第29話 東方国境への帰還
「え、じゃあイリス様、もうお兄さんと会えねえの!? なのにさくっと帰ってきちゃったの!?」
青く澄み渡った空に、甲高い少年の声が吸いこまれて消えた。東方国境レ・ヴァリテの墓地は本日も賑やかである。
金髪の少年、フィニは唖然とした顔で口を開け、地団駄を踏んでザグレウスを睨み上げる。
「じゃあもうちょっと二人きりで過ごさせてあげれば良かったじゃん! なんで日帰りしてきちゃったんだよ!」
「日帰りってお前な」
ザグレウスは顔をしかめて片耳を塞ぐ。
「幻覚程度とはいえ、姫いさんは術の影響を受けた上に、無理やり魂の蘇生までして、挙句にもっかい死んでんだぞ。魂が割れててもおかしくなかった。ゆったりお泊まりとかしてる場合じゃなかったんだよ」
「魂の蘇生はザグ兄のせいだし、結局イリス様の魂、傷一つなかったんでしょ。まあそりゃ、攫われたときはびっくりしたけどさ……」
守れなかった負い目もあるのか、フィニの声が萎んでいく。そんな少年を数拍見つめ、ザグレウスは頭をぽんと撫でた。
「お前が気にすることじゃねえよ、フィニ。俺が姫いさんのそばにいなかったのが悪い。今回のことで学んだ。今度からは縛りつけてでも持ち歩く」
途端、フィニの目が残念なものを見るときの色に変わった。
「ザグ兄さあ……そもそもイリス様はザグ兄のもんじゃないだろ」
「残念ながら、正式に冥婚をかわしたから俺のものなんだよな、それが」
「あなたたち、もういい加減に本人の前でそういう話題を出すのをやめなさいよ」
ザグレウスに殴りかかってきた罪人を地に沈めてから、イリスは腰に手を当てて言い放った。ちなみに今日はこれで三人目である。この男、東方国境の主だと思われていないのではないか?
フィニがぐるんとこちらを向いた。
「イリス様はいいわけ? もうお兄様とはしばらく会えないんだろ?」
「そうね。私は本格的に王女じゃなくなったから、王城から呼び出しでもない限りは、もうお兄様のところへ向かう建前もなくなってしまったわね」
「ほらぁ! そんならもっとちゃんと話したりさせてあげれば良かったじゃん!」
「だからなんで俺に言うんだ」
呆れ顔のザグレウスをぽかぽかと叩き、ついでにイリスが地に沈めた罪人たちの脳天をどつき回して、フィニは可愛らしく頬を膨らませた。
イリスは口に手を当てて笑う。
「いいのよ、もう。私の肩書きが変わっても、お兄様が私のお兄様であることに変わりはないし……私が帰ってくる場所は、もうここ以外にないもの」
吹きすさぶ風に目を細めながら、辺りをぐるりと見回す。
ここは辺境伯の敷地にある、集団墓地の一つだ。自分たちがここに帰ってきてからというもの、ザグレウスは休みなく墓地の至るところに「縛り」をかけ続けている。どうやら術士たちが攻め込んできたとき、色々あってこの大地の真下にある「奈落」と地上が繋がってしまったらしい。そのせいで、地上の様々な「縛り」にかすかな綻びが生じているのだそうだ。
正直何の話かさっぱり分からなかったのだが、ザグレウスは何も教えてくれなかったので、後で自分で調べてやろうとイリスは決めている。
時間なら腐るほどある。イリスはずっとここにいて、一生、死神辺境伯の妻として生きるのだから。
「そういうわけだ、フィニ」
「なんでザグ兄が得意げなんだよ……帰ってきてから頬が緩みっぱなしでちょっとキモイよ」
「よし、この三人をちゃんと懲罰房へ連れていけ、フィニ。脱走させるなよ」
ザグレウスが良い笑顔で告げた。倒れている男たちは皆だいぶ屈強だ。抱えて運ぶのはとてもじゃないが無理だろう。
うげっ、とフィニは顔をしかめ、しょうがねえな、と呟く。どうするのかと思えば、男たちの足に縄を結び、引き摺ることにしたらしい。だいぶ容赦がない。
彼はそのまま懲罰房とやらに罪人たちを連れていこうとして、不意に立ち止まった。無言でイリスのそばにやってくると、不安そうに眉を下げる。
「ねえ、イリス様」
イリスはきょとんとする。
「なあに?」
「攫われたとき、痛かったり、怖かったりした?」
予想外のことを問われて、しばし動きを止める。それを図星と受け取ったのか、フィニは顔をしかめて言った。
「俺、ちゃんと手伝うって言ったのに、イリス様のこと、守れなかった。何されてたのかは分かんなかったけど、殴られてたのは、見えたし……」
しりすぼみになっていく言葉を聞きながら、イリスは唇をゆっくりと弧の形に変えた。
「もういいわよ。結果的に、私はあれがきっかけでザグレウスのことを思い出したのだし」
「え」
「は? なんだそれ、初耳だぞ」
ザグレウスが目を丸くする。そういえば言っていなかったかもしれない。
「思い出したって……イリス様、ザグ兄と会ったことあるの?」
「昔ね」
「おい待て、俺はあんたを攫ったことなんてないぞ。どんなタイミングで思い出してんだ」
そんなことを言われても。
「あの男に見せられた幻術がね、昔、路地裏で私に縋ってきた、まつろわぬ民にそっくりだったのよ。多分、私が一番弱かったときの記憶を見せたんじゃゃないかと思うわ。確かにあのとき、私は人生で一番無力だったものね」
彼の顔が「そんなふうに見えなかったが?」と如実に語っていて、イリスは思わず笑う。
「もちろん、怒っていたし、抗っていたつもりだったわ。こんなところで死んでたまるかって、思ってた。でも、あんなちっぽけな怒りじゃ、まつろわぬ民にすら対抗できていなかった。当たり前よね、王族ではないイリスという名の個人に、私は興味がなかったから」
「……」
「そのときに、お前が来たの」
ザグレウスがわずかに瞠目する。
「お前が来たとき……お前が傷つけられたときの怒りは、本物だったわ。許せなかった。私の民に何をしたのか、あの恥知らずたちに思い知らせなければと思って……だから、あのとき怒鳴ることができたのは、お前のおかげね」
イリスにとって己は、昔も今も、民のことを食い潰す傾国王女だ。自分を殺すために何人死んだか分からない。自分を守るために何人死んだか分からない。
この身は屍の上に立っている。死神辺境伯など目ではないくらいの罪が、この身にはある。
だからこそ、あのとき、ザグレウスが来てくれて良かった。イリスは、己のために動けない人間だから。
フィニが感心したように頷く。
「そこで『助けてくれてありがとう』じゃなくて『助けさせてくれてありがとう』ってなるのがイリス様だよなあ」
何が言いたいのかよく分からずに首を傾げる。フィニは呆れと尊敬がないまぜになったような顔でこちらを見ると、ぽんとザグレウスの腕を叩いた。
「だから言ったじゃん。根っからこうなんだって、イリス様は。自分大事にしろって怒鳴ったってだめだよ」
「……だから困ってんだろうが……」
「蝶よ花よと大事にしたらなんとかなるんじゃない?」
「姫いさんが大人しく大事にされてくれると思うか?」
言って、二人で同時にイリスを見る。なんなのだ?
眉をひそめていると、フィニが嘘くさい笑顔を浮かべて、ぽんとザグレウスの背を叩いた。
「頑張れ、ザグ兄! じゃ、俺こいつらを懲罰房に入れてくるから!」
きっぱりと言い、そのままずるずると囚人たちを引きずっていく。何かよく分からないが、彼がだいぶ図太いということは分かった。
「あのガキ、他人事だと思いやがって……」
ザグレウスは苦虫を噛み潰したような顔でフィニを見送り、大きく嘆息した。イリスはしばし考え、彼に近づく。彼らの会話をなんとか理解できる箇所だけ拾い上げて、問いかけた。
「お前、そういえば、私をもともと人間に戻すつもりがあったのよね? だから、遺体を保存しておいたのでしょう?」
ザグレウスは一瞬その目を眇めたが、ややあって、平べったい目をして頷く。
「そうだな」
「それも、私が大事だから?」
「……逆に聞くが、それ以外に理由があると思うのか?」
「なさそうだから不思議なのよ。そこまでお前がする意味ってなんなのかしらと思って。だって、お前は私が好きなのよね? なら、冥婚を交わしたこと自体、嬉しかったのではないの? 蘇生させる必要があったかしら?」
ザグレウスはとても嫌なことを言われたかのように顔をしかめる。しかしすぐに目を閉じ、眉間を揉んだ。まるで、聞き分けの悪い子供に言い聞かせる準備をする大人だ。
「……姫いさん」
返事をする間もなく、手を取られる。ふと見下ろしたザグレウスの指は、イリスのものと違ってなんの光も発していない。
イリスのように冷たくもない。人の肌色で、人の体温だ。
かつての兄と同じように、そこには柔らかな断絶がある。
「そりゃあ、俺のものとしてそばにいるあんたを見るのは、正直、気分がいい。自分がずっと欲しかったものがここにあるんだから、当たり前だ」
するりと、彼の手がイリスの首元に添えられた。もう死んでいるのに、命を握られているような感覚になる。
「でも、あんたには兄もいて、この国もある。そりゃあんたはもう王女じゃないけどな、それでも永遠にアストラス殿下の妹だ。王女じゃなくなったからって、兄を心配するなってのは酷な話だろ」
「……そうね。お母様は結局、まだ幽閉されたままだし」
正妃アグリシェーラの犯した罪は重い。しかし、彼女の人脈は国の深くまで根を張っていて、どころか隣国まで手を伸ばしていた。それらに繋がる道を知っているのは彼女一人だ。表立っての協力者は自ら命を断つか、貝のごとく口を閉ざしているという。
だからまだ、彼女は幽閉されている。その身が犯した罪も、どれだけの人を籠絡し、傀儡に育てたのかも、まだ全ては分かっていない。
そんな爆弾を残して、イリスは死んでしまった。アストラスを助ける権利を、永遠に失った。
「何度も言うが……俺は、あんたを縛りつけたかったわけじゃない。あんたが自分で人に戻りたがったら、きちんと解放してやるつもりだった。今もそう思ってる」
「……今も? 私の死体はもうないわよ」
アグリシェーラが希望を持たぬよう、イリスの体は燃やし尽くした。王族の体を燃やすなど前代未聞だとアストラスは止めたが、イリスが譲らなかったのだ。
この身はどこまでもディルクルムのために。そうあれと教えられて、そうありたいと願ってきた。体があることで国の火種になるならば、いくらだって燃やしてみせよう。そもそも、イリスは体なんてものに執着はない。
ここに魂があるのだから、他は些事だ。
「体がなくても、生き返らせる方法があるの?」
「さあな、方法は知らねえが……だが、姫いさんが戻りたいと言うなら、俺は地べたを這いずってでもあんたが人に戻る方法を探す」
透明な視線が、イリスの瞳を、口を、喉をすべる。
それがあんまり真剣だったから、イリスは思わず吹き出してしまった。
「お前、馬鹿ねえ」
怪訝にするザグレウスの手を握り返す。そのまま、彼の胸ぐらを勢いよく掴み、笑った。
「どうして私が、気に入らない人間なんかに私自身をくれてやると思うの」
目を見張った彼の胸元をぐんと引き寄せる。掠めるように口づければ、ザグレウスは完全に固まった。
唖然とする姿があまりに愉快で、口の端から笑い声がこぼれ落ちる。
「あのね、私、自分の価値を見誤るような馬鹿ではないわ。いくら命を『助けさせてくれた』礼だからって、誰にでもほいほいこの身を与えるわけがないでしょう」
「なら、何故」
「お前にならあげてもいいだろうと思ったのよ。それだけ。勘だったけれど当たっていたわね。私はもう命を脅かされないし、誰の人生も壊さなくていいの。こんなに素晴らしいことが、他にある?」
兄を支えられないことは辛い。母を野放しにした罪は重い。ただもうこれ以上、己のせいで失われる命が増えないことは確かだ。
それはイリスにとって、何よりの幸福に違いなかった。魂が縛られるからなんだと? それを補って余りある幸を、この男は自分にくれたのだ。
「お前は私の最も大きな願いを叶えた。なら、私の魂くらい、いくらだってあげるわよ」
胸に手を当て、イリスは宣言した。
「誇りなさい。お前は私との約束を守った。生き抜いてここまで来て、自分で私を手に入れた」
唖然とするザグレウスに向かって、イリスは軽く肩をすくめる。
「それに私、お前のものでいるの、結構好きみたいだもの。人なんかに戻さなくていいわ」
「……は」
ザグレウスはぽつりと吐息のような声を落とした。ややあってかすかに俯き、肩を震わせている。
笑っている……? いや、泣いているのか?
首を傾げたイリスの前で震えがぴたりと止まる。さらに怪訝にしていると、腕がぐいと引かれた。驚く間もなく、彼の胸元に倒れこむ形になる。大きな手が素早く背に回った。
「あんた、本当に……」
「……ザグレウス?」
彼はイリスの肩に額をぴたりとつけており、表情は窺いしれない。ただ、痛いくらいに抱きしめられている。
「あんたが、死刑なんぞに処されなくて、良かった」
「え?」
「あんたが、誰のものにもならないまま……俺のものになって、良かった」
力がどんどん強くなる。骨が軋むような痛みが背に走ってようやく、イリスは理解した。
この男は……不安なのだ。ずっと、ずっと、不安なのだ。
よく考えれば当たり前のことだった。路地裏で守られるかも分からない約束を交わし、そのために貴族になるとまで宣言し、その通りに生きたらなんと相手はそれを忘れかけていて、どころか挙句の果てに気づけば処刑寸前まで行っていたのだ。
そう考えると、彼に対してだいぶひどいことをしたかもしれない。
「……なるほどね」
だから、イリスは償うことにした。
彼の首に腕を回す。
「大丈夫よ、ザグレウス。もう、私はお前以外の誰のものにもならないのだから」
「嘘つけ……あんた、国のためなら命放り出すだろ……」
「それはまあ否定しないけれど、そんなに簡単に放り出せないように、冥婚を交わしたのでしょう?」
絶対にそんな理由のためではなかったはずだが、イリスは平然と言ってのけた。
「私、お前のものなのだから……お前が手綱を握っている限り、お前のところに帰ってくるわ」
彼の胸元に頬を寄せる。自分を閉じこめるようにきつく抱く腕に、少女はくふくふと笑った。ザグレウスが大きく息を吐く。腕の力が強くなる。
「魔性め……」
恨めしげな声が、青空の向こうに溶けていった。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!よく考えたら冒頭2話で主人公が死んでいるというとんでもない話なのですが、なんとかハッピーエンドに持っていけて良かったです。相変わらず15万字はある小説なので、ここまで読んでくださって本当に嬉しいです。
面白かったな〜と思っていただけたなら、ぜひ星をぽちぽちしていただけますと、次の作品の励みになります。重ね重ね、ここまで読んでくださってありがとうございました!




