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第2話 死神辺境伯

 告げられた名前に瞠目どうもくする。


「カルニフェク……お前が……!?」


 イリスは男の姿をあらためてざっと眺めた。おそらく年は二十代前半、漆黒の髪を長く伸ばし、後ろで雑にくくっている。瞳の色で気づくべきだった。現在のカルニフェク辺境伯とは会ったこともないが、容姿と年齢だけなら知っていたのに。

 ザグレウス・カルニフェク。ただでさえ冥府刑を執り行う家として、代々(けむ)たがられがちな『死神辺境伯』――その中でも、きっての問題児と噂の男だ。

 ディルクルムに昔から伝わる死神と同じ容姿を持ち、若くして代替わりを経て、カルニフェク辺境伯を継いだという――


「で、これからあんたの命を握る予定の男だ。よろしく、姫いさん」

「は?」


 止める間もなかった。一方的に告げるなり、何故か彼は毒杯を自らあおったのだ。

 周囲から悲鳴が上がる。イリスはぎょっと目を見開いた。


「お前、何をっ……!」


 だが、その先は言葉にならなかった。

 ザグレウスが、唐突に口づけてきたからである。


「っ!?」


 驚く暇もなく、毒酒が口腔こうくうを満たした。奇妙な甘みが喉を通り、胃の中に落ちていく。

 瞬間的に舌が痺れた。ずぐ、と心臓が強制的に鼓動を早める。

 数拍置いて、喉の奥が絞まったような閉塞感を感じた。イリスは毒の効果を知っている。ここから、呼吸が徐々にできなくなっていくのだ。

 だがそんなことより、目の前の男も毒酒を食らっているという事実が、イリスの頭を占めていた。


 唇が離れた瞬間、怒鳴りつけようとしたイリスの口が今度は手で塞がれる。耳元で掠れた声がした。


「化けの皮が剥がれかけてるだろ、姫いさん。黙っとけ。悪いようにはしない。あんたをきちんと悪女のまま死なせてやる」


 イリスは目を見張る。どうやらザグレウスは知っている(・・・・・)らしい……が、今言ったことが嘘ならただではおかないと思った。ここまで来るのに、どれだけ自分たちが苦労したと思っているのか。

 毒のせいで早くも視界がかすみつつある。だが、イリスはほとんど気力だけで目を開き、壇上の兄を見つめた。


「にぃ、さま……きいて、なぃ、わ」

「私も聞いていない。……カルニフェク辺境伯。これはどういうことだ。あなたに頼んだのは冥府刑の執行のみのはず……何をしている?」

「冥婚ですよ、殿下」

「何?」

「だから冥婚です。あなたの妹御を、俺の妻として迎え入れたい」

「は……!?」


 仰天したのはイリスだった。突然こいつは何を言っている?

 だがザグレウスは冗談のように笑いつつも目だけが全く笑っていない。浅くなっていく呼吸と共に、イリスの中でぐるぐると考えがめぐっていく。


 この国で冥婚と言えば、東方国境で歴史的に存在した風習に他ならない。嫁ぐ前に死んでしまった若い娘への弔いとして、生きている若い男と形だけの結婚をさせるというものだ。だが、その風習は既に過去のものだし、現在はさまざまな理由から、冥婚は行われていないと聞く。


 否、そもそも……

 イリスは全力で顎を持ち上げ、深紅の瞳の男を見つめる。当たり前だが初対面だ。求婚される謂れなどあるはずもない。

 結婚……するのか? この男と? 何故?

 脳内で疑問符が飛び交う。というかそもそも、それって今でなくてはならないのか?


 絶賛大混乱中のイリスを一瞥し、アストラスがゆっくりと目をすがめる。怜悧な視線がザグレウスを射抜いた。


「イリスは罪人だ。そして、今から一度殺さねばならない。そんな彼女とどう婚姻を結ぶと?」

「だから冥婚なんですよ。俺たちの家に古くから伝わる風習で、秘術です。殿下が知らないはずないでしょう」


 彼は喉の奥で軽く音を立てて笑った。人差し指を立て、秘密の話でもするかのように唇に当てる。


「俺たちカルニフェク辺境伯は死者の魂をこの世につなぎ止めて、刑に従事させている……だがこの力は元々、俺の治めるレ・ヴァリテ地方に伝わる、冥婚という秘術に使われていた。レ・ヴァリテではその昔、死者の魂をこの世に留めて、生者と婚姻を結ぶことだってできたんです。今やその力は冥府刑とやらに昇華されていますが……まあ、冥婚も冥府刑も大して変わりませんよ。魂を縛った相手に罪を償わせるか、結婚するか、その程度の違いでしかない」


 いや何もかも違うだろとイリスは思った。この男は正気か?

 アストラスは数秒黙りこみ、足を組みかえる。


「わざわざ罪人を妻にする必要が? こう言ってはなんだが、貴族の女性と結婚することが、あなたにとってそう難しいとは思えないが」

「罪人だからいいんじゃなくて、姫いさんだからいいんですよ。そりゃ俺も何回か婚約くらいしましたけど、うちに住みたがる令嬢なんてほとんどいないんです」


 やれやれとでも言いたげに、彼は軽く肩をすくめた。


「何せ毎晩、墓地みたいな土地をまつろわぬ民と死んだ罪人がうろうろしてますから。ご令嬢なら大体がぶっ倒れるか、気が触れるか、泣いて実家に返してくれと懇願する……殿下もご存知でしょう? うちの家の離縁率は国内随一だってこと。その点、姫いさんは完璧だ。これほど傲慢で尊大な罪人なら、うちでもうまくやっていけるでしょう」


 全方向に失礼な男である。イリスは舌打ちをしようとして、既に舌が痺れて動かないことに気がついた。

 そんなイリスをちらりと見て、ザグレウスは不意に、ドレスからのぞいた細い腕に触れてきた。否、触れたのはイリスの手首を拘束している鎖だ。どういう仕組みなのか、彼が触れたところから鎖がばらりと解ける。


 体が急に自由になり、図らずもザグレウスの胸によりかかるような姿勢になった。

 見上げた先で、血のような虹彩が光っている。


「こうしている間にも罪人は増え続ける。養子を取るにしたって妻は必要だ。俺の代で罪人を全員自由にしたって構わないってことなら、それでもいいですけどね」


 王子への言動とは思えない軽薄さである。周りの貴族も恐怖におののくばかりで、何も言えない。


 イリスはそこでぼんやりと思い出した。カルニフェク辺境伯は代替わりが少々特殊で、血縁関係にある者が次期当主になるとは限らない。当代のカルニフェク辺境伯も、確か平民出身なのだ。

 だからといって王族にその態度は正気を疑うが……


「それにほら、前例がないわけじゃありません。確か三代前にも、死んだ女性を引き取って冥婚を行った当主がいたはずです。五代前には、冥婚ではないですが、罪人を妻にした当主がいました。なら……冥府刑に処された罪人を妻にしたって問題はないでしょう?」


 この男の頭は本当に大丈夫なのだろうか? 悪いようにはしないと言われたが、何も安心できない。言動が支離滅裂だ。


「……本当に、イリスを妻にするつもりか? それは、私の命を狙った大罪人だ。国防の要でもあるカルニフェク辺境伯の家に引き入れると?」

「冥府刑に処す場合だって引き入れてるようなもんでしょう。どうせ俺の土地で面倒見るんです。冥府刑も冥婚も似たようなものですよ」

「……」

「安心してくださいよ。冥府刑と同様に枷はつけますし、最終的には俺の命令に従わせます。そもそも、国境防衛戦のために罪人を連れていくことだってありますし、そういうのとあんまり変わらない気がしますけどね」


 いや変わるだろ、とイリスは思った。もうそろそろ口もきけなくなってきたが、目だけで兄に訴えかける。

 一瞬だけ、アストラスと視線が交わった。怜悧な視線がイリスの瞳をなぞり、刹那、強く輝く。

 そして不意に目を閉じ、開いた。


「……いいだろう」

「っ!?」


 ぎょっとした瞬間、がくりと足から力が抜けた。ほとんど倒れこみそうになるのを、ザグレウスが支える。

 イリスは盛大に顔をしかめる。その場に打ち捨てておけばいいものを、何故この男は――


「お前とイリスの婚姻を許可しよう……でなければ、お前は冥府刑を執行しないつもりだろう。カルニフェク辺境伯」

「そんなふうに見られるのは心外ですけど、まあ、そろそろ姫いさんも死んじゃうんで、早く決めてくれて助かりました」


 周囲から息を呑む音が聞こえてくる。既に力なく彼にもたれかかっていたイリスは、気力を振り絞ってザグレウスを睨んだ。痺れきった舌を無理やり動かす。


「っ……、お、前……どういう、つもり……」

「姫いさん、まだ喋れるのか? すごいな。でももう眠っておけ。あとは全て俺がやる」


 穏やかな声だった。瞼をあたたかな手のひらで覆われ、瞬く間に眠気が襲ってくる。

 イリスは混乱した。この男の目的が分からない。どうして。何を知っていて、こんなことをしているのか。

 不意に顎をすくわれ、再び口づけられた。もう抗う気力もない。


「東方国境レ・ヴァリテを収めし、第三十二代カルニフェク辺境伯、ザグレウス・カルニフェクの名の元に告げる」


 歌うように、口ずさむように、声が聞こえる。


「――いらえよ」


 音が、降る。


いらえよ、いらえよ、奈落のふちより生まれしもの……その御霊みたまの巡りをこの身に留め、我が背骨こそをくさびと為せ」


 彼の手が少しだけ浮いて、その手のひらから、イリスの額に大きな陣が展開される。

 瞬間、踵から背中、うなじから頭の先まで、何かが雷のように駆け抜けた。体ががくんと引きずられる。背を支えられなければ後ろに倒れていただろう。


は天命、我は罪。然るべき日に――あがないの炎を」


 ごう、と風が吹く。意識が急速に閉ざされていき、何かが「成された」ことが漠然と分かった。この世にあるはずの自分のよすがが、端から失われていくような喪失感。


 その中に、一つだけ残ったひかりがあった。咄嗟に手を伸ばし、伸ばし、伸ばし――掴む。

 こちらが掴んだと思ったのに、いつの間にか握り返されていた。

 それは手だった。


「おやすみ、姫いさん」


 水底から響くような言葉が聞こえて、そして、それっきりだった。

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