲う者もいる」
「え? 何故?」
咄嗟にザグレウスを見る。不可解な話だった。死者とはいえ、罪人でもない普通の人間が、他の人間を襲う意味とは?
彼は軽く肩を竦めた。
「色々ある。生きてる人間に対する妬み、恨み、恐怖の場合もあるか。まつろわぬ民は強い未練の残滓に近いからな。人に殺されたまつろわぬ民は、人間への強い恐怖から人を襲う」
「……なら、これも?」
ちらりと窓を横目で見る。男はいつの間にか窓にべったりと顔を押しつけていた。その口元は不気味に歪んでいる。どう見ても恨みつらみからの行動とは思えないが……
「そいつは別だ。からかってるだけだからな」
「からかう?」
「まつろわぬ民だって元は人間だからな。個性がある。そいつはこの道を通ると大抵出会う輩だ。今回は日暮れ時に来たからな……」
イリスは小首を傾げた。
「日暮れ時だとまずいの?」
「というか夜がな、面倒だ。まつろわぬ民が活発になる。生きている人間は大抵、夜や闇を怖がるものだから、得てしてこういう輩も増えるんだ」
「ふうん……」
イリスはしばし考えこむ。まつろわぬ民が窓を叩く音がやけに激しく響いた。
「つまり……これは本当に、ただ私たちを驚かせて遊んでいるだけ……ということね?」
「ああ、だから無視するのが一番良い。いないものとして扱うのが一番効く。どうせ話をするなら、そいつの話じゃなく世間話でもしてくれ」
イリスは呆れた。すさまじく不快な殴打音を聞かされているというのに、呑気に世間話などできるはずもない。
だがどうやら、ザグレウスはこの無礼な輩に何一つ、赦しも罰も与えはしないらしい。
「いいわ、お前はそこで大人しくしていなさい」
「あ? ……姫いさん?」
彼の不審そうな問いかけには答えず、イリスはたおやかな手を窓に伸ばす。
そして、固めた拳を、馬車の内側から窓にがぁん! と叩きつけた。
「お黙り」
氷点下の声が響いた。そのときのイリスの視線に色があったならば、全てを塗りつぶす漆黒のようだっただろう。
絶対零度の視線が男を射抜く。一瞬、音がやんだ。
だが、窓の外の男は懲りずに拳を振りかぶる。
刹那、目にも止まらぬ早さでイリスの拳が再び、窓の内側を殴りつけた。
「お、だ、ま、り」
一音一音、くっきりと発声する。見開いた瞳孔の奥から、殺意さえも漂ってくるようだ。
窓の外で、青灰色の男がびくりと体を震わせる。その瞳にかすかな怯えが現れたのを見てとり、イリスは酷薄に言葉を重ねた。
「お前は一体誰の許可を得て、この私の目の前で、そのような無礼な振る舞いを取っているの? もしかして、自分の領域に入ってきた人間は残らず全て、己のいいようにできるとでも思っているのかしら?」
地の底から響くような声と、ぴたりと男に据えられた瞳。男の腕がわずかに震える。
「なんてくだらない傲慢でしょうね。お前の指をひとつ残らず落としてやれば、もう拳など握れなくなるかしら? それとも、その腕を落としてやるほうが早いかしら? まつろわぬ民というのは、どれだけの痛みを感じたら天に還るのか、興味があるわね……」
おぞましいことを平然と口にして、イリスはぐっと座席から身を乗り出す。一切の瞬きをしないまま、ひたりと窓に手を押しつけた。
「それとも、どれほど痛みを感じても、まつろわぬ民である限り、お前はどこにも逃げられないのかしら? ……お前がどこまで耐えられるか、興味があるわ。お前、その身で私に教えてくれる? ねえ……」
がん! と、少女が拳を窓に叩きつける。
「どうなのかしら?」
途端、男は体をぶるりと震わせ――表情に明確な怯えを滲ませたかと思うと、ふっとその場から消えた。
拍子抜けである。死人のくせに、なんて度胸のない……
呆れてすとんと座席に腰を下ろす。
「姫いさん、あんた……」
唖然とした顔で、ザグレウスがしげしげとこちらを覗き込んでくる。
「すごいな。本当に傾国王女みたいだったぞ」
「お前、今すさまじく無礼な発言をしたと分かっている? まあ、間違ってはいないけれど」
何せ、母が狂い初めてから十年は経つ。彼女のための狂った「現実」を演じなければ、侍女が被害に逢うことも少なくなかった。結果、不本意ながら、イリスは傾国王女としての振る舞いがすっかり身についてしまったのだ。
「何をどうすれば人が怯えるかなんて、大体分かるわよ。まさか、死人にまで怯えられるとは思わなかったけれど……よく考えたら、死人も人間だものね。感性は変わらないようで安心したわ」
おかしな学びを得ているイリスを見つめて、ザグレウスは心底愉しそうに笑みを浮かべる。
「安心したよ。やっぱり、あんたは誰よりも、死神辺境伯に嫁ぐ人間としてふさわしい」
それは褒めているのか? と訝しんだが、彼はするりと伸ばした指で、優しくイリスの前髪を整えた。
「改めて、ようこそ姫いさん。東方国境レ・ヴァリテ領へ」
彼が呟いたそのとき、不意に馬車がゆっくりと速度を落とした。大きな門をくぐり、とある屋敷の前にぴたりと横付けされる。
順当に考えればカルニフェク辺境伯の屋敷……ということになるのだろう。すっかり日が暮れた街の中で、その建物は重々しい雰囲気を纏ってそこにあった。馬車を降り、屋敷の前に立つ。
随分と装飾の少ない、簡素な印象の屋敷だ。これを作った人間は華美なものに興味がなかったか、あるいは相当に実用性重視の人間だったのだろうと思わされる。
今日からここで暮らすのか……とやや現実味の薄い事実を受け止めていたときだった。
屋敷の扉が勢いよく開き、弾丸のごとき勢いで誰かが飛び出してくる。
「ザグ兄〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
それは一人の少年だった。すさまじい勢いで駆けてきた彼は、ザグレウスの目の前でびたりと足を止めた。全力疾走してきたらしく、肩を大きく上下させる。
「やっ……と帰ってきた! 王様に呼ばれたからって長いよ! 半月くらいいなくなっちゃって、大変だったんだぜ!?」
「おーおー、元気だなフィニ」
ザグレウスがわしわしと少年の頭を撫でる。ややくすんだ金髪を持つ少年は、ぐわんぐわんと揺れる頭で「やぁめぇろぉ!」と叫んでいた。
唐突な闖入者を、イリスはまじまじと見つめる。
周囲が暗いため分かりづらいが、窓から漏れ出る光に照らされた少年の腕からは、うっすらと残照のような光がこぼれていた。――死者である証だ。
「ザグレウス、その子は誰?」
イリスの言葉にザグレウスが答えるより早く、少年が青く澄んだ瞳を大きく見開き、イリスを凝視した。
「もしかして……罪人のお姫様?」
「可愛い呼び方ね。そうよ。私はイリス・ヴィエーラ・ディルクルム。傾国王女……のほうが馴染みがあるのかしら?」
艶やかに微笑み、その場で美しいお辞儀をしてみせる。少年は呆気に取られた顔でぱちぱちっ! と激しく瞬いた。
「ザ、ザグ兄、この人、拘束してないの? 罪人のお姫様を……この人を、迎えに行ったんだろ?」
ザグレウスはにやりと笑い、首を横に振った。
「ちょっと違うな、フィニ。姫いさんは俺の妻だ」
「はっ? 妻!?」
「ええ、なんだかそういうことになったらしいわよ」
「なんで!?」
「なんででしょうね……」
片手を頬に当てて呟く。それはイリスも知りたいところだ。
フィニと呼ばれた少年は唖然とした顔で顎を落とす。感情が面白いほどに顔に出ている。
彼は目を白黒させ、しばらく交互にイリスとザグレウスを見ていたが、不意にハッと顔を強ばらせ、ザグレウスを振り仰ぐ。
「わ、忘れてた、それどころじゃないんだよ、ザグ兄!」
「あ?」
「ザグ兄がいなくなっちゃったから、『縛り』がだいぶ弱くなってるんだよ! 今日なんか三人くらい脱走しかけて、本当にやばかったんだから!」
瞬間、ザグレウスの顔つきが変わった。飄々とした表情はなりを潜め、思案するような、難しい顔をする。
「どこが一番まずい?」
「どこもまずいよ! でも北の墓地が一番やばい! あそこ、自我のはっきりしてる罪人が多いから……」
ザグレウスは浅く首肯する。
「分かった、すぐ行こう。代わりに姫いさんの案内を頼む、フィニ」
「へっ?」
安堵の表情を浮かべた彼は、一瞬で素っ頓狂な声を上げた。
「姫いさんはここに来たばかりだ。屋敷の構造も知らないまま置き去りは可哀想だろ」
「えっ、は?」
「使用人ももう寝てるか、あるいは縛りの綻びを強化してるってとこか……うん、やっぱりお前に頼む」
最高に良い笑顔で、ぽんと少年の肩を叩く。彼はぽかんと口を開けていた。
「姫いさん、こいつはフィニだ。カルニフェク辺境伯の家の……まあ、使用人みたいなものだと思ってくれればいい。見ての通りまつろわぬ民だが、悪いやつじゃない」
「……そのようね」
既に死んでいるというのにどんどんと顔を青くする少年を見ながら、イリスは納得した。悪いやつじゃないどころか、むしろ被害者である。
「じゃあな、フィニ。屋敷にある部屋まで案内しておいてくれればいい。頼んだぞ」
「えっ、ちょっ、ザグ兄!?」
少年の言葉を気にもとめず、彼は颯爽とどこかへ消えてしまった。後には、おろおろと落ち着かない様子のフィニと、何も知らされていないイリスだけが取り残される。
フィニはひとしきり頭を抱えると、油を刺し忘れたブリキのような動きでイリスを見た。
「えっ……と……お姫様……?」
「イリスでいいわよ、フィニ。お前、苦労してるのね」
自然、同情を煮詰めた顔になってしまう。既にこの場にはいないザグレウスを、頭の中で蹴り飛ばした。
「……とりあえず、案内をしてもらってもいい? 私の部屋はあるかしら?」
「え? ええっと……ザグ兄の奥さんになる人のための部屋ならあった、はず……?」
「じゃあそこまででお願いするわ。私の旦那が悪いわね」
てきぱきと話を進め、イリスはたおやかな手を差し出す。少年はおそるおそるといった調子で、その手に自分の手を重ね、屋敷に向かって歩き出した。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
いわゆる幽霊と呼ばれるものが「まつろわぬ民」になりますね。数は少ないですが、この世界では大体の人がまつろわぬ民を視認できます。
この先も気になる!という人は、ブクマや星などをぽちぽちしつつお待ちいただければと思います!