第1話 傾国王女
新しく連載始めました!またしてもドッタンバッタンやってる恋愛劇です。主人公は冒頭2話で死にますが最終的にはハッピーエンドです。
そこは豪奢な会場だった。
王家の主催する晩餐会でも使われる、王城の一角にある舞踏会場だ。煌びやかなシャンデリアが輝き、夢のような食事が並び、楽団の音楽が響き渡っているはずのそこは、しかし今、静寂だけが満ちていた。
王都に存在する数多の貴族たちも、一人として言葉を発しない。誰もがある一点に目を向け、恐れるように口を閉ざしている。
漆黒のドレスを纏った少女が、視線の中心に佇んでいた。
月のような女だった。
年は十六、七ほど。腹まで伸びた亜麻色の髪を高く結い上げ、大ぶりのすみれ色の瞳をゆるりと瞬かせる。夜のような静けさと、抜き身の刃のような鋭さを合わせ持つ目だ。
彼女の袖からのぞくほっそりとした手首は、雪を固めたかのように真白い。漆黒のドレスと相まって、ちらちらと眩しく煌めいている。
だが最も大きな存在感を放つのは、彼女の腕に巻きついた鎖だった。手首を拘束するそれは、彼女の首に嵌められた無骨な鉄の首輪に繋がっていた。鎖の音は鳴らない。少女が全く動いていないからだ。
天から糸で吊られたような姿勢で、微動だにせず立ち尽くしている。
そんな彼女の目の前には、一つの銀の杯。
「イリス・ヴィエーラ・ディルクルム」
不意に呼びかけられ、少女は軽く顔だけを上げる。
「どうしてここに呼ばれたのか、お前にはもう分かっているな」
「……ええ、お兄様」
会場の端にある一段高い場所。王家の者にしか座れない場所に腰かけている男を見て、少女──イリスは微笑んだ。
彼はアストラス・ヴィア・ディルクルム。このディルクルム王国の次期王位継承者であり、イリスの兄であり、この場において、イリスを殺す者だった。
彼はかすかに眉を寄せ、首を振る。
「私を兄と呼ぶか。その口で。私を王へと押し上げる気があったのか? 私のもとに暗殺者を向かわせた、その手で」
会場にざわめきが満ちた。まさか、とやはり、の音が混在する場で、イリスは沈黙を貫く。
ひどく無垢な瞳で、兄の姿を真正面から眺めている。
アストラスはそんな妹を見下ろし、低く呟いた。
「次期王位継承者たる私の命を狙ったこと、その目的が自身の王位継承のためであったこと……相違ないか」
「ええ、お兄様」
「……まだ私を兄と呼ぶか」
「それ以外にありませんでしょう?」
瞬間、周囲の貴族たちが顔を顰める。
「不遜な……」
誰かが呟いた言葉に、イリスはぐるんと顔をそちらへ向けた。
「不遜? 誰が? まさか、私が?」
唇の端を吊り上げて、くすくすと笑う。鈴のような笑い声はたちまち大きくなり、狂ったような哄笑に変わった。とても齢十六、七の少女とは思えぬ、ひどく醜悪な声だ。貴族たちが慄いた様子で口を閉ざす。
「私が誰をなんと呼ぼうと私の自由ではなくて? この国においてお前たちは、いつの間に私よりも偉くなったのかしら?」
艶めかしく小首を傾げて、真っ黒な声で挑発する。
「所詮、私たち王族に生かされなければ民の上にも立てないお前たちの、どこに私を侮辱する権利があるというの? こんなときでなければ暴言のひとつも吐けないくせに、自分が情けないとは思わない? よくもまあ、己の恥を堂々と晒して生きていられるわね。惨めったらしく私に頭を下げていたときのことを忘れてしまったのかしら」
あまりの暴言に青ざめる貴族たちを見て、少女はけたたましく笑った。それに合わせてガチャガチャと金属音が鳴る。ドレスが黒くて分かりづらいが、鎖は確かに彼女を拘束していた。
だがそんな状態にあっても、イリスは一切悪びれず、壇上のアストラスを見つめた。
「ねえお兄様、私を哀れだとお思いになる? 私、お兄様が私をどう思っているのか知っているのよ……ふふ、お父様とお母様に甘やかされたあげくに国庫を食いつぶして、侍女をことごとくいじめ抜いて辞めさせ、時には婚約者にも戯れに毒を飲ませて、とうとうお兄様の命まで狙った、哀れで愚鈍な妹……当たっているわよね?」
すらすらと自分への評価を並べ立て、「でも、しょうがないでしょう?」と徒花のような微笑みを浮かべる。にい、と釣り上がった口角は悪魔のようだった。
「お父様とお母様が、私にはなんでも許されると仰ったのだもの! 私が何をどれだけ願っても、お父様とお母様が全部許してくれた! お父様とお母様は国の父と母で、私はその娘。なら、全てが私に傅いてしかるべき……私は、お父様とお母様に、確かにそう教えられてきたのです。お兄様だってご存知でしょう?」
けらけらと笑っていた彼女の顔から、すっと表情が消えた。
「なのに、今さら私のやることが許されないだなんて、ひどい裏切りだわ」
「……」
「そんなに私のことがお嫌い? 庶子であるお兄様をわざわざ引き取って、男爵令嬢だったお兄様の母親を第二夫人にまで引き上げたのは私たちのお父様なのに?」
小首を傾げた拍子に、無骨な鎖が耳障りな音を立てる。瞳だけがどこまでも純粋無垢で、周囲の人間は絶句するばかりだ。
「そんなお父様に愛されている私が、王位を継げないだなんてどうかしているわ。正妻の娘である私が、卑しい男爵令嬢の息子であるお兄様よりも王位継承権が低いだなんておかしいわ。そうは思いませんこと?」
アストラスはぎりと唇をかみ締め、肘置きを力の限りに握りしめていた。イリスとは異なる金の髪は、父である現国王から受け継いだものだ。残念ながら、王は病床にあり、この場にはいないのだが。
本当に似ている、と思いながら、彼女は兄たる男を見つめた。ふっ、と微笑む。
「ねえ、お兄様?」
徒花のような微笑みを浮かべながら、少女は思う。
言え。言ってしまえ。決定的な一言を。
その瞬間のためだけに、自分はここに立っている。
「……イリス・ヴィエーラ・ディルクルム」
微笑む妹を見下ろし、兄たるアストラスは告げた。
「次期王位継承者の暗殺未遂。国の定める罪の中でも最も重い部類だ。いくら王家に名を連ねる者とはいえ、お前には流刑も、離宮への追放すらも許されない。だが、仮にも王女であるお前を極刑にすれば、民たちの間にも不安が残ろう……よって、お前を『冥府刑』に処す」
ざわめきがにわかに大きくなる。貴族たちが幾人か悲鳴のような声を上げた。
「殿下、それは……」
「あまりに……いっそ死罪にしたほうが……」
「お待ちを、殿下! 王家の者が冥府刑に処されたなど……! そちらのほうが民に不安を与えましょう!」
「そうです! 第一、冥府刑を実行できるのは……!」
「お静かに」
かんとよく響く声が、貴族たちの言葉を遮った。
アストラスの隣に彫像じみた顔で立つ男だ。喜怒哀楽が抜け落ちたような無表情をしている。
彼は第一王子親衛隊隊長、ガルシア・ヴィトゥスだ。氷のような視線が会場中を駆け、低い声が響きわたる。
「殿下のお話が、途中です」
「ありがとう、ガルシア。……冥府刑についてだが、当然、準備は済んでいる」
すっと手を上げ、彼は会場を見渡した。
「知っての通り、冥府刑とは『生きている間には償えない罪を犯した者』に処される刑だ。とてもではないが死罪すら生ぬるい大罪人や、年老いて罪を犯し、刑期を全うできない罪人がこの刑に処される。罪人を一度殺し、或いは老衰死まで待ち、魂だけをこの世に留め、償わせる……何百年続こうと罪人に罪を贖わせるのが、冥府刑だ」
その場に沈黙が落ちた。死罪にしてこの世から逃がすことすら許さない。冥府刑はそういう刑である。そして滅多に執行されないぶん、この刑には執行そのものにも「条件」が課されていた。
「冥府刑には『執行人』が必要だ。死んだ者の魂をこの世に留めるのは、普通の人間にはできない。それは『執行人』たる才を代々受け継ぐ者……東方国境を守護するカルニフェク辺境伯の仕事だ。かの辺境伯当主は代々、冥府刑に処された罪人を自らの領地で管理する刑務官でもある。通常ならば辺境伯の領地に罪人を送り、そこで処刑を実行するのだが……今回は事が事だからな。冥府刑が確実に為されたかを私の目で確認するためにも、ここで刑を執行しなければならない……そのため、この会場には既に、かの辺境伯を呼んである」
貴族たちがはっと息をのみ、イリスも周りを見回した。が、それらしい人物は見えない。王族たる自分は、社交界の人間の顔をおおよそ把握しているはずだが……
「無駄だ、イリス。お前にも分からないようにしている。唯一封じられていない口で、辺境伯の喉を噛み切られたら敵わないからな」
酷薄な言葉が投げかけられ、イリスは思わず笑った。
「お兄様、私をなんだと思っているのですか?」
「罪人だ。死罪すら許されないほどの」
表情のない瞳の奥で、何かが燃えている。イリスはため息をつきそうになるのをこらえた。慣れないことなどしなければいいのに……
アストラスはそんな妹の姿をじっと見つめ、首を振った。
「国民には、イリス第一王女は病に伏せり、数ヶ月ほど離宮で療養した後に、急逝。『まつろわぬ民』としてカルニフェク辺境伯に引き取られた……と説明しよう。皆、異論はないな」
まつろわぬ民とは、死してなおこの世に未練を残し、ほとんど生前と変わらぬ姿に魂の形を保ったまま残ってしまう人間のことだ。まつろわぬ民もまたカルニフェク辺境伯が引き取り、領地で魂が天に昇るときまで待つのが通例だった。確かに、その説明ならば一応、筋は通る。
アストラスが手を上げる。すると、一人の騎士がイリスの前にあるテーブルに近づき、杯に黒い液体を注いだ。ただのワインに見えるそれが何か、イリスは知っている。
高位の貴族を処刑するときに使われる、毒酒だ。
「執行だ」
兄の言葉と共に、イリスの右肩が背後から掴まれた。先ほどワインを注いだ騎士が左隣に立ち、ぐるりとイリスの背に腕をまわして右肩を掴む。そうして、左手で毒杯を掲げた。肩に回された腕ががっちりと背を支え、身動きが取れない。ただでさえ鎖で拘束されているイリスはたちまち一歩も動けなくなった。
口元に毒杯が迫る。
その瞬間、イリスは再び笑った。自分を見下ろす騎士の瞳を見上げる。彼の虹彩は、血のように深い紅の色をしていた。
「お前、私を殺す役目を負ったの? 運がいいわね」
ぴた、と手が止まる。男の目は不自然な程に凪いでいて、イリスは少し不思議に思った。こんな騎士、城の中にいただろうか?
だがすぐに疑問を頭から払って、唇を歪める。
「お前、私と一緒に冥府に落ちるわよ。私が呪ってあげるもの」
毒花のような笑みを意識して、まなじりを緩めた。
「光栄に思うといいわ。冥府の底で、私の護衛として歩めるのよ。冥府の番人に食われるお前を見るのは、さぞかし楽しいでしょうね。そんなことはできないと思う? 婚約者だって呪ったのよ、私。お前一人、すぐに呪い殺してあげる――」
蠱惑的に微笑んで、男にしなだれかかる。このまま、男の首に食らいついてやっても良かった。それくらいは、イリス・ヴィエーラ・ディルクルムとして当然の行動だからだ。
「へえ、気が合うな。地獄を歩くなら、あんたくらい気が強い女のほうが面倒がない」
「え?」
だがそのとき、騎士とは思えぬ言葉が頭上から響いて、イリスはぱちりと瞬く。刹那、深紅の瞳がにい、と歪んだ。
淡々と仕事をこなそうとしていた騎士の姿はそこにはなく、皮肉に満ちた笑みが視界に広がる。表情ががらりと変わり、たちまち飄々としたまなざしがイリスを捉えた。
瞬間的に硬直したイリスは、はくり、と口を開けた。
「――お前、誰」
血濡れの虹彩に、呆然とするイリスの姿がくっきりと映っている。
果たして、男は答えた。
「ザグレウス・カルニフェク」
読んでくださってありがとうございます!
まだまだ話は続きますので、面白いなと思ってくださったら、ブクマや星をぽちぽちしていただけると嬉しいです。