第5話 東方国境レ・ヴァリテ
「お兄様は私が自由になれるように取り計らってくださったの。経緯はどうあれ罪人となった私を、王都から逃がそうとしてくださったのだわ。お前にもわざわざ話を通してね。お兄様が、それほどお前を信用して私を託してくださったのに、お前、冥婚だなんてふざけているの?」
「俺は真剣だったんだがな……事実しか言ってないし……なのに最終的にアストラスにも三時間ほど絞られた……」
「ほら見なさ……待って、今お前、お兄様のことを呼び捨てにした?」
イリスの声がどす黒く染まった。
「殿下と呼びなさい。どういう関係か知らないけれど、お兄様をこれ以上雑に扱ったら許さないわよ」
「あんたたち兄妹、びっくりするほどよく似てるな。アストラス……殿下もあの後、俺の胸ぐら掴んで殴る勢いだったし」
イリスはもはや、怒りを通り越して唖然とする。
アストラスが人を殴る場面など想像もつかない。それだけこの死神辺境伯の愚かさが絶望的だということだ。
「お前、自分がどれだけ愚かなことをしたのか、悔いる心はないの?」
「まさか。だってあんたを妻に迎えられたこと、俺は微塵も後悔してないからな」
イリスは拍子抜けして、目を何度かしばたたく。
「そういえばお前、どうして私なんかを妻にしようとしたの。私以上に面倒な立場の女はいないわよ」
何せ、次期王位継承者の暗殺未遂までやらかし、冥府刑に処された元王族である。血筋的にも経緯的にも、嫁のもらい手などまかり間違っても消滅しているに違いない。
それが実際は、刑の執行と共に夫ができてしまった。意味がわからない。
「まあ、そうだな……」
眉をひそめたイリスにずい、と顔を寄せて、ザグレウスはかすかに笑った。
「何?」
距離を詰められたぶんだけ、反射的に身を引く。訝しみながら彼の視線を受け止めていると、ザグレウスはにんまりと口角を上げる。
「俺はあんたに惚れてるんでね」
途端、イリスは半眼になった。
「お前、ごく稀にいる変態かしら?」
「ひどいな」
「傾国王女を好きになる男が変態でなくてなんだと言うのよ。で、本音は?」
ザグレウスは肩を竦めた。
「冗談だと思われてんのは心外だが……まあ、あんたに惚れてる以外の理由もなくはない。金だ」
「は……金?」
だいぶ予想外の理由が飛び出し、一瞬反応が遅れる。彼は飄々と告げた。
「冥府刑の執行には報酬が支払われる。仕事なんだから当然だな。加えて、王女が降嫁されると莫大な結納金が入るわけだ」
言葉の意味を理解し、イリスの頭の奥が急速に冷える。
「……お前、ふざけている?」
「まさか。本気だ。好きな女を手に入れて、結納金も手に入るんだ。これ以上の幸福はないだろ」
「やっぱりふざけているわよね?」
「ふざけてなんかない。何せ俺のところは年々家計が火の車なもんでね」
どういうことかと眉をひそめて、イリスはふとあることを思い出す。
ザグレウスの収める東方国境レ・ヴァリテは、やや特殊な土地だ。国中の悪党を管理していながら、国境から他国の軍が侵入するのを防いでいる。特に最近は隣国の情勢が思わしくないようで、小競り合い程度の戦いなら珍しくないという。
つまり、内と外に同時に爆弾を抱えている状況なのだ。国から予算が出ていたとしても、単純計算で他の辺境伯より倍の管理費用がかかるだろう。領主にとっては死活問題だ。
「……なるほどね。そういう利点がそちらにあるなら構わないわ。存分に私という駒を使ってちょうだい。迷惑料としては妥当よ」
頷いていると、何故かザグレウスのほうが拍子抜けした様子でこちらを見ていた。
「俺が言うのもなんだが、あんた、それでいいのか?」
「何が? 民の上に立つ者として、民たちを飢えさせることほど馬鹿な罪はないわ。あなたの判断は正しいわよ。私だって、国が崩れないように他国に嫁いで交易を広げるくらいはする予定だったのだし。結局こんなことになってしまったけれど」
すると、不意にザグレウスの顔色が変わる。
「他国に嫁ぐつもりだったのか、あんた?」
今までの飄々とした笑みが消え、血のような瞳の奥に静かな激情が灯った。声からも温度が失われ、唐突にその場が極寒になったかのような錯覚を覚える。
イリスは困惑した。何をそんなに怒っているのだろう?
「つもりというか、そういうものでしょう。私は国の駒だもの。そうあるべきだわ。まあ、今はお前のものだけど」
告げた瞬間、何故か彼の瞳から炎が消えた。きょとんとした顔は思ったよりも幼い。
「俺の?」
「そうよ。よく知らないけれど、冥婚だかなんだかは為されたのでしょう? それ以上に私は囚人よ。看守に従う義務があるわ」
胸に手を当て、少女は囚人には似つかわしくない、居丈高な態度で命じた。
「私を上手く使いなさい。お兄様がこの世に留めてくださった命、無駄に使ったら容赦しないわよ。まあ、厳密にはもうここに命なんてないけれど」
彼は虚を衝かれた様子で口を噤む。そして、何故か探るようにじっとイリスを凝視した。
だが、数拍経っていきなり、にやりと笑う。
「なるほど、そりゃいい」
イリスに毒を飲ませたときの、あの飄々とした微笑みだった。
「よろしく頼むぜ、俺の姫いさん」
「もう姫じゃないわよ」
「俺のだからいいんだよ」
唐突に機嫌がよくなったらしい男に首を傾げつつ、イリスは胸元に視線をやった。
手を当てた場所からは、鼓動を全く感じなかった。
◇◇◇
それから何日も、イリスとザグレウスは馬車に揺られ続けた。ディルクルム王国の中心地にある王都から東方国境までは、数日どころではない旅路になる。だが、悪路と呼ばれる道を半日かけて通ったときも、イリスはほとんど疲労を感じなかった。
それどころか、これまでにないくらい体が軽い。死人に疲労など関係ないらしい。
「お、姫いさん、見ろ」
不意に、コツン、とザグレウスが小窓を叩く。田畑ばかりだった風景の向こうに、灰色の何かが混ざりこんでいた。
目を凝らしてよく見ると、それは壁だった。円状に設置された高い壁の中に、整然とした街並みが広がっている。
「あれが俺の領地、東方国境レ・ヴァリテだ」
「話には聞いていたけど……すごいわね。東方城砦と呼ばれるだけあるわ」
東方国境レ・ヴァリテ領は、一言で言うと城砦都市である。街をぐるりと取り囲むように石造りの壁があり、国境に近い位置には最も分厚い壁がそびえ立っている。
これは執行人たるカルニフェク辺境伯の領地としても理にかなっていた。罪人がおいそれと逃げ出せない造りになっているのだ。死して逃げることが叶わないため、脱走で刑期を足されることを恐れる罪人も多い。
内からも外からも侵入を防ぐ、難攻不落の東方城砦。それがレ・ヴァリテ領の本質だった。
それから数時間かけ、イリスたちはようやくレ・ヴァリテの入口に辿り着く。ザグレウスが小窓を開けて何事か指示すると、瞬く間に門兵が重厚な門を引き上げていく。
その先に、石畳を敷き詰めた街並みが広がっていた。
馬車が再び進み始め、振動に身を委ねながら、イリスは窓から街並みを見つめる。
ちょうど人々が家路につく時間帯らしい。帯のような橙色の夕暮れの光が、人々の間に影を落としていく。
どうやら街の中心に大きな通りが設置されているらしく、馬車は家々に挟まれた道をがたごとと進んでいく。イリスはこれから暮らす土地の民のことをなるべく目に焼き付けようと、じっと窓の外を見ていた。
ザグレウスは何が楽しいのか、飄々とした笑みを浮かべ、横目でイリスを見つめる。骨ばった指を揃え、街並みを指し示した。
「ようこそ姫いさん。生者と死者が共生する、東方国境レ・ヴァリテへ」
ふと、その言葉に違和感を覚える。
「生者と死者が共生……? 罪人とまつろわぬ民はお前が管理しているのでしょう? ここにだって、普通の人間しかいないわ」
呟きながら、イリスは脳内で、記憶の本を開く。
レ・ヴァリテは確かに死者の住まう都市だが、死者だけが暮らす土地ではない。罪人は基本的にカルニフェク辺境伯の敷地内に置かれているはずだし、まつろわぬ民は保護されている――つまり、隔離されているのではないか、とイリスは思っていた。
その証拠に、イリスの視界に映る人々は確実に人間だった。
夕暮れ時の光に照らされる街並みをじっと眺める。洗濯物をとりこむ女性に、早足で道を横断する男性。きゃらきゃらと笑い声を上げて駆けていく少年たち。燐光を発している者は皆無だ。
だが、ザグレウスは怪訝そうに首を傾げる。
「何言ってんだ姫いさん。まつろわぬ民だって普通に街に住んでるぞ」
「あら、お前の家で管理しているのではないの」
「罪人じゃないんだし、そんな必要ないだろ。生者も死者も、平等に俺の領地の民だ。普通に家もある」
淡々と告げられた事実に、イリスはいささか驚いた。死者に土地を与えているのか?
「それは……必要なの?」
「何が?」
「死者はもう死なないでしょう。土地が空くことがないわ。生きている人間のための土地がなくなるわよ」
死者だって人間だ、というのはなるほど、慈悲深い言葉であり、一部は事実だ。彼らは人間だった。立派に生をまっとうした人間には、安寧の地が与えられてしかるべきだ。
しかし、それは生者の土地を侵してまで与えられるべきものではないと、イリスは思う。
イリスは骨の髄まで王族である。たとえ王族としての籍を抜かれても、考え方が平民になるわけではない。
少なくとも、今ある限られた土地は生者のためにあるべきだ。死者のために、生者が土地を追われれば本末転倒だろう。
「あいつらはこの世の生に満足したら天に還る。そうしたら土地も空くし、そもそもまつろわぬ民になる人間はごくわずかだ。この世に未練のあるやつなんかそうそういない」
「ふうん……?」
つまり、増えるよりも減るほうが早いということだろうか?
イリスはいったん納得して頷き、窓の外を眺める。
「確かに、見たところ街にもまつろわぬ民はいないわね。それだけ数が少ないの?」
「姫いさん、本当にレ・ヴァリテのことを知らないんだな」
呆れた――というより、やや探るような視線を向けてくる。イリスはきょとんと目を丸めた。
「……? 当たり前でしょう。私、この土地に来たこともないもの。各地方の特産品と税率なら頭に叩き込んであるけれど……」
「なんでそんなもん覚えてるんだ」
当然だとまなじりを釣り上げる。
「王家主催の晩餐会が年に一度あるでしょう。各地方の領主や貴族を招いておいて、特産品の一つも知らない王族なんて話にならないわ。まあ、今代の死神辺境伯に会ったことはなかったけれどね」
挑発的に顎をそらす。彼が問題児と呼ばれる所以はここにあった。
王家主催の晩餐会といえば、ほぼ強制的に領主たちが王都に召喚される催しである。もちろん理由があれば欠席も可能だが、ザグレウスは当主に就任してから五年の間、一度もこの晩餐会に参加していない。貴族や諸侯たちからは「これだから平民上がりは」とぶつくさ言われる始末である。
それだけではなく、今代の死神辺境伯は、王都で開かれる催しの全てに欠席しているのだ。理由に一言「忙しい」とだけ言い添えて。
「お前への批判をいなしていたお兄様に感謝しなさい。お兄様がいなければ、今頃お前、お役御免にされていたわよ」
「そりゃ、悪かったな。俺も色々あるんでね」
肩を竦めた彼の頬に陰が落ちる。本格的に日没が近いようだ。
「色々って、お前ね――」
「しっ、姫いさん」
彼は素早く人差し指を立て、唇の前に当てた。
「怖い思いをしたくないなら黙ってたほうがいい。喋ってる間に境界を超えた」
「は?」
境界……?
聞きなれない言葉に首をひねったとき、不意に周囲が暗くなった。
イリスは咄嗟に辺りを見渡す。日没にしては唐突だった。顔の輪郭すら朧気になろうかという闇の中で、イリスの肌だけがうすぼんやりとした燐光を発する。
ふと、寒気を覚えた。
「何……?」
何か、いる。
根拠のない確信を持って、窓へ視線をやったそのとき――
がん! と鈍い音が馬車の中に響いた。