第24話 夢路(1)
夢を、見ていた。
夢の中で、イリスは子供になっていた。齢八、九ほどだろうか? 幼いイリス・ヴィエーラ・ディルクルムが、暗い裏路地を走っている。
いつもよりもやや簡素なドレスだ。髪もろくに結い上げていない。少女は思い詰めた顔で、周りを見回しながら懸命に路地を駆け抜けていく。
息が切れる。足が痛い。それでも、走り続けなくてはいけないことは分かっていた。
けれど、ここはどこで、自分は何をしているのか、何も分からなかった。
その刹那のことだった。
濁流のような勢いで、記憶が頭の中に流れ込んでくる。まるで殴られたような衝撃だった。思わずよろめいたと思ったのに、幼いイリスは走り続けていた。現在のイリスの意図とは別に体が動き、混乱する。
頭の中に「早く探さないと」という言葉が浮かんだ。
『早く、早くお母様を探さないと』
『誰かに見つかる前に』
『でないと、でないと――』
『でないと私、殺されてしまうわ』
――ああ。
そうだ、己はこのとき、殺されかけていたのだ。
正確には、暗殺未遂が繰り返されていた時期のことを、夢に見ているのだろう。
イリスは知っている。自分が数多の人間に襲われ、命を狙われ、方々《ほうぼう》を逃げ回っていた時期があることを。
記憶力のいいイリスが唯一思い出せない、パンドラの時期が存在していることを。
アストラスが王城に上がったのはイリスが八つの頃だった。庶子とはいえ、正当な王の血を引く王太子だ。王城は瞬く間に混乱に陥った。
そして彼が来てから、徐々にイリスの母は壊れていき、イリスの評判も加速度的に悪くなっていた。派閥が二つに分かれ、敵対するのは時間の問題だった。
イリスが九つになった頃が最も危なかった。その頃にはもう、イリスの母たるアグリシェーラ妃の派閥と、王太子であるアストラスの派閥が、互いに暗殺未遂を繰り返していたのだ。
毒殺未遂など日常茶飯事、眠る場所ひとつにすら気を使わなければいけず、長年仕えた侍女すら信用ならない。イリスとアストラスの意志を置き去りに、年若い子供たちの命は狙われ続けた。
焦ったのは、二人の父たるディルクルム国王だった。このままでは最悪、イリスもアストラスも命を落とす。当時は二人の他に王の子はおらず、二人が死ぬことだけは絶対に避けなければならなかったのだ。
そこで王は、息子と娘に一時的な地方への避難を命じた。王城には身代わりを立て、二人を別々の地に一時的に逃がしたのだ。イリスもアストラスも、およそ一、二年ほどかけて、さまざまな土地を転々としていた。
その頃の記憶は、イリスにはほとんどない。幼かったからというのもあるが、単純に耐えられなかったのだろう。何せ毎日毎日、親しい人間もそうでない人間も関係なく自分の命を狙ってくるのだ。今でもわずかに思い出せる記憶は、夜中に泣きながら自分の首を締めてくる侍女や、自分の身を犠牲にしながらイリスに毒を飲ませようとした毒味役、怨嗟を浴びせて斬りかかってくる衛兵たちで埋まっている。十にも満たない少女の心が、耐えられるはずもない。
人間は、大切なことだろうとすぐに忘れる。それが大切だと知らなかったから。覚えているのが面倒だったから。大切だなんて思えなかったから。さまざまな理由で忘れていく。
そしてイリスは、記憶なんて、保っていたらやっていけなかったのだろう。
他人事のように思いながら、イリスは通り過ぎていく景色をぼんやりと見つめる。
ああ、そうだ、でも。
でも、確かに覚えている。私はここに来たことがある。
あの薄暗く、すえた匂いのはびこる路地裏を、私は知っている。
「はあっ、は、っ、はあっ……!」
息を切らして路地を駆ける。視界の中に母はいない。石畳でできた暗い路地が、ずっと先まで続いている。
イリスは思わず奥歯を噛んだ。本当に、自分は王女でなければ何もできない、ただの小娘なのだと思い知る。
そもそもが逃げるための旅路だったのに、イリスはそれすらも上手くできなかった。王城を離れてしまうと、己の身一つ守ることができない。少し人の多い場所に出た途端、母親からも護衛からもはぐれて、このざまだ。
母は最近、本当に調子が悪くなっていた。イリスを見ているようで、どこも見ていない時間が増えた。ひょっとしたら、イリスが消えてしまったことにも気づいていないかもしれない。
「お母様、どこに……」
周りを見回す。辺りがやけに暗い。
かちかちと寒さで歯が鳴った。まだ冬には遠いはずなのに、どうしてこれほど寒いのだろう?
寒さと、恐怖は似ている。どちらも体が震えるからだろうか? それとも、暗く恐ろしい空気が、寒さを引き連れているからだろうか?
ぼんやりと取り留めもないことを考えていたイリスの前に、ふと、誰かが立った気配がした。
「お母様?」
顔を上げる。
さほど離れていない場所に、誰かが立っていた。
路地の中に射し込んだ西日が逆光になって、顔が見えない。
それは何も言わずにこちらを見つめている、ように見えた。イリスはもう一度呼びかける。
「お母様、迎えに来てくださったの?」
一歩、足を踏み出す。すると、目の前の誰かもすたすたとこちらに向かって歩き出した。これならあと数歩で顔が見える。無意識に安堵し、またもう一歩、イリスも歩を進めて。
その足を、がしっと掴まれた。
「え」
咄嗟に見下ろした先で、自分の足首をぐるりと覆う手が見えた。ぞっとするほど冷たい手だ。ほとんど外に出ないイリスよりも肌が青白い。
イリスの脳みそが、一斉に警鐘を鳴らした。
反射的にその手を振り払おうとしたのに、足が一歩も動かせない。どうして、と呟いたイリスの手首を、誰かが掴んだ。
はっとそちらを見る。
そこにいたのは、顔がひどく焼けただれた男だった。にやにやと笑いながら、イリスの小さな手を掴んでいる。男の指がねっとりとした動きでイリスの手首を這いのぼってきて、言いしれない嫌悪感を覚える。
「お嬢ちゃん、いくつ? かわいいなあ……」
「お前……」
「ふふ、この顔気になる? 気になるよねえ? あはは、焼かれちゃったんだ……僕さ、君みたいな子と、仲良くなりたいだけなのにさ……」
離れなさい、と言おうとした直後、真後ろから誰かがイリスを抱きしめてきた。驚くイリスの体がギチギチと締めあげられていく。生ぬるい息が首にかかり、イリスは思わず息を詰めた。
「な、に……!」
顔も体も動かせないまま、何人もの人間が全身にしがみついてくるのが見える。縋るような視線を向けてくる者もいれば、憎しみにまみれた目を向ける者も、下卑た笑みを浮かべている者もいた。
「ねえ、痛いの。ここ、お腹、破れてるの。ねえ、なんか出てるんだよ、ねえ」
「お前……お前が生きてて、こっちが死んでる道理はねえだろ、なあ……なあ……」
「かわいいねえ……まだちっちゃいねえ……ずっとちっちゃければいいのにね……」
不可思議なことに、彼らの姿は暗い路地の中でもはっきりと見えた。何度か目をしばたたいて、ああ、光っているのだと気づく。
男も女も、そこにいる者たちは皆、体の輪郭が不自然に光っていた。銀と青をうまく織り交ぜたような、残照のような光だ。
だから、よく見えた。
女の腹に突き刺さった包丁も、男の頭がへこんで血にまみれているのも、よく見えた。
未だに、真後ろの誰かは、荒い呼吸のままイリスを締め上げ続けている。
ああ、これは死ぬ、と理性が呟いた。幾度となく暗殺未遂を乗り越えてきたが故の直感だった。これはダメだ、逃げられない。
「綺麗な目だねえ……」
男の手が伸びてくる。こんなわけも分からない状況で、こんな、わけも分からない者たちに殺されるのかと思うと、瞬間的に怒りが沸いた。
そんなことには耐えられない。まだ何も為せていないのに。己はまだ、この国の役に立っていないのに。
国の役に立てないまま、誇りまで失うのはごめんだった。
もはや意地でしかなかった。凍りついた腕を無理やり引き剥がすようにして、男の手を、全霊で叩き落とそうとしたとき。
「やめろ!!」
耳をつんざくような声が聞こえて、大きな影が視界を覆った。男を振り払おうとした手が、熱い何かに包まれて、強く引かれる。ずるりと、自分が引きずり出されたのを肌で感じた。
温かさが全身を覆う。気色の悪い感覚でも、殺気でもない、己を守るものだという確信が降った。
何かに、抱きすくめられている。
気づいた瞬間、くぐもった悲鳴が耳に届いた。
「ぐっ、う……」
手を握る力が強くなり、ぎゅうと強く抱きしめられた。どうにか視線をずらした先、鮮やかな赤が視界に散る。
……赤? 否、これは血だ!
イリスは素早く状況を把握した。誰かが自分を抱きしめていて、その二の腕からぼたぼたと赤が落ちている。いつの間にか、ナイフを持った男がにたにたとこちらを見ていた。
「盗った? 盗ったよねえ? いけないんだ、人の物を盗ったら、いけないんだよお……」
呆然とするイリスのすぐそばで、悲鳴を噛み殺す声が聞こえる。咄嗟に顔を上げると、そこには顔を青ざめさせた一人の青年がいた。彼が苦悶の表情を浮かべているのが、見えた。
急速に頭が回転する。おそらくこの青年は、ディルクルムに住まう民だ。
本来、自分が守るべき、尊き民だ。
それを、今。
イリスの頭の中で何かがぶちりと切れる音がした。再びナイフを振りかざす男に向かって、大きく声を張る。
「やめなさい!」
男はびくりと動きを止める。イリスの全身から、たちまち強烈な怒気が放たれた。人の上に立つ者として、言葉を覚えるよりも前から英才教育を受けてきたのがイリスだ。このような男に負ける道理はない。
殴られたかのごとく動けない男に向かって、静かに告げる。
「今すぐに去りなさい。この者を、これ以上傷つけることは私が許さない」
男は一瞬、唖然とした顔でイリスを見たが、じわじわと顔を憤怒に染め上げた。ぐるぐると獣のような唸り声が聞こえる。
馬鹿にされたと思ったのかもしれない。男は危なっかしい手つきで、ナイフをイリスに向けてくる。目は虚ろになって、だらりと口の端から唾液が垂れた。
だが、イリスはわずかも怯まず吠えた。
「痴れ者が! 今すぐここから去ね!」
矢のごとく放たれた怒声に、男がびくりと肩を震わせる。本物の怒りだからこそ、少女の怒声は雷鳴のようにその場に響いた。
許せるはずもなかった。己の民を傷つけられて、怒りに震えない王族がどこにいようか?
この瞬間、イリスは自分が殺されかけていたことなどすっかり忘れていた。
業火の怒りを纏った少女の視線に怯み、数拍ののち、男は踵を返した。ナイフを放り投げてどこかへ走り去っていく。




