第21話 陽動作戦
どちらにせよ、このままでは膠着状態だなとイリスは冷静に判断した。テンペスタ側が何を企んでいるかは知らないが、もう少し牽制が必要である。
にしても、どうにも彼らはイリスの何かを疑っているらしい。本物の王女なのかを疑っているのか、それとも……
「大丈夫だ、姫いさん」
イリスの耳元で、ザグレウスが囁く。
「今に、矛が揃う」
そのときだった。大広間の入口付近が、にわかにざわめく。
令嬢たちの黄色い悲鳴が、さざなみのように空気を震わせる。イリスも術士も、導かれるようにしてそちらを見た。
白い、という印象が、何よりも先に来た。
一人の男がこちらに向かって歩いてくる。金の髪をなびかせ、快晴の空を思わせる蒼い瞳を持つ男だ。当然のように、その肌は銀青色の淡い光をまとっていた。
男は騎士のような風体をしていた。詰襟から足元の裾にいたるまでが、一面の雪のように白い。指先までもが白い手袋で覆われ、彼の蒼白の肌も相まって、色そのものが存在しないかのようだ。
イリスは思わず、目の前の術士と見比べる。この男も衣装に白を取り入れていた。だが、白皙の騎士はそれ以上に白い。まるで一片の泥すらも寄せつけないと言わんばかりに。
イリスはまじまじとその騎士を見た。テンペスタでは、力のある術士は白い衣装を着るのだという。自らが血に濡れることなどありえないという、宣告のために。
瞬間的に、彼が「矛」――アダム・ザイードなのだと確信する。だが同時に疑問が湧いた。これは相当、高位の術士なのではないか?
目の前で立ち尽くす術士が、愕然と目を見開いてアダムを見ている。だが、対するアダムは術士を一瞥しただけで、そのままザグレウスの前で立ち止まる。優雅に胸の前で両手の指を組み、一礼した。テンペスタ式の礼だ。
「私を呼んだか、領主」
「ああ、時間通りだな」
「私は貴殿の罪人なのだから、看守に従うのは当然のことだが」
随分と頭の硬そうな男である。ザグレウスも苦笑して「気にするな」と囁いた。どうやらいつものことらしい。
アダムは顎に手を当て、神妙な顔で術士の一行を見た。彼らは皆、呆然とアダムを見つめている。彼らの瞳に、歓喜と困惑、畏怖が次々に浮かんでは消えていった。
術士たちを見て、アダムはぽつんと言った。
「異様だな、お前たちは」
ザグレウスが眉をひそめる。
「異様? どこがだ?」
「ここにいる者たちには畏怖が感じられない。我らが神に対する畏怖だ。ない……というわけでないが、薄い。ほんのわずか、かすかなそよ風程度だ。この程度の信仰心で神が力を授けるはずもなかろうて」
奇妙な論理だった。イリスはどうにか、彼の主張を分かりやすく脳内で変換する。
「つまり……どういうことかしら。この者たちは、術士ではないということ?」
ちらりと見る先で、彼らはひどく動揺していた。言い当てられたというより、アダムが現れたことに呆然としている様子である。
「ザイード、神霊、術士……?」
歓喜と怯えにまみれた視線で、術士が言った。今にも膝をつかんばかりの態度だった。
アダムがふむ、と呟いた。
「私の姿を知っているのか。ならば貴殿たちは、術士であることに相違はないようだ」
さらにややこしくなった。つまりどういうことだろう?
「ザイード神霊術士……!」
術士がざっと、アダムの目の前に膝をつく。
「なぜ、このようなところに……! あなた様は、テンペスタが誇る最高位の術士でございます! どうしてディルクルムで、そこの男に従うような真似をしていらっしゃるのですか!」
辛うじて纏っていた化けの皮が完全に剥がれている。ぎらぎらと光る瞳を冷めた目で見つめて、アダムは端的に答えた。
「私は生前、この地で捕虜となった。だがテンペスタは捕虜交換に応じなかったため、私は冥府刑に処され、以来この土地で刑に服している」
「そうではなく……! あなた様は神への信仰心を失ってしまわれたのですか!? テンペスタの神ではなく、ディルクルムへ鞍替えしたと!?」
不可思議なものを見るような目で、アダムは答えた。
「異な事を。私の身に起きたことは全てが神の思し召しによるものだ。私がここで処刑されたことも、この男の罪人になったことも、神の導きに他ならない。であれば、私はそれに従うのみだ」
淡々とアダムは言葉を繋げる。
「私はテンペスタに仕えたことはない。私の主は唯一絶対の神のみである。己が属する土地に、なんの意味があると?」
澄み切った瞳は、その言葉が本心からのものだと示していた。術士が愕然とアダムを見つめ、言葉を失う。
なるほどこれが狂人というものかと、イリスは思った。これほど強い信仰心を持っているならば、確かに強い術士になるだろう。
アダムは目の前で膝をつく術士を探るように見据え、「領主」とザグレウスを呼んだ。
「なんだ?」
「彼らは術士だ。私の姿を見てアダム・ザイードだと分かるのも、恐れ多くも神の名を冠した役職で私を呼ぶのも、協会により信仰心を叩き込まれた術士のみだ。だが、この畏怖の薄さは異常だ」
「すまん。俺たちは割と察しが悪い。分かるように言ってくれ」
こちらを察しが悪い仲間にするなと言いたいところだが、イリスも正直意味が分からないので黙った。
アダムは奇妙に感情の見えない目で、イリスとザグレウスを見つめる。
「つまり――彼らは術士だが、おそらく《《この場にはいない》》、ということだ」
「領主!」
意味を問うより先に、甲高い声が会場に響いた。夜風を入れるために開け放たれていた窓から、誰かが猛然と飛び込んでくる。
それは杖に乗ったクレイだった。
彼はこの前会ったときの態度が嘘のように、焦燥感を滲ませた表情で叫んだ。
「襲撃だ! 国境に術士がいる!」
ザグレウスが一瞬で顔色を変え、目の前にいる術士たちを見つめた。空気がはりつめ、研ぎ澄まされた刃のごとき声が発される。
「――陽動か」
術士の男はにやりと笑い、ゆっくりと立ち上がる。
「もう遅い。お前たちのような愚鈍な者が、国を殺すのだ」
イリスが唇を吊り上げて笑う。
「それはつまり、お前たちの国は私の国に喧嘩を売っているということよね?」
冬の吹雪のごとき声で嘲笑する。瞬間的な怒りを抑え、吐き捨てるように呟いた。ばちりと扇を閉じる。
「よくもまあ、私の前で堂々と、私の国を侮辱したわね」
だが、男はにい、と笑うと肩を竦めた。
「もう御身の国ではないのでは?」
「なんですって?」
「事前に聞き及んだ際は、何かの間違いかと思いましたが、どうやら御身は本物の王女殿下のようだ……なんとお労しいことか……」
意味が分からず眉をひそめる。男は下賎な笑みを浮かべ、嘆くように首を横に振った。
「御身がそれほど哀れな姿になっているとは存じませんでしたな。まさか、玉体を喪い、このような野蛮な土地で刑に従事しているとは」
イリスは愕然とした。辛うじて表情に出すことだけは抑える。
自分が冥府刑に処されたことが、知られている……?
なぜ。どこから。
可能性の欠片が脳裏を駆けた。王都に他国の間諜がもぐりこんでいた? それとも貴族の誰かが口をすべらせたのか? 否、その程度で他国にまで話が伝わるはずが……
「ですが、ええ、これこそ噂に違わぬ傾国王女……その心根はお変わりないようで安心致しました」
イリスはヴェールの向こうでひくりと頬をひきつらせた。嫌味か?
しかし術士は心底安堵した様子でまなじりを下げた。
「これなら、あの方も満足なさるでしょう」
「……何?」
その言葉に、頭の中で警鐘が鳴る。捨ておくなと脳が叫んだ。だが同時に、術士は気色の悪い笑みを浮かべると、すうっとその場に溶けるように消えていく。
「では王女殿下、また。次はもっと相応しい場でお会いできることを、祈っております」
「待て!」
ザグレウスが素早く剣を抜き放ち、そのままの勢いで術士の足元を払った。しかし、剣はするりと術士の足をすり抜ける。
術士はそのまま、みずからの護衛たちを置いて、ふっと姿を消した。
「幻術が使える術士か……!」
イリスは男の消えた場所をじっと見つめ、黙考する。
おそらく術士は最初から国境付近にいて、この会場には来ていなかったのだろう。レ・ヴァリテを不意打ちで襲撃しようとしているのだ。
招待した術士だけなら対処のしようもあったが、大量の軍に国境を荒らされるとなると話は別だ。何より、ここはレ・ヴァリテである。騒ぎを収めようとするのではなく、混乱に乗じて脱獄を試みる人間ばかりの土地だ。
罪人たちが暴れ回って、市民に危害を加えられてはたまらない。
術士の護衛としてついていた男たちが、一斉にすらりと剣を抜き、ザグレウスたちの前に立ちはだかる。ザグレウスが眉根を寄せてイリスを背に追いやった。
「アダム、やれるか」
「難しかろう」
アダムは一切顔色を変えず、ずらりと並ぶ兵士たちを見やる。
「私は確かに、生前の術をいまだに『傷』として有している。だが、それは既に変質してしまった。生前のように、誰彼かまわず眼前に『大切な人間』を見せることはできない。私の術が効くのは今や、信仰心を得た術士のみだ」
「分かってる分かってる。傷持ち全員の傷くらい把握してるに決まってるだろ。ていうかお前、馬鹿正直に全部言うな。ハッタリかますとかないのか」
「我が神は嘘を嫌う」
「融通のきかない野郎だな……だが剣は扱えるだろうな? 応戦くらいはしろ。お前は既に死なない体だ。それが有利なことには違いない」
ふむ、とアダムは頷き、無駄のない動きで剣を抜き払った。
「我が身は既に罪人と成り果てた。看守に従うのもまた義務か」
「何を言ってるかよく分からんが戦ってくれ。姫いさん、あんたは後ろに……姫いさん?」
イリスは俯いたまま、ぐっと拳を固める。頭の奥が妙に冷えていた。
そもそもイリスは、何かに苛立ったり腹が立ったりした経験が極端に少ない。イリスにとって大抵の人間は守るべき弱者であって、怒りをぶつけるべき存在ではなかった。つい先日、初めて心の底から激怒したくらいなのだ。
だから、抑えが効かない。
……ああ、ああ、腹が立つ!
「おい、姫いさ……」
自身に伸ばされた手を、しかしイリスはするりと避けた。男二人の脇を自然な動きで通り抜け、兵士たちの前に立つ。
そして、静かに口を開いた。
『――跪きなさい!』
刹那、十数名の男たちが一斉にがくんと膝を折った。がしゃがしゃと剣同士が不快な音を立てて床に落ちていく。
イリスは己のヴェールをむしり取った。広がった視界の中で、目を白黒させる兵士たちを睥睨する。
「ねえ、もしかして、お前たちのことを、私が許すとでも思っている?」
低く、這うような声が響いた。
「お前たちの国の術士は、あろうことか私の国を愚弄したわ。お前たちは、許されると思っているの? 私の目の前で、のうのうとディルクルムの国境を侵そうとする愚行を、私が寛大な心で許すとでも? それとも、許されなくても、五体満足で帰国できると思っている?」
がん! と、高いヒールが床に振り下ろされた。
「お前たち、私を舐め腐っている?」
今や、言霊がなくとも誰も動けないほどに、空気が凍りついていた。瞳孔が開ききったイリスの両目が男たちを捉え、その口から炎の声がほとばしる。
「我が名はイリス・ヴィエーラ・ディルクルム! 我が国を侵し、嘲り、あまつさえ我が兄の統治せし世を脅さんとする不敬、許されるなどと思うな!」
少女は吠えた。怒りの滾るまま、雷鳴のごとき声を響き渡らせる。
そのとき、兵士の一人がぐぐっと体を起こし、どうにか剣に手を伸ばそうとした。
ぐるんとイリスの首が回る。
『誰一人動くな! そのまま地べたに這いつくばりなさい!』
瞬間、男は再び床に沈み、くぐもった悲鳴があがる。
重く、冷たい、泥のような重力が兵士たちを頭から押さえつけていた。
「この地は東方城砦レ・ヴァリテ領! あらゆる罪過の墓場と知れ!」
男たちを残らず床に縫いつけたところで、イリスはザグレウスを振り仰いだ。唖然とする彼に、静かに告げる。
「ザグレウス、早く国境へ。ここはお前の土地なのでしょう。お前の民を守らなければ」
彼は氷解し、顔をゆがめてイリスを見た。
「姫いさんをここに置いていけと? 冗談じゃない。いくら術士がここにいなくても、そいつらは十分脅威だ」
「私の言葉一つ抗えない奴らなんて気にしなくていいわよ。それに一人じゃないわ。フィニもシオンも手伝ってくれるもの」
イリスが会場を見回し、「フィニ! シオン!」と強く呼びかける。すると、給仕に徹していた少年二人が、ハッとした顔でこちらに駆け寄ってきた。
「イリス様、何が……ていうかさっきの何!?」
「仕置きよ。野犬は躾がなっていないったらないわ」
「アンタ、王女なんだろ? 目が据わってて怖ぇよ。もうちょい優しい顔しろよな」
驚きと呆れをそれぞれ表情に滲ませた少年が二人、イリスとザグレウスを見た。金の髪と黒の髪が、揺れ動きながらコントラストを描く。
「ザグ兄、国境行くの? 傷持ちの奴らも連れてく?」
「ええ、そうしなさい、ザグレウス」
答えたのはイリスだった。唖然とするザグレウスをよそに、フィニとシオンの肩を掴む。
「それからあなたたちには、そこの躾がなってない野犬どもを縛り上げるのを手伝ってほしいのよ。できる?」
二人の少年は顔を見合わせ、同時に頷く。
「いいよ。罪人縛るので慣れてるし」
「フィニってすごいよな。俺はあんま慣れたくねえよそれ。仕事ならやるけどさ」
「おい待て俺は許してないぞ。姫いさんを一人にさせられるか」
「じゃあどうするというの」
ふつふつと沸く怒りをどうにか抑え込んで、イリスは低く唸った。
「このままおめおめと、ディルクルムの国土が侵略されるのを黙って見ていろとでも? 冗談じゃないわ。私はお前に、国境防衛線を侵されるような無様を許したつもりはないわよ!」
ザグレウスの胸ぐらを掴み、少女が吠える。
「お前の仕事は、レ・ヴァリテの土地に住まう、全ての民を守ることよ。それ以上に、お前が優先すべきものなどないわ! この土地に住まうものは全て、お前の民で、私の民よ!」
わずかに怯んだ男の目を真っ直ぐに見据える。
頭の奥ががんがんと痛む。眼裏は焼けるように熱かった。
「民なき国など許されない、民を守らぬ領主も王女も必要ないわ! お前が元平民だろうと関係ない。自らの意思で、辺境伯としてこの土地に立ったのなら、その役目を果たしなさい!」
ザグレウスが目を見開く。一瞬、その目に奇妙な色が浮かんだ。例えるなら、捨てられた子犬のような、母親を探す子のような、大切なものが手から滑り落ちたような、痛みをこらえる表情だった。
イリスは思わぬ態度に少し動揺した。もしかして、言いすぎただろうか?
しかし、ザグレウスはすぐに不機嫌そうに顔をしかめて、静かにイリスの手を外させる。大きく息を吐いて俯いた。
「立たせた奴が、よく言う――」
ぼそりと呟かれた言葉に、イリスは眉をひそめた。だが問い詰めようとした矢先、ザグレウスがぱっと顔を上げる。有無を言わさぬ動きで、彼はイリスの両肩を掴んだ。
「約束しろ、姫いさん。ここから離れるな。危ないことはするな。無闇に傷を使うな」
「分かっているわ。お前が国境を守る代わりに、ここにいるお前の民は私が守ってあげる」
「全然分かってねえなこのお転婆」
「は!?」
お転婆……!?
今まで生きてきて一度も言われたことのない評価に、イリスは思わず仰け反る。そりゃあ傾国王女なのだから、落ち着きのある立派な令嬢だとも言われたことはないが!
突然の暴言にイリスがまごついている間に、ザグレウスは覚悟を決めた顔をした。身を翻し、よく通る声をその場に響かせる。
「――これより国境防衛線へ向かう! 傷持ちは俺に続け!」
ここまで読んでいただきありがとうございます!今回の話は書きたかったシーンのうちの一つなので、無事に出せて満足しています。普段からやや尊大な人がもっと尊大に命令するシーンが好きでして……
この先も読みたいと思っていただけたなら、ブクマや星を押していただけると、今後の励みになります!




